第68話 18世紀のあの時、何故誰も奴を止めなかったのか
気泡は少しずつ大きく成長していく。その中に詰められているのは、主に二酸化炭素だ。地球はそれを少しずつ地表の方へ持ち上げながら、比喩的にふと思った。
――でもよく考えたら、今新人たちって神と一緒にいないんだよね……てことは、この“空洞”の中に彼らがそのまま入り込んだら、まずいんだよね?
神がいれば、空洞の中の二酸化炭素を使ってただちに人間たちの呼吸に必要な酸素を作り出してくれる。けれどその神が傍にいない今――
――神たちと対話をする為に、人間たちにイベントを行ってもらおうと思ったけれど……
地球は比喩的に、ふう、とため息をついた。
――そもそもそのイベントに、神の力が必要なわけか……私も何を焦っていたのかな、そんな簡単なことに気づかないなんて。
しかしもうすでに、鯰に人間たちのもとへ向かってもらっている。今更呼び戻すわけにもいかない。鯰の為に開いた水脈は、閉じてしまったのだ。鯰が戻りたくても、彼はどちらにしろ一旦新人たちのいる洞窟へ“出現”するしかないのだ。
――何かに……
地球はまた、比喩的にふと思った。
――試されているのかな、私は……どれだけ能力があるのかを……どれだけ“使える”やつなのかって事を。
◇◆◇
温かい。
鯰は、細いけれども泳ぐのに心地よい水の流れの中を進んで行った。泳ぎながら、その存在を髭に感じ取っていた。
いる。近くに――あるいは、遠くに。まあ、その辺に。
鹿島と……もう一柱の、神。もう一柱? もう三柱、か? まあ何柱だろうが、向こうも大方気づいてはいるのだろう、自分がここにこうして泳いでいることに。
どこへ向かっているのか、知りたがっているだろうか? 当然そうだろう。そして大いに期待しているだろう。あの三人の、未熟でか弱いが道具と理屈だけは必要以上に装備した、おばかな新人たちに会えることを……おっと、違った。
道具と理屈だけじゃなくて、何よりも“強運”を装備した、無敵の新人たち、だ。
鯰は、温かい水の中をどんどん泳いでいった。暗く光の届かなかった細い水流も、少しずつ青い光を反射させ始めてきていた。もう少しだ。
◇◆◇
「私は何でできているんだろう」出現物の呟きが聞える。
「お」結城がハンマーの手を止め上方を見上げる。
「劣等感と、自尊心と、あとは何だ」別の出現物が比較的元気よく答える。
「欲望と、絶望と、世の中に対する恨みと」
「いや、普通に骨と筋肉と神経とでいんじゃね?」他の出現物たちも次々に答え出す。
「細胞でしょ細胞」
「DNAだよ」
「タンパク質ですね」
「ヒトの体は水でできてるんじゃなかったっけ」結城が再びハンマーで岩を叩きながら言う。「大部分」
「それは大根ではないでしょうか」本原が岩を叩きながら質問する。
「人間とは考える大根だというわけか」時中が岩を叩きながらコメントする。
「ふざけるな」突然怒鳴り声が響き、三人のハンマーを持つ手はぴたりと止まった。
「そんな余計なものは要らない」続けて怒声が響く。
「余計なもの?」結城が肩の上でハンマーを止めたまま上方を見る。
「水のことでしょうか」本原がハンマーを止めたまま質問する。
「この出現物は我々に対して怒っているのか」時中がハンマーを止めたまま疑問を呟く。
「こんな事を言いたくはない、けど私らは命を懸けて自分を守らなきゃいけないんだ」
「すいませーん、お気を悪くさせたなら謝ります」結城は上方に向かって声をかけた。
だが特に返事はなかった。
「私たちに対して怒っていたのではないのでしょうか」本原が上方を見上げながら確認する。
「命を懸けて自分を守るとは、戦争のようだな」時中は目の前の岩壁を見たままコメントした。
「ああ、そうだね」結城が時中の方に目を移す。
「仕事というのは戦争なのでしょうか」本原も時中の方に目を移して確認する。
「どちらにしろ本来人間にとって、一定の時間を決められ一定の場所に閉じ込められるような生活を毎日送ることは無理なのだ」時中は岩を叩き始めながら言った。
「へえ」結城が口を尖らせながら頷く。
「と、啓太が言っていた」時中は岩を叩きながら続けた。
「それはただ怠けたいだけの言い訳なのではないでしょうか」本原が批判的意見を述べる。
「産業革命が起こった時、工場を滞りなく稼動させる為に経営者がそういう思想を創り上げて人びとに押し付けたのだと、あいつは言っていた」時中は岩を叩きながら述べた。「人間というのは元々は、怠けたい生き物なのだと」
「そうかあ」結城は岩を叩き始めながら答えた。「そういうもんかもねえ……けど毎日仕事してないと、それはそれで心が不安になったりもするよねえ」
「適度に働いて適度に休むというのが一番良いのでしょうか」本原も岩を叩き始めながら確認する。
「そうだね」
「そうだな」結城と時中の返答がシンクロした。
二人の岩を叩く手は一瞬止まり、結城が時中に顔を向けて大きく笑うと同時に時中は結城に目もくれず空気を切り裂くかのように大きくハンマーを振り上げて引き続き岩を叩き始めた。
ひょんひょんひょんひょんひょんひょん
懐かしくもあるその音が、時中のハンマーの先から響き渡った。
◇◆◇
さて、どのように対処を講じたものか。地球はその考えを巡らせながらも、空洞の準備を進めていた。この作業も、考えてみればもう何回目になるのか定かでないくらい繰返している。神たちが、初めて自分との“対話”を求めてきた、あの時から――
「あれ?」地球はその時、妙な“異物感”を感じて、マグマの冷却固化促進の手を比喩的にふと止めた。
――なんだろ。
地球は慎重に、その“異物感”の正体を調べた。
――二酸化炭素でも、水でもない……これは……
比喩的に、目をぱちくりさせる。
――窒素か? けど、量が多すぎる……
「あれ」地球はもう一度、比喩的に口にした。「なんだ、君か。懐かしいな」
「また会えて嬉しいよ」その“者”は、答えた。「とでも、言っといてやるよ」
「ええと……何て呼べばいいの? 君のこと」地球は訊いた。
「別に、前と同じでいいさ」“出現物”は、肩をすくめた。「“スサノオ”で」