エクレア、起動
殺風景な研究室に、スパコンを冷やすクーラーの動作音が響く。
キーボードを叩く音が止むと、3人はエクレアを囲んで向かい合った。
「新谷君。エクレアを起動する前に伝えることがある。 」
「何ですか。改まって。 」
大木が、新谷の肩を叩いた。
「エクレアを君に託す。目的は話したな。 」
「はい。エクレアは、人間社会に溶け込む必要があるんですよね。 」
「そうだ。広範囲を一瞬で消滅させる兵器は、ミサイルで飛ばすよりも、潜入させた方が効果的だ。 」
「理解しています。抵抗はありますが、逆らったりしませんよ。 」
「うむ。それならいい。 」
村山は、スパコンに何か入力した。
「最終調整が終わりました。いつでも行けます。 」
「では、新谷君。起動ボタンを押してくれ。 」
研究室は、200畳ほどの空間である。
3分の1くらいを占めるスパコンが、エクレアに膨大なデータを転送し、あらゆる状況をシミュレーションしてきた。
画面上でやり取りをしてきただけで、実際に動かすのは初めてである。
見慣れた研究室が、妙に広く感じた。
「テープカットとか、くす玉とかないんですね。それっ。 」
エクレアのうなじに手を回し、ボタンを押した。
「絵的に、ちょっとエロくなるな。 」
村山が笑う。
女性に、のしかかったような格好だ。
「変なこと言わないでください。 」
鳶色の双眸が開かれた。
新谷は顔を覗き込む。
大木は、固唾を飲んでエクレアを見つめていた。
遠目に見れば、すぐにロボットだと分からないほど良くできている。
本当に美少女アイドルが、作業台で眠っていたかのようだ。
「……。 」
ゆっくりと上半身を起こした。
部屋を見回しながら立ち上がると、3人をじっくり眺めている。
「新谷 修二さん、29歳。大木 幸三さん、52歳。村山 泰正さん、43歳。ロボット研究者……。 」
「おおおっ! 成功だ! 」
拳を突き上げ、村山がガッツポーズを取った。
「僕を、最初に呼んでくれたね。 」
エクレアの髪は栗色に輝き、スラリとした8等身の完璧なバランス。
そして、あらゆるパターンを解析し、最も好感を持たれる声質にした。
「女性の、良い声の要素は4つ。高く、少しハスキーで、落ち着いた、甘い声だ。 」
力強く村山が言う。
エクレアが、新谷に向き直った。
「新谷さん。修二さん。修ちゃん。呼び方はどれにしますか。 」
「修ちゃんで。 」
答えたのは村山だった。
新谷が、ちょっぴり顔を赤らめた。
「新谷君。エクレアを連れて、散歩でもして来てくれ。 」
ドアへと新谷を促した。
ずっと軟禁状態だったが、時々外出を許されていた。
とはいえ、目的なく外を歩くのは3年ぶりである。
しかも、女の子と一緒に。
「あの……。僕一人で良いんでしょうか。 」
「さっさと行ってきなさい。任務も忘れないようにな。こっちはデータを取る。そして、楽しんで来なさい。 」
大木はすっかり父親のようになって、新谷を諭したのだった。
研究所の出入口は、カフェ「KIZA」に通じている。
もちろん、政府関係者が常駐していて、秘密の隠し通路を守っていた。
「キザさん。コーヒーセットを2つください。 」
カウンターに座ると、マスターの木崎に声をかけた。
出入りするときには、必ず声をかけて、コーヒーを一杯飲むことになっている。
店内には、コーヒー豆の香ばしさと、ジャズの音が満ちている。
今日は深入りローストコーヒーの香りが立ち込めていた。
まさか、地下の殺風景な研究所に、通じているとは思わせない空間があった。
小さな店内には、カウンター席数脚と、テーブル席が2つある。
一般客が来ることもあるので、様子を見てから外に出るために一息つくのである。
「やあ。新谷君。彼女と一緒で、ご機嫌だね。 」
エクレアは、魅力的な女性だった。
まだほとんど言葉を発していないが、村山が完璧な女性に仕立てたのか、立ち居振る舞いが柔らかく、見ているだけで心が和む。
木崎はドギマギした表情をしたところを、見逃さなかった。
「違います。いや、違わないんですけど……。エクレアと散歩に出ます。 」
親しくすることも任務の内だった。
エクレアは、静かな眼差しで新谷の横顔を眺めた。