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26 英雄になれなくてもいいから(sideディータ)

 まだ日が昇らないうちに屋敷を出たが、目的地までの道のりはまだまだある。
 以前だったら気にならなかったのに、それを億劫に感じるのは、すっかり鈍ってしまった証拠なのか。
 ギルドを通じて依頼を受ければ、移動は基本、ゲートか移動玉で済んでしまう。だから、自分の足で延々歩くということが極端に減ってしまっているから、それを面倒に感じるのだろう。
 だが、それだけでないことも理解している。
 イリメルがここにいてくれたら、きっとただの移動も退屈ではなかったに違いない。彼女と一緒だとこまめに休憩を取るからきつくもないし、何より楽しいのだ。
 イリメルと何気ない景色を見て、何気ないおしゃべりをする――それだけで、世界が色づく気がするのだ。スイーラが加わってからは、大変ではあるもののさらに楽しくなった。
 それでも、連れてくるわけにはいかなかった。
 邪竜と戦うべきは俺で、これは俺がつけるべき決着なのだから。

 物心ついたときから、世が世なら人の上に立つべき貴き身分の者なのだと、俺は自身について教えられて育った。
 小さな村の中、かしずく者とかしずかれる者に分かれて生活していて、そこはさながら小さな王国のようだった。
 それがたとえでも何でもなく、事実なのだと知ったのは文字が読めるようになった頃だ。
 この村はかつて滅びた王国の生き残りたちが暮らす村で、そして俺は王族の血を引く者なのだと。
 といっても、その国が滅びたのは俺が生まれるよりも三十年も前の話だ。
 祖父の代に起きたことだから、当然父も知らないことである。
 俺の父は、王国滅亡の十年後に生まれたらしい。
 王国復興の旗印として大事に大事に育てられた父は、世間知らずのどうしようもない人だった。
 王国は邪竜によって滅ぼされたのだから、俺たち王国民の悲願はその悪しき敵を打ち倒して国土を取り戻すことだ。
 だが父は、邪竜を倒すために強くなる努力をすることもなければ、国土を取り戻すために何が必要なのか考えることもなかった。
 そもそも、国民の大半が死に絶えたのや、王族たちが国から逃げなければならなかったのは邪竜のせいだが、かつて王国だった土地が違う国になっているのは別の事情だ。
 治めるべき存在がいなくなったから、隣国がその土地で生き延びていた人たちに手を差し伸べただけ。そうする必要があったから、併合しただけだ。
 だからそもそも、取り戻すべき土地などもうないのだ。
 王国民を守ることなく逃げ出した王族を再び統治者に戴くなど、誰も望んではいないだろう。
 その事実を、父は見ようともしなかった。
 いつか聖女と聖なる竜が現れてくれる。そうすれば王族である自分は英雄として邪竜を倒し、再び国を取り戻す――これが、父の信じていることだった。
 村人たちがやっとのことで暮らしている貧しい国なのに、国王たる父だけは何不自由なく暮らしていた。
 父は、この〝王国〟の希望だから。
 その偽りの王国も、ちぐはぐな国王の姿も嫌で、俺は十代になってから一念発起して村を出ることにした。
 そのことを、一部の人間たちはひどく喜んだ。
 やはりあなたこそが英雄たる器なのだ、と。
 父とは違うんだ、本当に邪竜を倒すんだと意気込んでいた俺は、その言葉と彼らの期待だけを支えに旅に出た。
 そんな俺もある意味、父と変わらぬ傲慢なやつだったのだ。
 当然、うまくいくはずなくていきなりモンスターに襲われるわけだが、運よく面倒見のいい冒険者に拾われて、その人から剣を習った。
 冒険者として生きていくために必要なことも、この世界の常識も広さも、その人から教わった。だから、師匠みたいなものだ。
 師匠が言うには俺は筋がいいらしく、教えられたことはすぐに身についた。
 ただ、それだけだ。
 この世界に確かにモンスターはいるし、それを倒さなくては人々は生きてはいけないが、だからといって宿敵のような存在がいるわけでもなければ、誰かひとりが英雄になることもない。
 それぞれがそれぞれのできることを果たして回っている、それが世界なのだ。
 そのことに気づいたときに、すべてが間違いなのだとわかってしまった。
 俺が育った〝王国〟も、いずれ英雄になると信じた父も、父とは違い自分こそが英雄の器だと思い上がっていた俺も。
 だからこそ、俺は決めていたのだ。もし万が一邪竜と出会うようなことがあれば、仕留めるのは自分だと。
 英雄だから倒すのでも、倒して英雄になりたいからでもなく、ただの冒険者として邪竜に向き合ってやるのだ。
 聖なる竜も聖女もいらない。英雄を英雄たらしめるためだけにいる存在など、生み出してはならない。そのために、俺はただの冒険者であろうと。
 でも別に、そう決めたからといって人生が劇的に変わることはなかった。ただ楽になっただけだ。
 師匠と別れてからは生きるのに必死で、そんなこともいつしか忘れていた。
 生きるとは、毎日命をつなぐことだ。命をつなぐには金がいる。金を稼ぐには、冒険者として日々モンスターを狩るしかない。
 使命だとか役目だとか、そんなわけのわからないものを掲げられるのは、世間知らずの贅沢者だけなのだとわかると、生きるのはもっとシンプルになった。
 そのシンプルさこそが、流れ者の気まぐれで俺を拾ってくれた師匠の生き方そのものだった。
 それに気づいた頃、イリメルと出会ったのだ。

「最初はただ、心配で面倒見ただけなんだけどな……」

 力量に合わない強い敵に行きあってしまった不運なお嬢さん――それが、最初にイリメルを見た印象だった。
 だが、なぜモンスターを倒しているのかという問いに返ってきた答えを聞いて、すぐに彼女を見る目は変わった。
 「己の強さを試したくて」なんて、あの年頃の、しかもお淑やかな女の子から出てくるわけがないのだ。
 でもそう口にした彼女の気持ちに嘘偽りはないのは、一緒に過ごすうちにわかった。
 そのまっすぐさ、シンプルさに惹かれて、俺は共に行動することを選んだ。
 そしていつしか、勘違いしてしまったのだ。
 イリメルが、俺の聖女なんじゃないかって。
 その都合のいい解釈は、アヒムにすぐ見抜かれた。
 この国では珍しい髪や目の色だから出身地が暴かれるのは仕方ないにしても、まさか出自までわかられてしまうとは……あの男は、どこまでも侮れない。
 だが、今となってはあの男をパーティーに加えておいてよかったと思う。あのくらい抜け目がない男と一緒なら、俺が抜けたあともイリメルが困ることはないだろう。
 彼女のご両親には俺が支えると言った手前こんな結末は不本意だが……危ない目に合わせるよりはマシだ。
 イリメルが聖女である必要はないし、スイーラだってただの食いしん坊な変わった生き物だ。聖なる竜なんかであるわけがない。
 俺が邪竜をひとりで倒すことができたら、それを証明できるはずだ。
 俺は、あの子たちにはずっと笑って楽しくしていてほしいのだ。日々を生きていくのは当然大変だが、それ以上の苦しみなんてなくていい。
 食費と宿泊費を気にしてせっせと依頼をこなしていた日々が、ずっと続けばよかったのだ。
 今となっては、あの日々が遠い出来事みたいに思える。

「それにしても……きついな」

 邪竜が目覚めたとされるのは、シュティール家の領地を抜けた先にある山だ。平地で行くと時間がかかりすぎるからと山道を攻めたら、あまりにも過酷だった。
 邪竜とやらの悪影響がここまで出ているとは思わなかった。
 まず空気は悪いし、生き物の様子がおかしい。ここのところ依頼で遭遇するモンスターたちの異変はすべて邪竜による影響だったのだと、嫌になるくらい理解させられた。
 それでも、襲い掛かってくる生き物を斬り捨て、やったのことで歩みを進めるうちに、〝敵〟の存在が少しずつ近づいてきているのがわかる。
 ビリビリと、確実にその存在感を知らせてくるのだ。
 まだ目覚めたてで派手な動きはないのだろうが、そこにいるだけで禍々しさが尋常ではない。
 進むごとに瘴気は濃くなり、息がしづらくなっていた。
 近づいているのはわかるのだが、果たして邪竜のもとまでたどり着いたとき、俺に何ができるのだろうか。
 戦えるのか? こんなボロボロの体で。
 そんな不安はあるが、不思議と虚しさはなかった。
 たぶん、ずっと探していたものが見つかったからだ。
 それは、成し遂げたいことと死に場所である。
 俺は、父のようにはなりたくなかった。
 何をすべきかもわからず、ただ死ぬまで生きているなんて嫌だった。
 できることなら成し遂げたいが、そうでなくても大義のために死ねるならいい。
 体がきつすぎるせいか、思考は完全に悪いほうへと流れている。
 こんなの、らしくないと思う。何よりかっこ悪すぎる。
 きつさに抗うように思考を巡らせれば、かすみがかった向こうに本音が見えてくる。
 俺は、本当は、邪竜を倒したいんだ。
 そしたらきっと、強くなりたかった、己の強さを知りたかったイリメルの気持ちが報われる。あの子が強さを求めるきっかけになった、あのナメた男とその恋人にひと泡ふかせてやれる。
 そんなふうに考えたからか、幻聴が聞こえてきた。

『ディータさーん』

 遠くから、俺を呼ぶ声がする。

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