休暇をいただくために手合わせすることになりました
俺は出かけるための支度をしていた。と言っても、服装は普段と変わらず執事服を身にまとい、白い手袋を両手にはめる。
鏡の前に立って黒と紫色のグラデーション掛かったループタイを絞める。留め具の中央で輝いている宝石のエメラルドの位置を整え、下げていた顔を上げて真っ直ぐ自分の顔を見つめる。
鏡にはいつも通りの自分の姿が映し出されている。こうして執事服を身にまとった自分の姿を見るのは、あの日からの日課になっている。
初めて執事服を着た時は、今とは少し違ってぶかぶかしていた。自分の背丈にあった執事服を取り寄せるのには時間が掛かると聞き、しばらく大き目の物を着ていたせいであったけど、八年経った今ではもうそんな姿は見られない。
指先で軽く前髪をすくってから踵を返し、ベッドの上に丁寧に置いてある黒のジェケットを羽織る。机の引き出しを引いて中に入れてある懐中時計を取り出し、落とさないように腰に身につける。
今度は本棚に移動し、中から真っ黒な本を取り出し施錠を解除する。固く閉じられていた本の蓋がゆっくりと開かれると、中には銀色の光を放っている銀ナイフが五本入っていた。
俺はその内の三本を手に取り、いつも銀ナイフを入れているケースを取り出して中にしまい込む。右胸の内ポケットに銀ナイフを入れたケースをしまい込み、本棚に本を戻してから部屋を後にした。
いつもならこのままお嬢様を起こしに直行するところだけど、今日はいつもと日程が違う。
長い廊下を歩きながらアース様の居る部屋へ向かっていた時、ふと外の方で人影が目に映る。
「ん?」
その人影は朝早くから外に出て、剣の鍛錬をしているところだった。俺はその人物を見つめ、行き先を変更させる事にした。
★ ★ ★
「おはようございます、アース様。また朝早くから剣の鍛錬ですか?」
「おっ、何だリヒトじゃないか。お前も相変わらず朝早いな」
「これは俺の日課ですから」
「だったら奇遇だな。俺のこれも日課だ」
アース様は剣の素振りをしながらそう言う。
ロベリア家は代々王家に仕える騎士の家系だ。その家系に生まれたアース様もまた、騎士団長として騎士たちの先頭に立っているお方だ。
アース様の存在は誰もがあこがれる物であり、騎士のほとんどが目指すべき人として目標を掲げている。
普段はヘラヘラとしている人だから本当にこんな人が騎士団長なのか? と思う事は多々あるものの、アース様は他の誰よりも努力家な人だ。
誰も見ていないところで必死に努力して、剣の腕を磨いて今の地位に辿り着いた。ユリウス様はもちろん、その姿を一番側で支えているのがヴァーナ様だ。
ヴァーナ様はそれを決して表に出そうとはしない人ですが、今でもアース様の事を静かに見守っている。ほら、今も部屋の窓からこちらをじっと見下ろしている。
俺はそれに気が付かないふりをして、再びアース様に声をかける。
「アース様、少々お時間よろしいでしょうか?」
「おっ、なんだ? まさか休暇でもほしいのか?」
「はい、休暇が今直ぐ欲しいです。お嬢様の事は既に別の者にお願いしてあります。あとはアース様から許可を頂ければ、今から数日間ロベリア邸から離れます」
アース様は息遣いを整えるために深く深呼吸すると、振っていた剣を地面へと突き刺した。
「良いぞ、休暇でもなんでもくれてやる。ただ心配だけはさせるなよ? これは命令だからな」
「はい、承知しております」
「なら、よし! じゃあ、リヒト。行く前に俺の手合わせに付き合え」
「…………もちろん拒否権は――」
「あぁ、ないぞ! もし今ここで断ったら休暇の件はなしだ」
と言って、子供みたいに無邪気な笑顔を浮かべているアース様に呆れながら溜め息をついた。
「出かける前に汗をかきたくないのですが……」
そう言いながらも、アース様の前に立って俺は剣も持たずに構える。
「ふっ、相変わらず剣は持たないのか?」
「そう、ですね。残念ながら俺には剣の才能がありません。それに剣を振るうよりも、こうして小さな凶器の扱いの方が、自分には向いていますから――」
俺は一本の銀ナイフを取り出すと、迷わずそれをアース様の顔面に向けて放った。
アース様はニヤリと笑い地面に突き刺していた剣を抜くと銀ナイフを跳ね返した。
もちろんこれは想定内だった。俺はその隙きに気配を消してアース様の背後に迫った。
銀ナイフを右手で握りしめ、容赦なく心臓を一突きにしようとナイフの先端を突き出す。
「おいおい、殺気がだだ漏れだぞ?」
「っ!」
アース様はチラッと横目で俺の姿を捉えると、そのまま前へと倒れ込んだ。
「っ!」
どうして地面に倒れ込むんだ? まさかかわしているつもりなのか? そう内心で疑問に思う。
しかしアース様は地面に片手をつくと、片足を使って突き出された銀ナイフの先端を蹴り飛ばした。
「しまっ!」
アース様の動きがスローモーションに見える。しかしまだ負けが決まったわけではない! 俺は直ぐにもう一本銀ナイフを取り出し、アース様に向かって勢いよく放った。
★ ★ ★
「お〜し! 今回も俺の勝ちだな!」
「はぁ……はぁ……そう、ですね」
俺は額に浮かんだ汗をハンカチで拭ってから、乱れた服を整える。俺がアース様に敵うはずがないと知っているにも関わらず、この人はこうしてたまに勝負を挑んでくる。
もちろん俺は勝った事が一度もありません。現役騎士団長に一介の執事が敵うはずがないでしょう。
「今度は俺じゃなくて、ウラノス様やイクシオン様たちと手合わせしたらどうですか?」
「いや〜……そうしたいのは山々だが、あいつら今家にいないだろう? 上の長男次男なんてもっと家に帰って来ないしな。ヘリオスは今年に入って騎士団に入団したばかりだから仕方ないが、レインの奴は……。たく、誰に似たんだかな〜」
お嬢様のお兄様方は今この屋敷には住んでいない。ウラノス様、シヴァ様、イクシオン様はそれぞれ学園の寮で生活を送っているため、帰って来るのはいつも長期休みの時か年の末辺りだ。
そしてヘリオス様とレイン様は三人と違ってもっとこの屋敷には帰って来ない。そのせいで俺は未だにレイン様にお会いした事がない。
去年の長期休みの時にヘリオス様だけがお一人でこのロベリア邸に戻って来たが、レイン様だけは帰って来る事はなかった。
写真でレイン様の顔は知っているけど、どんな人なのかはほとんど知らない。
お嬢様曰く顔はヴァーナ様似で美青年であるらしいが、口数が少なく何を考えているのか分からないと言っていた。逆にヘリオス様は太陽のように明るくとてもお優しい方だ。
双子なのにどうしてこうも真逆なのかと考えた事があるけど、未だにその謎は解明出来ていない。
「レインの奴は今度個人で休暇取らせるか……。いやでも、あいつと手合わせすると必ず負けそうになるからなぁ〜。でも顔を出さないのは駄目だ。今度必ずヘリオスと一緒に帰って来させるか」
さっきから一人でぶつぶつと何かを言っているアース様に向かって、俺は深々と頭を下げた。
「では、アース様。数日間休暇を頂きます。その間、お嬢様の事よろしくお願い致します」
「お、おう、分かった。お前も気をつけろな」
それからロベリアの邸を出た俺は、ラナンキュラス邸に向かって馬を走らせたのだった。