新しい人生
ブリオール卿は近くの村へ往診に行った帰り、街道を逸れて入っていった馬車の轍の跡を見て不審に思って来たのだった。
ブリオール卿は医師とは言え、大柄な体格で昔は騎士団に所属し、そこで専属医をしていたということで、ブリジッタを襲った御者を簡単に蹴り飛ばした。
ブリジッタは彼を見て安心したのか、すぐに気を失ってしまった。
そして高熱を出して三日間寝込み、目覚めると有紗の記憶を思いだしていたのだった。
「気がついた?」
「ここは?」
見知らぬ部屋にいた彼女は、目の前にいた女性に尋ねた。
「私の名前はジュリア。あなたを助けたのは夫のアントンよ。そしてここは私とアントンの家。あなた、三日間熱を出して寝込んでいたの。お名前は?」
「名前・・」
彼女は混乱していた。
有紗としての記憶とブリジッタとしての記憶が混在していて、どう答えればいいかわからなかった。
「何か事情があるの?」
ジュリアは彼女がすぐに名乗らないのは、名前を口にできない事情があるのだと思ったようだ。
「大変な目にあって、まだ混乱しているのかしら。無理に話さなくていいわ。でも、家族の方が心配されているのではなくて?」
そう言われて、ブリジッタの家族を思い出した。
「家族は…いません」
思わずそう口にしていた。
「いない?」
「はい。天涯孤独になって、親戚にトリゲーの修道院に行けと言われて向かう途中でした」
「まあ、トリゲーの…あそこは戒律も厳しくて大変だと聞くわ」
「そうなんです。でも、身寄りがない私はそうするしかなくて…でも、乗った馬車の御者に…」
「ああ、大丈夫よ。それは無理に話さなくても。事情は夫から聞いたわ。かわいそうに怖かったでしょ?」
「あの、御者は?」
「それが、あなたを連れて帰るのに気を取られて、馬車ごと逃げてしまったの。ごめんなさい。あなたの荷物も無くなってしまったわ」
ジュリアは申し訳無さそうに言った。
「いえ、もともと大した荷物はありませんでしたから」
御者が逃げてブリジッタの荷物も失くなった。彼女の身分を証明するものは何もない。
(これは、チャンスかもしれない)
ブリジッタ・ヴェスタという名前を捨てて、新しく生きるのだ。
うまく行くかどうかわらないが、有紗としての記憶があれば、自立くらいは出来そうだ。
「どうしたの?まだ具合が悪いなら、もう少し横になって」
彼女が黙り込んだのを具合が悪いからだと思ったジュリアは心配して尋ねた。
「いえ、大丈夫です。あの、私はアリサと言います」
「アリッサ?」
「いえ、あ、はい。アリッサです。アリッサ・リンドーと言います」
「リンドー、変わった姓ね」
ジュリアが聞き間違ってアリッサと言ったのを、そのまま彼女は使うことにした。
「それで、これからどうするの? 荷物もなくなってしまって、トリゲーの修道院に行けば何とかなるだろうけど、まだ先は長いわ」
「いえ、トリゲーには行きません。トリゲーに行けと言ったのは親戚で、私は行きたくなかったんです」
「それはそうでしょうね。あなたのように若くて綺麗なお嬢さんが行くところではありませんもの。でも、そうしたら、どうするの?」
「あの、実は私、少し看護の知識があるんです。出来ればそういった仕事に就ければと思っています」
それは嘘じゃない。日本での看護師としての知識とここでの知識がどう違うのかわからないが、人間としての構造は同じっぽいから、役には立つのではないだろうか。
「まあ、看護の…」
「実は亡くなった父が医者でして、手伝いをしていました」
「お若いのにすごいわ。でも看護と言っても、最近は法律で一定の勉強を終えたものでないとなれないことになったの」
「え、そうなんですね。知りませんでした」
日本でも資格は必要だったが、まさかこの世界でもそうだとは思わなかった。
簡単になれると思ったのに、なかなかうまくいかない。
「そのための学校もあるけど、試験もあるみたいだし、入ったら学費も生活費もいらないらしいけど、それはどうなのかしら?」
「試験…ですか」
この国の文字はブリジッタとしての記憶があるから、読み書きできる。医療についても有紗の記憶があれば何とかなると思ったが、レベルがわからない。
「うちの主人もその学校の校長と知らない仲じゃないから、聞いてみてあげるわ」
「本当ですか!」
「ええ」
捨てる神あれば拾う神ありとはまさにこのことだと思った。
結果、彼女の学力は学校に通うには申し分ないと認めてもらえ、オルノー看護学校に入ることになった。
こうしてブリジッタ・ヴェスタとしての人生は終わり、アリッサ・リンドーとしての人生が始まった。