他人の婚約者
家督を継がない貴族の次男の選択は、男子のいない貴族の養子になるか、自分で身を立てるしかない。
カスティリーニ侯爵家の次男として生まれたエルネストも、いずれはどちらかを選択しなければならなかった。
五つ上の兄、オーパルは家督を継ぐのに申し分ない才覚と人格を備えていて、兄が将来カスティリーニ侯爵になることに、異論を唱える者は誰もいない。
いずれカスティリーニ侯爵は兄が継ぐ。そして妻を迎え子を成し、そして自分は外から兄を支える。
それが彼の描く未来だった。
結婚するのもしないのも、彼は自由だった。
エルネストは剣術の才能があった。いずれはどこかのご令嬢と結婚し養子に入るとしても、それまでは騎士として自分の力を試してみよう。
彼が騎士団に身を置いたのは必然だった。
剣術以外にも彼には才能があった。
一度見た者の顔は忘れない。そして人を見る能力。腹に何か企みを持つ、腹黒い人間を見分ける能力が彼にはあった。
そんな彼が秘密の任務を担うようになったのも、また当然のように思えた。
裏切り者や間者を摘発し、報告するのが彼の仕事だった。
相手の懐に入り込み、油断させ寝首を掻く。
表向きは一介の騎士団員。そして裏では情報を集める。
それが彼の仕事。
彼がブリジッタ・ヴェスタのことを知ったのは、国境でジルフリード・ルクウェルと出会った時だった。
隣国とはここ百年ほど、表面上は友好な関係を築いている。
だから警備もそれほど厳しくはない。
中には隣国ラッタルの国境近くの街、トワユに酒と女を求めて遊びに行く者もいる。
とは言え、油断から何があるかわからない。
間者が紛れ込んだり、自国の者が情報を隣国に流したりする可能性もある。
それを調査するため、エルネストは名前と姿を隠して一騎士として赴任した。
ジャイル・ダントンと名乗り髪も、赤髪から濃茶色に変える。そして髪と同じ色のあごひげを付ける。
情報収集のために、世間話などをして近づくのだが、王都から来たばかりの彼に、皆が最新の王都の様子を聞きたがった。
ひと通り皆と話をしたが、ジルフリードだけは、話の輪に入ってこなかった。
国境詰めの他の騎士の中にも婚約者や恋人がいる者は大勢いる。だからジルフリード・ルクウェルだけが特別ではない。
しかしジルフリードの婚約者に対する態度は他の者と違っていた。
婚約者や恋人、妻を残して来た者は皆彼女たちを恋しがる。
彼女たちから来た文を目を輝かせて読み、自分の相手が一番だと自慢しあう。
なのに彼はその素振りがなかった。
それが不思議だった。
彼の婚約者が誰なのか。エルネストは知っていた。どのような経緯で二人が婚約したのかも。
政略結婚などは珍しくない。
意に染まない相手と結婚する者も何人もいる。
そんな者達は不平不満を口にする。
だが、彼はそんな素振りも見せなかった。
「君にも婚約者がいるのだろう? 俺は大して裕福じゃない伯爵家の三男だから、まだ婚約者なんて作れないんだ。羨ましいよ」
国の中で伯爵、子爵はたくさんいる。全てを把握している者などいないので、エルネストは伯爵家の三男という身分を使っていた。
「婚約者・・ブリジッタのことか」
「そうだ。婚約者が恋しくないか?」
「恋しい? なぜ?」
エルネストがそう問いかけると、ジルフリードはちらりと彼に視線を向けてすぐに興味なさそうに視線を戻し、ぼそりと呟いた。
その時エルネストは悟った。
ジルフリード・ルクウェルという人物は、他人にまったく興味がないのだと。
好きとか嫌いとか、普通の人間なら持つ喜怒哀楽の感情が彼には欠落している。
頭がいいから他人の仕草などを見て、こんなときはどうしたらいいか。こんなことを言われたらどんな風に言えばいいか理解し、それらしく振る舞っているが、本当の意味で人の感情というものを理解していない。
そんな彼を、常に冷静で動じない肝の据わった人間だと思う者もいるだろう。
騎士としてはそれでいいかも知れない。
焦りや驕り、動揺や恐怖は時に人の判断を狂わせ、大事な場面で命を落とす危険をおかす。
しかし、そんな男の家族ともなると、好きなのか嫌いなのか、怒っているのか喜んでいるのかまるでわからないと、何を言ってどう向き合えば良いのかわからないだろう。
まして、彼の婚約者は祖父同士の約束で結ばれただけの格差結婚。
ルクウェルの両親、特に母親はこの婚約に納得していないと聞く。そして周囲からも妬みややっかみで厳しい批判を相手は受けているという噂だ。
見た目は申し分ないルクウェルの容姿を好み、伯爵家との縁組みに対し打算的な気持ちで受け入れいているなら、まだ相手も救われるだろう。
だが、もし愛し愛されることを望んでいるなら、報われないことは目に見えていた。
ルクウェルの婚約者は、物静かでおとなしい性格だと聞く。
だったなら、今の自分の状況を潔く受け入れているのだろう。
エルネストはそう思っていた。
所詮は他人の婚約者なのだから。