5-3 Mourning Snowball
翌朝、ついに12月に突入した。高校生2人は最初に渋谷に向かった。昨夜ネットで神社のお祓いの予約をしようとしたが、生憎今日は夕方しか空いていないらしく、予定を前後させることにしたのだ。
……昨夜はあの後、冷めたコーヒーと電子レンジで温め直したパンケーキをお供に、別の話題で盛り上がった。正しくは、澪が強制的に話題を変えたのだが。
そして澪は、机の上にグッズを飾っているゲーム、ロススタの布教も少しした。メインで使う最推しのキャラクターが流雫に似ているから、と云う理由でルナと名付けた美少女騎士のエピソードは泣ける。今までに何度、ストーリーパートを再生したか。
しかし、秋葉原で通り魔に遭遇したことを流雫が思い出すのではないか……。それが気懸かりだった。流雫がルナのコスプレをしていた時に、ロススタのコスプレイヤーが刺されたことが全ての始まりだったからだ。
ただ、流雫は見た限り、それはそれと割り切っているように思えた。とは云え、流雫は必死で隠し通そうとするから半分疑わざるを得ないのだが。
今は降っていないが、昨日に続いて雪が降る予報は出ていた。今日こそは降りそうな、少し薄暗い感じがする。
渋谷で降りると、スクランブル交差点前の広場へ向かう。もうどの通路を使えばよいかは覚えた。
道路に面した側に建つ慰霊碑が見えると、ふと流雫は悲壮感を滲ませた。……美桜がこの場所で死んだ……否、日本では有り得ないと思っていた大規模な無差別自爆テロで殺された。何度も思い出し、苛まれ、吹っ切れたと思っては思い出す……その繰り返しだった。どうも、このスパイラルからは脱出できない。
「……美桜」
流雫はその慰霊碑の前に正対し、かつて好きだった少女の名を呼ぶ。
……好きだったが、人を好きになることが初めてで、どうすればよいのか迷っていた。それが少しずつ判ってきて、ようやくデートの約束もできるようになった矢先のことだった。
彼女に好きと言えたのも、その死から1年以上も経ってのことだった。澪より数ヶ月も先に出逢ったのに、澪より数ヶ月も遅れて。美桜がこの地球にいないことに甘えている、と言われても文句は言えなかった。
そして、その言葉を隣で聞いていた澪は、美桜の死と、その上に成り立つ今を受け入れると云う、彼なりの決着を其処に見ていた。ただ、それでも完全に吹っ切れてはいない。それは、最早仕方ないことだった。
「僕は相変わらずだよ。澪に助けられて、どうにか。昨日も澪に、偶にはゆっくりしないと……と言われたけど、やっぱりもっと……力になりたい」
「流雫は……すごく力になってます。あたしのために、何時だって必死で……この前だって……」
流雫の右隣でそう言った澪は、やはり彼が撃たれた時を思い出していた。
自分の銃弾で犯人が撃たれるのは、犯人にとっては自業自得だから何も思わない。しかし流雫は犯人なんかではなく、それも見ず知らずどころか、澪にとって誰よりも近くにいる存在。
その流雫が撃たれたことで、最悪の結末を覚悟して少女は泣き叫んだ。……しかし、その覚悟が無ければ、銃を手に生き延びることなんてできないのだろう。
撃たれる覚悟をしなければ撃てない。撃たなければ撃たれるし、撃っても反撃の危険は殆ど減らない。最初から絶体絶命に追い詰められている中で、どうにかして生き延びる、逃げ延びると云う勝ちを引き寄せるしかない。
それができるのが、流雫の強さだった。
「……人は生きている限り、迷うもの。そうは判っているけど、でも……満足できないんだ、今に」
その言葉に、澪は隣の少年に顔を向ける。
「美桜が生きてた頃のように戻ってほしい。銃だのテロだの、頭の片隅に過ること無く……平和に生きていられた頃に」
……流雫はその意味で、ファウスト的……野心的だった。身の程知らず、とは澪は決して思わない。しかし、それは流雫や澪が実現させるには、あまりにも重過ぎる。
……もし、本当に悪魔を召喚させられるのなら、そのために召還させることすら厭わない。今の彼は、そう見えた。あの日のように、泣き叫ばなくていいように。
「……お前も捨てたもんじゃないな」
ふと、何度か聞いた憎まれ口が左隣から聞こえた。流雫は顔を向ける。黒いショートヘアの男がそこにいた。その目は、慰霊碑を見つめている。
「……黒薙……」
流雫がその名を呼び、一瞬で睨み付けるような目をしたのは、流雫の同級生。名前は、黒薙明生。
同級生と云っても、元から殆ど話すことは無く、そしてトーキョーアタック以降の関係は劣悪で、黒薙は流雫を揶揄い続け、流雫は拒絶反応を見せ続ける。
「笹平が来たいと言うから、連れてきたんだ。お前に喧嘩を売りたいワケじゃない」
黒薙がそう言うと、その体に隠れていた笹平が一歩下がる。そして、その名に反応した澪も同じように一歩下がると、彼女に微笑む。あのアウトレット事件以降、久々の思い掛けない再会に、2人は束の間の喜びを得た。
笹平志織。黒薙と同じく流雫の同級生で、学級委員長。流雫が同級生だけでなく、学年中……それどころか学校中でも唯一どうにか話す相手だ。ただ、それでもトーキョーアタック以降、交わした言葉の数は澪とのデート1日分にも満たない。
そして、同級生2人の関係をよく思っていないが、2人が歩み寄る気を微塵も見せず、苦労している。
アウトレットで流雫とデート中だった澪と出会し、その場で美桜を共通項とする女子2人は連絡先を交換しているから、澪に相談することはできる。しかし、黒薙に関しては澪にとっても初対面で最悪の印象を抱えているだけに、無理だと思っていた。
「河月から、遠かったでしょ?」
男子2人の後ろを通って澪に近寄った黒いロングヘアの少女に、澪は問う。流雫も彼女と同じ町に住んでいるのだが、それは別だ。
「……どうにかして、一度だけでも慰霊碑に行きたかったんです。私にとって、この渋谷は辛い街。だけど、私の中で少しでも折り合いが付けられるなら……、そう思ったんです」
と笹平は言う。
彼女も未だ、同級生だった美桜の死に苦しんでいた。彼女の死に際を、その死体を目の当たりにしたのだから、当然と言えば当然だったのだが。
その隣で、流雫は黒薙から逸らした目を、慰霊碑に向ける。
「……あの時の一言、未だ忘れられないんだ」
流雫は呟くように言った。……空港島にいた流雫に美桜の死を伝えた、スピーカー越しの黒薙の声を、忘れられない。忘れられるワケがない。
「お前の叫び声、聞いていられなかった」
黒薙は珍しく、穏やかな声で言い返す。
……笹平が最初に美桜の死を伝えたのは黒薙だったが、取り乱す彼女の代わりに他の生徒に連絡する役目を引き受けた。他の生徒にはメッセンジャーアプリのグループメッセージで流したが、流雫だけは直接通話で伝えた。美桜の恋人だからと云う理由だったからだ。尤も、当の本人は忘れたと言ってはぐらかしているが。
しかし、ただ泣き叫ぶだけの流雫に何と言えばよいのか判らず、居たたまれなくなって通話を切った。あの時の声は、1年以上経った今でも忘れられない。
「……世界は残酷だよ。美桜が死んでも、世界は止まらなかった。もし今僕が死んでも、止まるのは僕だけだ。……世界は動き続ける、色んな人の生き死にを、喜怒哀楽を重ねながら」
と、この1年思ってきたことを言ってみた流雫に
「……詩人気取りかよ」
と黒薙は言ったが、不意に微笑を零した。
その様子に、逆に笹平は目を丸くして言葉を失っていた。一見、黒薙が嘲笑っているようにも見えるが、彼なりの屈託無き微笑だった。
……あの日以降、こんな2人を見たのは初めてだった。慰霊碑の、美桜の前だからなのか。笹平には判らなかったが、彼女が2人を取り持った……と思いたい。そして、その様子を隣で見ていた澪も
「流雫……?」
と小さな声で呟きながら、その様子に戸惑っていた。
……2人は本来、あんな風に話せるのか。それなのに、何故河月湖で流雫と出会した時に、彼を最低呼ばわりしたのか。
……あの時とほぼ正反対に近い態度に、絶対に何か裏が有る……。そう思った澪は、それが何なのか気になっていた。例えば、此処が東京で2人の地元の河月ではない、とすれば……。もしくは、あの態度が黒薙と云う同級生の本心ではない、とすれば……。
自分が最低な女呼ばわりされたことは、この際どうでもよかった。
「……お前が最低なのは、欅平を見殺しにしたからじゃない。……どう見てもあれは不可抗力だ、見殺しなんかじゃない。最低なのは、全てを……」
黒薙の言葉を遮るように、大きな銃声が冷たい空気を切り裂いた。慰霊碑の前に陣取る高校生4人は、一斉にその方を向いた。
ロングコートを着た人が1人、前のめりに倒れ、その前に大きめのダウンジャケットを着た男が銃を手に立っている。流雫の目付きが険しくなる。
「流雫……!?」
自分の名を呼ぶ澪の声に
「ヤな予感がする。逃げろ!」
と言い残した少年は、倒れた人に向かって走っていく。
「流雫!!」
と大声で彼の名を呼んだ澪は、笹平に振り向くと
「2人は逃げて!早く!」
とだけ言い残し、その後を追った。
何時だって、テロや通り魔は突然起きる。しかし、逃げればよいのに逆方向に動き出す。流雫のそれは、完全に無意識……本能の世界だった。
澪との初対面の時でも、服装すら知らないのに、遠目に見て隠れた人が何だか澪っぽい、と云うだけで、銃声に逃げ惑うの人の流れに逆らった。当然澪には呆れられたが、彼女の目の前の流雫がルナだと、彼の目の前の澪がミオだと互いに知る直前の話だった。
その時から、流雫は無意識だった。死に場所が欲しかったワケではなく、何故なのかは自分でも判らないが。
流雫は倒れた人の隣に駆け寄り、その身体を抱えて仰向けにする。澪に似たダークブラウンのロングヘア。服装からして、社会人と云う感じだった。
厚手のコートに開いた穴は1つだけ、しかし胸の谷間より下の位置。流雫から2秒だけ遅れた澪は、その人の頬を軽く叩いてみたが、反応は無い。少女は自分のセミロングヘアを撫でて左耳を出すと、僅かに開いた唇に耳朶を限界まで近付け、右手の手首に触れる手に着けてあった腕時計の針を見つめた。
START法と呼ばれる、トリアージの判断基準のフローが有る。澪は福岡の暴動で彼女の同級生が、撃たれた担任に対してやったことを思い出した。
……6回動く間に、耳に息は僅かにも掛からなかった。……1分間の呼吸回数は10回以下の危険水域、それどころか呼吸が止まっている。脈も無い。コートが血を吸っているのか、出血量は判らないが、秒単位の争いと云うことだけは救急救命に疎くても判る。
見ず知らずの人なのに、澪は自分の血の気が引いていくような感覚がした。
「どうして……!」
そう叫んだ澪の口調が、苛立ちと殺気を帯びていく。そして、ついに男を睨み付けた。
男が大口径の銃を上空に向けて撃つ。威嚇の銃声に周囲が驚き、誰もが散り散りに逃げようとする。しかし、目の前のケープ型コートを羽織った少女と隣のシルバーヘアの少年は怯まない。男が2人に舌打ちするのが、澪には見えた。
「銃を捨てろ!」
と犯人の奥から警察官が3人、走ってくるのが見えた。その手には、既に拳銃が握られている。
……何処かで見たような流れ。福岡の空港で、修学旅行の初っ端に起きた自爆テロ。その一部始終が一瞬、澪の頭を過る。
その隣で流雫は、倒れた人の首を飾るワインレッドのマフラーの隙間に手を入れ、頸動脈に触れる。……やはり脈動は無く、そして自分の肌より少しだけ冷たい気がした。
「ダメだよ!」
流雫は無意識に叫んだ。その声には、怒りよりも悲しみが色濃く滲んでいた。
「もうすぐ……もうすぐ救急車が……!」
そう叫ぶ流雫の、アンバーとライトブルーのオッドアイの瞳が、一瞬で濡れていく。その瞬間を澪は見た。
……見ず知らずの誰かであろうと、今その命が消えようとしていることを誰よりも悲しむ。これが、仮に黒薙だったとしても流雫は同じことをしただろう。それこそ、あの澪の同級生、大町誠児の死に目に会った時と同じように。
流雫は、誰にもテロや通り魔に殺されてほしくなかった。澪だけでなく、家族や親戚だけでなく、見ず知らずの人でさえも。残された人が、美桜を失った自分が抱えているような、もしくはそれ以上の悲しみに沈むことが、彼には耐えられない。
偽善者だと何だと言われても、それは経験したことが有る人にしか判らない。そして、経験すること無く判らないまま生きられるのなら、それに越したことは無いのだから。
「流雫……」
澪が悲しげな声で恋人の名を呼んだ瞬間、2人が背を向けた慰霊碑の方が騒がしくなる。
「うわっ!」
「バカか!」
騒ぎ声と怒号が重なり、鈍い音が何度も響く。その方向に目を向けると、流雫は濡れたままの目を見開き
「なっ!?」
と声を上げた。
宅配便で使われるような小さく、そして古めかしいドライバンが、スクランブル交差点から駅前広場に乗り上げ、音を立てて何人か撥ねる。2人乗りの白いキャビンの、向かって右側に人の形が見えた。
ドライバンは、慰霊碑にフロントから衝突して止まった。慰霊碑が砕け、ドライバンのガラスが割れ、ボディが大きく歪む。
怒りを爆発させた数人が、運転していた輩を引きずり出そうとドアを開けた。その1秒後、アルミ製の荷台が一瞬で膨らみ、轟音を立てて爆発した。金属製のボディが爆風で大きく歪み、炎に包まれている。
黒薙は咄嗟に、隣の同級生の腕を引き寄せて自分の背中を盾にする。
「いやぁぁぁぁぁ!!」
笹平はしゃがみながら叫んだ。トラックの爆発で飛ばされ、地面に転がる人に、思わず美桜を重ねた。
「笹平!!」
と黒薙は声を上げ、引っ張られるように中腰になる。
「美桜が……!」
笹平は思わず声を上げる。無意識に出たその名前に、黒薙は舌打ちした。
「ちっ……!」
……フラッシュバック。自動車爆弾の自爆と云う共通項が、笹平にあの8月のことを思い出させた。折角PTSDも落ち着いていたと云うのに。
「立てるか!?」
「いや……いや……!!」
蹲って動けない笹平の腕を掴み、無理矢理立たせて肩で支えた黒薙は、燃え盛るドライバンから少しでも離れようとした。
警察官も、広場に乗り上げたトラックに目が行く。その隙に、ダウンジャケットの男は警察官を次々と撃った。今は防弾ベストを着けているとは云え、胴体以外の無防備な部分を撃たれては意味が無い。
呻きながら倒れていく警察官。しかし、最初から聞こえた銃声は10。既に弾切れのハズだった。
だが、弾倉が地面に落ち、鋭い音を立てて跳ねた。そしてジャケットのポケットから新しい弾倉を装填した。
「な……!?」
まさかの事態に、澪は目を見開く。
……地面に落ちた弾倉に、封印を剥がした跡が無かった。
封印は、指定された場所で指定された人が装填したと云う証拠になるシールで、銃身と弾倉に跨がるように貼られ、剥がすとホログラムの跡が残るようになっている。
これが剥がれていると、銃刀法違反として処罰の対象になる、として警察官のリボルバー銃に合わせる形で6発と云う最低限の弾しか持つことができないように、システムが組まれていた……ハズだった。だから、そもそも予備の弾倉自体存在しないハズだ。何故持っているのか……。
しかしそれ以前に、弾倉を交換するまでの時点で、犯人は10発撃っていることになる。……6発ではない。弾倉を交換すること無く、何故それだけも撃てるのか。……理由は1つ。
「流雫」
澪は恋人の名を呼び、目が合うと弾倉に向かって首を振る。流雫はUVカットパーカーの袖で目蓋を一度押さえた後、それに従う。すぐに顔を彼女に戻した流雫の表情は、戸惑いに支配されていた。
……そもそも、あの銃が違法……?
同時に、スクランブル交差点に緊急車両が何台も群がる。周囲から持ち出された有りっ丈の消火器による、ドライバンの消火作業が始まっていた。
救急隊員が、撃たれた人に駆け付けようとする。しかし、犯人はその足下を撃って威嚇する。弾かれた弾が隊員に当たることは無かったが、いよいよ何が目的なのか。
「くっそ!!」
と舌打ちした流雫と澪は、倒れた人を置いて左右に別れると、咄嗟にブルートゥースイヤフォンを片耳だけ着ける。そして流雫はホーム画面に置いた澪への通話のショートカットを押した。テレパスでもない以上、通信デバイスに頼るしか無い。
澪のスマートフォンが鳴って1秒後、通話が始まる。
「何が……!」
「あたしが知りたいわよ……!」
それが互いの第一声だった。
流雫も澪も、有り得ないと思われていた事態に軽く混乱していた。その間に、犯人は倒れた警察官の手から拳銃を奪った。
銃身から大きくはみ出た弾倉が最後だとしても、今手に入れたばかりのリボルバー3丁も含めて、犯人の手持ちの残弾は30。こうなると、誰も手が出ない。
これだけの往来が有る街で、まさか流雫と澪の2人だけしか銃を持っていない、なんてことは無いだろう。だが、銃を持っていることがバレれば撃たれることは目に見えていた。だから、
特殊武装隊に囲まれれば一発なのだろうが、それが来るまで逃げ延びなければ。
……しかし、後ろからも銃声が響く。2人にとって、悲壮感を絶望に変える音のように聞こえた。
そもそも、トラックが暴走した時点で、犯人は1人じゃない……と云う予感はしていた。何より、封印が無い弾倉が転がっていることで、この男は単なる実行犯の一角に過ぎないと読める。そして、それができるのは……。
背後からの銃声は、ジャンパーを着た2人組と4人の警察官が小規模の銃撃戦を始めていたことを意味する。多勢に無勢……但し警察は、銃弾の補填ができないリボルバー銃6発のみ。対して市中に出回り、そして連中が持っているのはオートマチック銃6発、しかも何故か予備の弾倉付で、幾つ持っているかも判らないし、下手すると弾倉自体が6発を超えて装填できる違法なもの。1人あたりの弾数は、警官のそれより遙かに上回っている。
「どうする……」
流雫は呟く。
撃たれた人を助けようとしなければ、今の事態に陥らなくて済んだ。しかし、消されそうな命を放っていられなかった。ただ……無力過ぎた。
幾つかの呻き声と騒ぎ声が重なる。立っているのは、ジャンパーの男2人。警察官は全員倒れる。救急隊員はその男たちに銃口を向けられ、被害者たちに近付けない。
一瞬、流雫と澪の目が合う、と同時に更に爆発音が響き、2人は爆風に少しだけ背中を押された。消防車が着いたのを嘲笑うかのタイミングで、トラックを包んでいた炎は燃料タンクから漏れ出た軽油に引火した。渋谷の空に黒い煙を吐いていく。
「逃げろ!!」
と次々に叫ばれる中、流雫は叫んだ。
「どうして……!?」
近寄れない救急隊員の目の前で、2人が駆け付けた人の顔が少しずつ青白くなっていく。
美桜を殺され、笹平も辛い思いをしたこの場所を汚された……。そして、見ず知らずの命があの日のように、理不尽に消されようとしている……。
「流雫!?」
澪は彼に目を向ける。流雫は構わず続けた。しかし、声が震えている。
「あの日と……同じじゃないか……!」
誰もが、少なからず画面越しに見たことが有る、あの渋谷の惨劇が蘇る。そして少年は、冷静を装う黒薙の声を思い出した。
「……宇奈月。落ち着いて聞け」
「欅平が……死んだ」
あの日の、処刑宣告に似た言葉に、流雫は奥歯を軋ませた。
彼から3メートルほど離れた澪は、肉声とイヤフォン越し、双方から伝わる恋人の震える声に、唇を噛む。
男は流雫に目を向ける。その隙に澪は、手早く銃をミントグリーンのトートバッグからコートのポケットに移した。しかし、銃を握る男は少女の方向に向く。
「澪!」
流雫は恋人の名を呼びながら、地面を蹴った。黒いショルダーバッグを振り回し、ダウンジャケットの影響か太く見える腕に叩き付ける。
「くっ!」
男は声を上げるが、厚手の生地に守られ、ダメージは無い。
流雫は勢いを殺しながら犯人に正対し直すと、バッグから銃を出した。地面にバッグを投げ捨てた流雫がジッパーを下ろしきった白いUVカットパーカーの隙間から、フランス国旗のトリコロールを遇ったネイビーのシャツが見えている。
流雫の国籍は日本だが、ルーツはフランス。そして母アスタナ・クラージュ譲りの日本人らしからぬ外見。それで周囲から揶揄われたことすら有ったが、それに屈することは無かった。
そして、今は昨夏の帰郷中、トーキョーアタック前日にパリの空港で入手したこのシャツを気に入っている。色違い合わせれば5枚ぐらい有るだろうか。シャツにはフランス語で「フランスの誇り」とキャッチコピーが記されてあった。
その少年の綺麗なオッドアイは、ほのかに殺気すら感じさせた。まるで、消えゆく命の無念を晴らそうとするかのように。
「ふざ……っ!!」
男は流雫に向いた。
右手には自前の、左手には警察官から奪った銃が握られている。残りはポケットにでも入れてあるのだろう。
弾数だけを見れば、数十発対6発と多勢に無勢。ただ、今この瞬間の人数は1対1。流雫は不利とは思わなかった。
男の左腕が流雫に向かって伸び、銃声が響く。しかし、腕の動きを見て瞬時に同じ方向へ走った流雫は、右足の疼くような違和感を無視して渦を描くように男に近付き、左腕を振り回してその背中に銃身を叩き付けた。
「ぐっ!」
顔を歪める男は、腕を背後に回す。咄嗟に流雫はしゃがみながら、スライドを引く。撃たれると思った澪は
「流雫っ!!」
と叫んだ。その声が肉声とイヤフォン越し、双方から響くと目の前の太腿に銃身を押し当て、迷うことなく引き金を引いた。2回、火薬が爆ぜてスライドが動く。
「あっ……!!」
低い声が上がると、目の前の色褪せたデニムが赤黒く変色した、と同時に男は自分の背後に腕を回す。流雫の頭上で大きな銃声が10回響く。しかし少年には当たらず、1メートル少し離れたタイルに薬莢が跳ねる音が響き、スライドが引かれたまま止まる。苦し紛れに引き金を引いて、そして弾切れ……。
流雫は左手のリボルバー銃が回ってこないうちに、立ち上がりながら右手の甲を銃身で殴った。
「ぐっっ!!」
と歯軋りしながら顔を歪める男は、オートマチック銃を落として前屈みになる。流雫はその銃を踵で蹴りながら斜め後ろにステップし、止まる。
リボルバー銃を持ったままの左手で、撃たれた箇所を押さえる男は、右手で別のリボルバー銃を出そうとしたが、やがて両手で太腿を押さえ、痛みに歪んだ顔で流雫を睨む。
「流雫……!」
安堵感を滲ませた澪の声が、数メートル離れた流雫にイヤフォン越しに届く。そして、ダークブラウンの瞳は恋人に向いていた。流雫は、彼女に顔を向けながら言った。
「リボルバーを隠し持ってる。何時撃……」
しかし彼の目には、澪の背後に立つ2人の男がそれぞれ流雫と澪に銃口を向けようとするのが見える。
「澪!右!」
そう強く言った流雫は左に跳び、澪はイヤフォンから響く彼の言葉通りに右へ走る。
ついに2人の犯人も、高校生の男女2人を標的にしたらしい。仲間の敵討ちか。流雫が撃った男が、痛みに悶えるのが精一杯だったことは、戦力が増えない意味では好都合だった。
しかし、すぐ近くの交番から駆け付けた警察官も、応援に駆け付けた警察官も斃れた。更なる応援と特殊武装隊が来るまでの時間稼ぎ……となってほしいが、そうはならない。
遠目に見える銃口が再度流雫に向いた途端、男は走り出す。距離を詰められ始めた少年は、左にステップするとすぐ近くのベンチの座面から背もたれの縁にノーハンドで飛び乗る。そのまま僅かに捻りを入れながら縁を蹴り付け、背中から宙に跳んだ。
……好きな科学番組の公式の3分間動画で、エアガンとペイント弾を使った実験が有ったが、その様子を鵜呑みにすれば、ジグザグに避ける場合はターンの速度を落とさないことが重要らしい。相手の照準を合わせにくくすることが目的だからだ。動く標的に速射で当てるのは難しく、たとえ流雫でも自信は無い。
そして、そのために最も手っ取り早いと流雫が見つけた答えが、簡単ながらもパルクールだった。河月のアウトレットでもそうだったが、間合いを詰めるにせよ開くにせよ、そして本物の銃弾であろうとペイント弾であろうと、直線上に走らないと云う本質は変わらない。
僅かに捻りを入れたことで、空中で身体が90度右にゆっくりと向く。一気に間合いを詰めようとした男に正対して着地した流雫を、その銃口が捉えようとした。それと同時に、イヤフォンから
「流雫……!」
と声が聞こえる。……早く決着を付けて澪を……。
「待ってて!」
とだけ答えた流雫は、足のバネを使って一気に突進して懐に飛び込み、右手に握られた男の銃が流雫に向かって動いたと同時に左肩に銃を押し当て、引き金を引く。火薬が爆ぜる音に
「がっ……あっ……ぐ……!」
と呻く声が続き、ダウンジャケットに血が染み始める。男は歪む顔で睨み付けながら、反対の手で銃を握った。しかし、片手で撃とうとしても銃口が震えているのが、流雫には判る。
銃を持った方の肩を狙っても、相手は反対の腕で支えながら撃つことができる。ただ、持っていない方を狙えば、反撃するにはわざわざ銃を持ち替える必要が有る。そして、片手で撃つのは難しく、利き手でなければ銃口を正しく向けるのも手間取るだろう。
そして、何より澪が気になる。
澪はダークブラウンのセミロングヘアを揺らしながら、男に背を向けないように走り出す。それと同時にシルバーの銃をトートバッグから出し、鞄を地面に置いた。
スライドを引いた澪は、ケープ型コートをなびかせ、流雫から教わった通り直線に動かないように動き回る。スピードで男に敵わないのは判っているから、小刻みな……そして目障りな動きで惑わすしかなかった。
澪がふと周囲を見回すと、ベンチの背もたれの縁を蹴った流雫が、宙に舞うのが判った。彼の右足に違和感が残っているとは思えない動きだが、しかし不安は残る。何より、流雫は無理する性格だ。
「流雫……!」
澪は思わず、その名を呼ぶ。
「待ってて!」
その声が聞こえた瞬間、澪は微かに頷いた。
……無理する性格、しかしその声だけで、希望に満たされる。ただ、無意識に無理を強いているのは、あたしなのかもしれない……澪は一瞬、そう思った。
広場の中心で流雫は、しかし次の一瞬をどう遣り過ごすか迷っていた。周囲を一瞥すると、流雫が最初に撃った男は痛みに悶えながらも、血塗れの手でリボルバー銃のグリップを握っている。数撃ちゃ当たる……なのか。2つの銃口が流雫を捉えようとした。とにかく、あのシルバーヘアの男を止めたい、殺したいのか。しかし、彼への怒りで冷静さを欠いているように見える。……ならば。
流雫は挟み撃ちになるのが判ると、犯人2人と自分が一直線に並ぶ方向に走った。飛んで火に入る……血迷った少年に向けて
「死ねぇぇぇぇぇ!!」
と、銃を構えた男が痛みに乗じて叫んだ。震える銃口を流雫の方向に向け、勢い任せに引き金を引く。しかし、その叫び声を合図に流雫は
「っ!!」
と咄嗟に地面に手を突き、腰を低くする。その瞬間、大きな銃声が2つ、ほぼ同時にビル街に反響し、それと同時に
「おぉっ……!!」
と2人が醜い呻き声を上げた。
流雫に太腿を撃たれ手を血塗れにした男は胸部を、そして同じく肩を撃たれた男は腹部を押さえ、その場に膝から崩れ落ちる。……一瞬期待した同士討ち。しかし、まさか両方斃れるとは。
……だが、未だ終わっていない。シルバーヘアの少年は、澪に牙を向ける最後の1人に向かって行った。
流雫と澪が持っている銃は、数種類流通している中で威力が最も弱い。それは弾が小さいことと火薬が少ないことを意味しているが、その分反動と音が小さく扱いやすい。
そして同時に、銃が近距離戦に特化していることを意味する。流雫が犯人との距離を取らないのは、そう云う理由だった。そもそも、撃つのは最終手段だが。
小刻みに動けるとは云え、スピードで劣る澪はついに犯人に追いつかれた。至近距離から撃たれる……!?
「っ!!」
澪は男の手首を狙って、銃身を振り下ろす。鈍い音がして
「ぐっ!」
と男は声を上げたが、しかし銃は落とさなかった。咄嗟に離れる澪に、男の目線が改めて向けられる。……その殺気すら帯びた目に少女は怯まず、逆にシルバーヘアの少年が迫ってくるのが見えると、不敵な微笑を洩らした。
「澪!!」
と叫んだ流雫は走りながら、UVカットパーカーを半ば強引に、腕から引き剥がすように脱ぐ。
「いっけぇっ!!」
と声を上げた少年に、男が顔を向ける。数秒前までネイビーのシャツに触れていたパーカーを、片手でバットを振るように顔を狙って振り回す。
白い布の塊に不意打ちを食らった男は
「わっ!!」
と声を上げた。……とは云え、所詮は乾いた軽めの布で、ダメージは軽い。しかし、最大の目的は……目眩まし。
腕を振り切って、男の顔から離れたパーカーを宙に放り投げた流雫は、その背中を銃身で殴った。
「がはっ!!」
と口を大きく開け、目を見開いた男は流雫にターゲットを切り替えた。しかし、遅い。流雫は目の前の急所を狙って左足を振った。
「ごっ……!!ぉっ……!!」
聞くに堪えない醜い声を上げ、男は膝から崩れ、その場に四つん這いになる。急所を押さえたまま悶絶していた。
……流雫がつま先で狙ったのは精巣。膨張と収縮を繰り返す海綿体よりも遙かに痛い。男同士だからこそ判る、この死んだ方がマシだとさえ思えるような激痛には、誰も耐えられない。
宙を舞う白いパーカーを手に掴んだ澪は、自分に背を向け仁王立ちした流雫を見つめる。長袖のシャツだけなのに体は熱く、息を切らしている。
ようやく駆け付けた特殊武装隊が、3人の身柄を取り押さえる。それに数秒遅れて救急隊員が、コートを着て倒れていた女の人の隣に担架を付ける。しかし流雫には小さくも
「心肺停止!」
と聞こえた。流雫と澪が駆け寄った……あれから数分が過ぎている。死亡診断は医師でなければ行えないが、これから搬送まで、どんなに近くても数分は掛かる。事実上の死亡宣告だった。
……助からなかった。流雫は膝から崩れ、背中を丸めて叫んだ。
曇り空の寒い渋谷で、朝から起きた惨劇。あの女の人は、何もしていないのに撃たれた。流雫は見ず知らずとは云え、呼吸も脈も止まった体に向かって、もうすぐ救急車が来るから助かる、と励まそうとしていた。
……誰だか知らないが、死んでほしくなかった。この場所で美桜が死んだあの日、自分が空港島で泣き叫んだような悲しみに、誰も襲われてほしくなかった。
しかし、叶わなかった。だから澪が殺されないため、自分が死なないため……それにあの殺された人の無念や怒りを無意識に、それどころか勝手に抱えていた。
流雫は自分自身を慰めるかのように強く抱きしめ、叫ぶような泣き声を上げる。狂ったように泣き叫べば、トーキョーアタックを思い出させるような光景を、止まった脈と冷めていく肌の感覚を、忘れられる……逃れられる、……そう思いたかった。
澪は耳のイヤフォンを外し、流雫に駆け寄る。騒がしい周囲のノイズを掻き消すほどの、彼のリアルな叫び声が耳に、脳に突き刺さる。
「流雫……!」
澪はその名を呼び、パーカーを持ち主の肩に掛けてやると、その隣で地面に膝立ちする。流雫からの誕生日プレゼントだったブレスレットが飾る左手で、彼の濡れる頬に触れた澪。その腰を掴んで引き寄せた流雫は、一際大声で泣き叫んだ。
「流雫……」
澪は胸元で叫ぶ最愛の人の名を呼び、ただその頭を撫でることしかできなかった。
……見知らぬ人とは云え、人が目の前で殺された。しかし、澪が同じ憂き目に遭わなくて済んだ。彷徨う怒りと悲しみ、そして安堵が複雑に絡み合う中で、流雫は自分が生きていること、何より澪が生きていることに救いを求めていた。それしか救いは見当たらなかった。
澪の視界の端に、白い粒が舞う。ついに粉雪がちらつき始めた。澪はふと、東京に初雪をもたらした灰色の空を見上げる。
……しかし、この粉雪に彼が癒やされることは無い。ただせめて、眼前で失われた見知らぬ命へ捧げる、弔いの花片の代わりになってほしい……と澪は思った。それで名も知らないあの人が、少しだけでも救われるのなら。流雫に突き刺さる悲しみを、断ち切れるのなら。
澪は思わず目を閉じる。左右の頬に冷たい線が、走った。