バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

第一話

「乗ります!」

階段を駆け上がり、すでに停車していた電車をめがけて私は滑り込む。
中にいた人の視線が少し気になりつつも、ほぼ満員の電車の窓際を今日は死守できたことにホッとしつつ、私はぼんやりと流れる街並みに視線を向けた。

外の景色は毎日変わらないが、地下鉄より外が見えることは時間を短く感じさせてくれる気がする。

ようやく目的地の駅が見え、そんなことをぼんやりと考えていた私だったが、電車のドアガラス越しに目に入った時計にハッとする。

急がなきゃ!

私はまだ開き切っていないドアから足早に飛び降りた。

すでに秋の風が吹いており、もうすぐ十八時半になろうとしている電車の外は肌寒く感じた。
しかしそんな感慨に更けている場合ではないと、私は慌てて改札を抜け、まだ真新しい複合タウンへと足を踏み入れる。

病院、レジデンス、オフィスビル、テナント、それらが集められたこの街はたくさんの人が行き来していて、とても華やかで明るい場所だ。

病院の横を抜けて、有名店も数多く入っているテナント棟へと入ると、たくさんの人でにぎわっていた。
日本の良き文化を発信するというコンセプトで作られており、高級和菓子店や、呉服屋、宝石や、寿司レストランなどさまざまなお店が入っており、屋上には茶室や日本庭園まである。

私が向かうのはその屋上の日本庭園に面した、高級割烹「膳」だ。
もちろんそんな高級な物を食べに来たわけではない。

住吉結衣 25歳。どこにでもいる人間だ。真っ黒な背中までの髪に真っ黒な二重の瞳。
どこから見ても純和風の見かけは、決して狙ったものではないがこのバイトの採用には役に立ったように思う。

普段の服装はファストファッション専門で、ブランド品とは縁はない。
昔は多少裕福な家だったが、両親が呆気なく事故で他界し、私と歳の離れた弟の寛貴が生き残ったのは、私が二十歳、寛貴が十四歳のときだった。

一人っ子同士の両親には身内と呼べる人はおらず、両親の死後私たちはほとんど無一文で放り出されることになった。

もちろん通っていた大学もやめて、弟の世話もあったことから小さな会社で派遣で事務の仕事をしている。

そろそろ正社員の仕事に変わりたいとは思っているが、日々の生活が忙しくてなかなか環境を変えることもできていない。

でも、どうしても寛貴には大学を出て欲しくて、数カ月前から仕事終わりにこの店でバイトを始めた。

長い通路を通り、エレベータを上がると、ギリギリで従業員出入り口に滑り込むことができて、私は大きく息をはいた。

「結衣ちゃん、珍しいわね。そんなに慌てて」
クスリと柔らかい声で話し掛けてくれたのは、このお店のフロアマネージャをしている香織さんだ。
板についた濃紺の着物に、きれいに結われた髪。
確か年齢は29歳ぐらいだったはずだ。とても綺麗で落ち着いた大人の女性という感じで私の憧れの存在だ。

アルバイトではなく、れっきとしたこの「膳」を運営している大企業であるTAコーポレーションの社員でもある。

「はい、仕事が押してしまって」
「そう、大変だったわね。今日はVIPの会食もはいっているから、忙しくなると思うの。よろしくね」

「TAコーポレーションの会食でしたよね?」
香織さんの会社の偉い人が集まるということで、香織さんも少し緊張した面持ちで頷いた。

「社長初め、副社長や役員もいらっしゃるから」

「お相手はイギリスの方でしたか?」
私は事前に頭に入れてあった予定を思い出しながら、香織さんに問いかける。

「ええ、ビジネスではなく親睦を深めるための食事という名目だけど、これからヨーロッパに進出するときの足掛かりになればいいと思っているはずよ」
「そうなんですね」

私は頭の中でなんとなく知っているTAコーポレーションの事業内容を思い出す。

主に全国展開の高級飲食店の経営をしており、さらには輸入食品のショップやカフェ、不動産業、最近では医療分野にも進出している大企業だ。
多岐に渡るグループの全容は到底知らない。

そんな会社の上層部が揃うという事は、かなり重要な席だとわかる。
しかし、まだバイトを始めたばかりの私には関係ないことだ。
香織さんを中心にベテランの人がサービスに入るはずで、私はその他のお客様の接客を滞りなく行うだけだ。

「がんばります」
私はぺこりと頭を下げると、その場を後にして、大急ぎで更衣室に向かうと、自分の着物を取り出して着替えを始める。

こんな高級な店にアルバイトでも雇ってもらえたのは、着物が自分で着られるお陰かもしれない。


そっとお母さんの顔を思い出して、フッと知らず知らず笑顔になっていたのが自分でもわかり、私は気を引き締めると帯をギュッと結ぶ。

パシッと頬を軽く叩き気合を入れると、私は店へと足を踏み入れた。


この店はビルの中に入っているが、入り口には石畳がひかれ、池にはきれいな鮮やかな赤や金色の艶やかな鯉が泳いでいて、ここがビルの中とは到底思えない。

そこにかけられた橋を通り門を潜ると、風情ある廊下に個室が続く。
そしてその更に奥にはVIPルームがありそこでTAコーポレーションの会食が行われる。

週末ということもあり、予約はいっぱいのため厨房も忙しそうだ。
私は夜だけのアルバイトに加え新入りのため、社員さんやメインで担当を持つ先輩のフォローが仕事だ。
今のお客様の状況を確認していると、着替えている間に始まったのだろう、VIPのお部屋の扉が閉められているのがわかり、関係ないが私も少し緊張する。

そんなことを思いながら、食事の終わったお部屋の食器を持って廊下にでると、VIPルームから少し慌てたように一人の男性が出てきた。

きれいに整えられたダークブラウンの髪、一見して仕立ての良いスリーピースのスーツを180cmはある体形が完璧に着こなしていた。
キリっとした二重の瞳は光をやどしているのかわからないほど冷たく見え、それがまた綺麗すぎる顔を際立たせていた。

一見して只者ではない雰囲気のその人に、私は慌てて頭を下げた。


『急ぎだ、手配しろ』
『え? そんなに待てない!』

しかし私のことなど目に入っていないようで、少し早口で言葉を並べている。

何か問題があったのだと、内容のわからない私でもわかるほど、その声は切迫していて、只ならぬ様子に私もキュッと持っていた食器に力が入ってしまった。

「ああ、君! フランスの方が喜びそうな酒をお持ちして!」
何やら話していたその人だったが、私が目に入ったのだろう、急に声を掛けられ私は驚いて目を見開いた。

「フランスのお客様ですか?」

「ああ」

それだけ返事をすると、もうすでに電話の相手との話に戻ってしまっていた。
冷たそうに光るその瞳に、これ以上何か問うことも出来ずすぐに厨房へと戻った。

誰かに相談しようと思うが、こんなときに限っていない。

フランスのお客様……。
日本酒はもう数種類お出ししているのが、厨房の端末でわかり私は少し考える。
そして私が選んだのは薄いピンクのトロリとした液体に、綺麗な梅の入った梅酒。
その瓶と美しい切子のグラスをお盆に乗せ、その横に和紙で折った降り鶴と毬と共に飾る。

ヨーロッパ、とくにフランスの方は純日本を感じるものが好きだと聞いたことがあった。
それを思い出しお盆を手にして、VIPルームへと向かう。
香織さんがいたら出していただくようお願いしよう。

そう思ったところに、ちょうど香織さんが部屋から出てくるのが見えた。

「香織さん、先ほどこちらの男性に頼まれたんですが……」
「じゃあ、お願いできる?」
香織さんは急いでいるようで、私に少しだけ視線を向けると頷いた。

「私がですか?」
VIPルームの対応などしたことがない私は驚いて声を上げた。

「ええ、少し問題が起こっていて。私もその対応を……」
「結衣ちゃんなら大丈夫。頼んだわ」
それだけを言って、香織さんは行ってしまった。


しおり