シコルスキー・ブギを今月今夜も踊ってくれ

私はまだ、あの日を忘れることができないでいるのだ。
俺は今日も仕事場である《ムーンライドアイランドステーション》へ向かうべく地下鉄に乗り込んでいた。通勤ラッシュに巻き込まれて座席には座れないものの車内は割と空いている方だと思う。
「あの……すいません」隣に座っていた女性が小声で話しかけてきた。
「はい？」と聞き返すと女性は、「ちょっと困っていまして、もしよろしければ助けてもらえないでしょうか？」と言った。彼女はどう見ても十代半ばぐらいの少女だったのだが、「――分かりました」
「では、失礼します」彼女はそう言うと鞄の中から紙袋を取り出した。そして中身を俺に見せるように開いた。
それは一枚の封筒だった。そこには宛名として『差出人・ランスロット・マクファーソン様』と書かれていた。
「えっと……」

「これはどういうことですか？」少女は困惑しているようだった。しかし彼女は俺の反応など気にせず続けて話し始めた。
「実は私は、あなたのことをよく知らないのです。私とあなたは初対面ですよね？」
どうも変な雰囲気だった。俺は恐る恐る尋ねた。
「もしかして……、誰かと勘違いしていませんか？」
すると彼女は首を横に振って否定した。
「いいえ、私は確かにランスロットさんのことを知っています。そしてランスロットさんにお願いがあってきたのです。ランスロットさんは私のことをご存知ですよね？」

「――はい？」
「私、ノーマと言います。ランスロットさんの知っているノーマです。私、あなたと一緒に暮らしていたはずなのですが、記憶喪失になってしまっていて……。でも、思い出したいので、協力してくれませんか？」
「ちょ、ちょっと待ってください。落ち着いてください」とりあえず彼女の肩に手を置き落ち着かせようと試みるがうまくいかない。彼女はずっと落ち着きのない様子だったからだ。彼女の瞳孔が開き始めていることに気付くと俺は思わず飛び退いた。彼女の瞳孔は完全に開いてしまっていた。しかも眼球が真っ赤に染まっているではないか！
「ノーマ！ あなたノーマなのね！？ どうしちゃったのよ！ そんな目をして！ ねぇ！ どうしちゃったのよ！」
「ランスロットさん！ お願いだから私を殺して！ 私もう生きていけない！ 私を楽にして！」

「――ノーマ！ しっかりしなさい！ あなたノーマなのよね！？ ねぇ！ ねぇ！ ねぇ！ ノーマァッ！！」
――くそっ！ また幻覚症状か！ 今度はいったい何が見えたっていうんだ！？
「ノーマ！ どうしちゃったの！？ 私達友達でしょう！？ お願いだから正気に戻って！」
「嘘つき！ みんな私のことなんかどうだっていいんでしょ！ 私が苦しもうが死ぬことになろうが関係ないんでしょう！ もうたくさんだわ！みんな死んでよ！」
――なんだ？ 様子がおかしいぞ。それになんだか口調も変わって――、
――ハッ！ まさか――！ ノーマの瞳が怪しく光った瞬間、突然目の前が真っ暗になった。
そして次の瞬間には私は床の上に倒れていた。――ノーマに押し倒されたのだ。彼女の腕力は想像以上に強く抵抗することはできなかった。私はノーマを見上げた。するとノーマの顔が目の前にあった。
ノーマは私の顔を見てニヤリと笑った。――しまった！ この表情、見たことがある。こいつは、こいつの目は、
――ランスロット！ お願い！ 早く来て！ 私を殺して――！！
――駄目だ、逃げなきゃ！ 早く、早く！ ノーマが私の胸倉を掴んだ。まずい！ 殺される！
――ランスロット！！ ――
――ぐあっ！ やめろ！ 放せ！ やめてぇええ！！――
そしてノーマは私を押し倒したまま首筋に顔を近づけると噛みついた。牙を食い込ませ肉を引き裂こうとした。そしてそのまま、私の中に入ってくる……！ ぐああああっ！！ 痛い痛い痛い痛いぃいいいいいい――――っっっっっっ
「うあああぁあ――っ！！」私は絶叫するとノーマを突き飛ばした。ノーマは驚いたように私から離れた。そして私に問いかけた。「――どうして？ どうして殺さないの？ どうして……？」
「……」
私は黙ってノーマを見つめた。ノーマは私に向かって手を伸ばしてきた。そして、その手が私の頬に触れた。冷たい。まるで氷のようだ。ノーマは悲しげに微笑むと、その手を下ろした。「あなたが苦しむ必要はないわ。だってあなたは、私のことが嫌いなんでしょう？」
「――違う！」私は叫ぶと立ち上がりノーマの両肩に手を置いた。「あなたが好きよ！ 大好き！ だから殺せないの！ だって私達は、親友じゃない！」
「ランスロット……」
「ノーマ、私も苦しいの……。辛いの……。だけど私、あなたの力になりたいの。私は、あなたを失いたくない」
「――ごめんなさい、ランスロット。私、私――」
ノーマはそう言うと涙をこぼした。
「――落ち着いた？」
「うん、ありがとう。ごめんなさい、迷惑をかけてしまって」
「いいえ、気にしないで。それより、一体何があったの？ 教えてちょうだい」
「それが……、よく分からないの。電車に乗っている時から頭がぼんやりしていて、気づいたら、ランスロットが、私が殺したはずのランスロットが、目の前に現れて、そして――」
「分かった、もういいわ。無理に思い出さなくてもいいから」
「――ごめんなさい、ランスロット。私がもっと強かったら、こんなことにはならなかったのに」
「――あなたは弱くなんてない。あなたは、とても強い子よ」
「――どうして？ どうしてランスロットは私を助けてくれるの？ 私、あなたを傷つけてしまったのに……」
「私、前にも言ったでしょ？ 私は、あなたの味方よ」
「――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――」
「ノーマ、謝らないで。私こそごめんなさい。あなたが苦しんでいるのに、何もしてあげられなくて……」
「――ランスロット、私は、どうしたら――」
「優しく口づけしてくれればいい。そして、元気になったら」
「元気になったら？」
「シコルスキー・ブギを今月今夜も踊ってくれないか。あの夏の日、今日みたいに暑い浜辺のバーで。情熱的な踊りと会話の思い出を」
「ランスロット……、やっぱり、あなた――」
「私はノーマのことを決して忘れない。あの日交わした約束は決して破らない。そして必ずあなたを見つけ出す。たとえ何百年かかったとしても。だから今は、一時の別れよ。次に会った時はきっと、今よりも強くなっているから」
「ランスロット……、私、頑張るから。絶対に強くなるから。いつかまた、ランスロットと一緒に……」
「待っていて。私、あなたのこと、待っているから……」
「――ランスロット！」
こうして痛く冷たく氷の刃よりも鋭い情動は深く深く私の心に刺さり、そして熱く厚く腫瘍のような火照りと疼きを残した。
今も星無き茫洋を亜光速であてどなくただよい、星虹のしじまに想いを馳せる。ランスロット。あなたは今、どんな星座を見ている。そして私はあの日誓ったシコルスキー・ブギを一人舞い踊る。

シコルスキー・ブギをもう一度