43、婚約破棄
「……どうしてですの?」
アリツィアは困惑した。
「イヴォナを返すことと、わたくしの婚約破棄が取り引きの材料になる理由がわかりませんわ」
「すぐに受諾してくれるとは思ってないよ。まずはこれを見て」
カミルは指をぱちんと鳴らした。
アリツィアは自分の体がふわっと浮くのを感じた。
「え? え?」
浮遊感は長くは続かなかったが、奇妙な感覚がアリツィアを包んだ。
気付けば、建物の中にいた。さきほどのお城の中に移動させられたのだろうか。
だが、何故か天井が近かった。
自分の屋敷なら、遥か上に吊られているはずのシャンデリアが同じ目線にある。
アリツィアは驚いて足元を見たーー何もなかった。
「って、え? まだ浮いてますの?」
「うん。見て、下」
アリツィアたちは、豪華な大広間の中央の上部の空間に浮かんでいた。
とはいえ、立っている感覚はある。例えるなら、透明な床の上にいるようだ。さらに、その大広間には、隅から隅までびっしりと、色とりどりの花が咲いていた。
足の踏み場もないくらいの花、花、花。
種類はバラバラで、季節外れのもの、同じ時期に咲くはずのないものが、満開を誇っている様子は、美しさと同時に、異様さを感じさせた。
「花があるから、ここに連れてきましたの?」
「だって踏めないでしょ?」
ーー踏めない? 何が?
その言葉に目を凝らせば、中央に、花に抱かれるようにして大きな寝台が置かれていることに気がついた。
アリツィアは目を見張った。
「イヴォナ!!」
寝かされていたのはイヴォナだ。
「下ろしてくださいませ! イヴォナ!」
すぐそこにいるのに。もどかしさでアリツィアは、その場で床を叩いた。
バン……バン!
手応えはあるが、変わらない。
「ダメだよ?」
アリツィアはカミルを睨み付けた。カミルは肩をすくめた。
「だから、下ろしたら踏んじゃうでしょ? ダメなんだって」
カミルは、色とりどりの花を見つめて笑った。
「この花全部で、イヴォナの生命力を表しているんだ」
「生命力……?」
「うん、イヴォナの命を見える形にしたんだ。中々難しい魔力だよ」
アリツィアは背筋がゾワっとした。
じゃあ、この花が枯れるとイヴォナは……?
アリツィアの怯えた顔を見て、カミルは嬉しそうな声を出した。
「そう。花が枯れたり、折れたりしたら、イヴォナの体力が削られるよ。だから僕たち浮いているんだ。優しさじゃない?」
こんな状況を作っておいて、何が優しさだ。だが、なるべく刺激しない方がいい。アリツィアは感情を押し殺して、言葉を紡いだ。
「……じゃあ早くイヴォナを起こしてください。イヴォナの生命力はイヴォナのものですわ」
「だから言ったじゃん? ミロスワフと婚約破棄したら返したげるって」
「ですが……ミロスワフ様まで巻き込むわけには」
「じゃあいいんだね? ほら一本」
カミルはためらいなく、隅に咲いていた大きめのダリアを指した。くにゃっ、とダリアが崩れ落ちた。
「やめて!」
「やめないよ、もう一本!」
今度は大輪のひまわりだ。これもすぐに朽ちる。しかも朽ちた花の周りから、巻き込まれるようにして他の花も枯れていった。アリツィアは居ても立っても居られなくなった。
「やめてください! イヴォナ! イヴォナ!」
「婚約破棄する?」
「……」
それでもすぐに返事が出来なかったのは、この魔力使いの手を借りずにイヴォナを助ける方法がないかと考えていたからだ。なんとかして下に行って、イヴォナを抱きかかえて脱出する方法はないかーー。
「しないんだ?」
隅から一斉に、全ての花が枯れ出した。
慌ててイヴォナに目を向けると、遠目からでもわかるくらいやつれている。
「やめてください! します! 婚約破棄します! だからイヴォナを返して!」
「それでこそお姉ちゃんだね」
アリツィアはもはや透明の床に手をついて倒れこむようにイヴォナを見つめていた。
「イヴォナを……返してください」
アリツィアにとってイヴォナは、妹というだけでなく、この貴族社会を生き抜く同士だった。魔力なしの伯爵令嬢と揶揄される日々。それでもアリツィアは一人ではなかった。同じ立場のイヴォナがいたから。父と母から愛されて育った記憶を共有できるイヴォナがいたから。
イヴォナにしてもそれは同じで。
姉妹は、お互いの幸福を考えることが当たり前だった。
ーーミロスワフ様、イザ様。申し訳ございません……。
新しく家族になれるはずだった人たちのことを思うと、苦しくなる。だが、イヴォナをここで死なせるわけにはいかない。
「約束を守ったら返してあげるからね。ちゃんとみんなの前で表明してね? それからだよ」
ぱちん、とカミルが指を鳴らした。
アリツィアは顔を上げる間もなく、また移動させられていた。
‡
「アリツィア!?」
気がつけば、ミロスワフの腕の中にいた。
「ここは……」
「ジェリンスキ公爵家だよ。君とカミルが中々戻ってこないから、今にでも扉を蹴破ろうとしていたんだ。そうしたら、突然君が、向こうから倒れ込むように現れて、気を失ったんだ」
「カミル様は? 一緒じゃないの?」
ラウラがイライラした様子で聞くが、アリツィアの耳には入ってなかった。アリツィアはすがるように、ミロスワフの顔を見上げた。
「……ミロスワフ様、お願いがございます」
「なんだい?」
その青い瞳を見つめると、知らずに涙がこぼれた。
けれど、言わなくては。
「わたくしとの……婚約を解消してくださいませ……どうか……」
そしてアリツィアは再び気を失った。