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5-2 Shade Of Rejection

 今日も流雫は、澪の家に泊まる。その前に、秋葉原で夜用のケーキを調達しようと思った。春に澪に連れられて行ったカフェのパンケーキがToGoに対応したらしい。
 ……秋葉原は流雫にとって、その時以降苦い思い出しかない。
 8月、臨海副都心の大規模イベント帰りの連中でごった返す駅前で青酸ガステロが起き、その後小さな暴動も起きた。澪とその同級生2人が遭遇し、2人は軽症ながら病院に運ばれた。
 澪は無事で、流雫はそもそも河月の図書館にいて無関係だった。しかし、危険だから来てはいけないと言った澪の言葉に反して行けばよかった、行けば澪は、少しだけでも気が楽になっただろうに……と思っていた。夜までそのことを引き摺り、知り合って1年近くで最悪の夜を過ごした。
 そして10月、昼間に臨海署でも話した駅前のハロウィンイベントで事件に遭遇し、流雫と澪は複雑に絡まる感情に襲われ、泣いていた。
 2人だけにしか……偶然居合わせた澪の同級生2人にさえ……判らない感情は、寧ろ2人には判ってほしくなかった。判ると云うことは、テロや通り魔に対して、銃を手に立ち向かったと云うことだから。

 秋葉原駅に着くと、何やらイベントをやっている。明日から12月で、クリスマス商戦が本格化するのを前に、2週間前に発売されたばかりの最新VRゲームデバイスの体験会をやっていた。
 大容量バッテリーと大容量ストレージを搭載した上に定額制の通信機能も搭載し、単体でオンライン対戦も可能。時間も場所を問わず遊べるのがウリらしい。尤も、デバイスを装着して遊んでいる連中を其処ら中で見掛けると、その異様な光景に流石に軽く引くが。
 秋葉原らしいが、ゲームに使える金を澪とのデート……交通費が大半なのだが……に費やしている流雫にとって、そこまで興味は無い。ただ、故郷フランス、特に両親が住む西部のブルターニュ地方で人気の自転車ロードレースを舞台にしたゲームが有れば、雨の日に自転車に乗れなくても気分だけでも楽しめる……と思っていた。
 そのイベントを尻目にカフェに向かっていると、スタッフに呼び止められる。無料だから試していかないか、と云うものだった。多少の暇は有るし、悪くないとは思った2人は二つ返事で試してみることにした。
 すぐに流雫の番になり、立ったまま本体となるヘッドセットを装着させられると、卵形のコントローラーを片手ずつ握る。この2つのコントローラーと実際のモーションを駆使して、よりリアルな体験ができるらしい。そして、デバイスに小さなカメラが仕組まれていた。
 電源が入ると、流雫の視覚と聴覚はゴーグル状態のデバイスに支配された。1分前まで見ていたリアルな秋葉原が美麗なCGで映し出されている。
 そして左右にいる澪とスタッフもCGとして映し出されている。どうやらそのカメラで捉えた映像を瞬時にCG化しているようだった。
 ただ、ゲーム上で流雫が握っていたのは銃だった
「……え?」
流雫は思わず声を上げる。コントローラーの操作でトリガーを引き、現れるゾンビを撃つと云う典型的なFPSだったが、それが今いる場を舞台に遊べると云うのか。
 しかし、流雫はコントローラーの手を動かさず、口を震わせている。流雫の隣でワイヤレスで接続されたディスプレイを見て、そのリアルさに驚いた澪は、しかし無意識に一瞬だけ流雫に目を向け、その異変に気付いた。
 流雫は一度だけ撃つが、それは近くにいた無関係の人に当たり、その体から血が噴き出して倒れる。
「あ、あ……」
「流雫……?」
呟くような小声を出した恋人に、澪は一種の危険を感じた。流雫が震えながら首を右に向けると、澪がゾンビとなって描かれている。咄嗟に澪が動き出すと同時に、ゾンビが一気に流雫の視界を支配した。流雫は動けないまま震えている。
「ああ……あ……」
と小さな声を上げる少年に
「流雫!」
と叫んだ澪は、流雫の後頭部のハーネスに手を掛け、一息にデバイスを外した。アンバーとライトブルーのオッドアイの瞳は焦点を失い、曇っている。顔面蒼白だった。澪は
「流雫?」
と名を呼びながら軽く頬を叩いてみるが、反応は薄い。
「……彼、VR酔いしちゃったっぽくて……」
と澪が言うと、スタッフは
「最初はよく有ることですから。プレイしていると、そのうち平気になりますよ」
と言い、そのリアル感を強調するようにプレゼンを始めた。
 澪は流雫の腰に手を回し、スタッフに頭を下げてその場を後にした。近くのベンチに彼を座らせ、隣の自販機で選んだホットココアの缶を手に握らせる。
「……サンキュ……」
ようやく口を開き、そう力無く答えた流雫の表情は、暗い。
 ……澪が言ったVR酔いは、あくまでも流雫を連れ去るための口実でしかない。……流雫は酔ってなんかいない。
 ゲームでの描写とは云え、間違えて撃った人が血を噴きながら倒れた。あくまでもゲーム内でのことで、実際に人が死ぬワケではないが、それでも人を撃ち殺すこと自体に、彼の脳が追い付くどころか拒絶反応を示していた。VRとリアルの区別が、別の意味でついていなかった。

 人間の五感のうち、大多数の情報量を占める視覚と聴覚を支配するVRは没入感をもたらし、映像コンテンツとしての新たな可能性をもたらして久しい。それも、スマートフォンをゴーグル一体型のボックスに入れる安いものから、先刻プレイしたようなそれ本体が高性能な筐体になっていると云うものまで、種類は多い。
 その一方、数年前何処かの国での実験で、ギロチンによる斬首刑のVRを体験させたところ、殆どの被験者がPTSDを発症したと云う事例が有った。それほど、コンテンツ次第では人に悪影響を及ぼしかねないと云うリスクも有る。
 そして、今の流雫にとってFPSは大きなリスクでしかなかった。そもそも、体験できるコンテンツがFPSだと最初から知っていれば近寄らなかったが、今となっては後の祭りだ。
 VRのリアルさが、FPSへの拒絶反応を増幅させ、結果流雫は凍り付いた。澪が流雫からデバイスを引き剥がしていなければ、多分これだけで済んではいないだろう。
「……やっぱりダメだ……」
流雫は俯いたまま、呟く。
「仕方ないよ……」
隣に座る澪は言った。
 FPSで遊ぶこと自体は普通だが、流雫はそれができない。昔は見ることはできたが、最早それすらできなくなっていた。
 ……銃を握って人を撃った、それも護身のため、何度も。だから、ゲームとは云え、人を撃つことに抵抗が有る。思えば、5月に行ったゲームフェスでも、流雫はFPSのブースにはVRか否かに関わらず一瞬も目を向けなかった。興味の有無、それ以前の問題だった。そして今は、VRとの組み合わせがこれ以上無いほどの最悪だった。
「……悪い、心配させちゃって……」
と弱々しく言った流雫に、澪は
「流雫は……銃との向き合い方を誰より知ってる……。だから、仕方ないよ……」
と言った。……しかし、それしか言えなかった。
 ……仕方ないよ。それしか言えない自分に、澪は苛立ちを感じていた。流雫は流雫で、澪を心配させた自分に苛立ちを感じていた。

 ……最近、2人が笑っていることが以前より減った……ように、流雫には思える。相次ぐテロや通り魔の脅威、それに対して銃を持つことに、心を蝕まれているような感覚さえ抱く。
 蝕まれながら、それでも時には立ち向かわなければ、生き延びることさえできない。逃げ切りたいなら、戦うしかない……それぐらい判っている。しかし、ヤジ馬以上に最も厄介な敵は、流雫や澪に濃い影を落としていた。
 ……死なないため、殺されないために銃を持つと決めた。それは好きな戯曲に出てくる悪魔……メフィストフェレスとの契約のようだと流雫は思っていた。
 銃と云う悪魔が怖いのは、たった1発の銃弾で人を殺せることより、犯人を護身のためとは云え撃ったと云う事実を、脳に焼き付かせることだった。
 全ては正当防衛だとは、判っている。ただ、悪魔の力を借りなければ、生き延びることができないと云う残酷な現実は、今生きていることへの安堵の影に潜みながら、ゆっくりと流雫を蝕んでいく。
 ……ダメだ。今は無理矢理にでも動かないと、このまま沈んだまま無駄に時間を過ごす。そう思った流雫は、突然立ち上がり、澪に問う。本来の目的は、VR体験じゃない。
「……あの店、何時までだっけ?」
そこで澪は、秋葉原に寄り道した本来の目的を思い出した。
 「あ、あと1時間で閉まっちゃう!」
と、澪は右手の腕時計を見ながら言い、彼に問う。
「流雫、動けるの?」
「怪我したワケじゃないからね。もう落ち着いたし」
流雫は答えた。
 ……落ち着いた、それは半分ウソだった。しかし、このままこの場所にいても、互いに無力な自分に苛立つばかりだった。
 それなら、落ち着いていなくても気を取り直すしかない。そのうち、この苛立ちも本当に落ち着くだろうと思った。澪があまりよく思わないのは、判りきっているが。

 目の前で売り切れたパンケーキは、新しいのを焼くのに時間が掛かるらしく、2人はコーヒーだけをオーダーして待つことにした。10分前に澪から渡されたココアを飲んだが、サイフォンで淹れた少し苦めのコーヒーの方が、今は性に合っている気がした。
 コーヒー片手に、明日の予定を話す高校生2人。明日こそは日本橋に厄払いのお祓いに行きたいと思っていた。二度とテロに遭わないように、と云う願い事をしたかった。
 その後は渋谷に行くことにした。美桜に会う……スクランブル交差点のトーキョーアタック慰霊碑に行くためだった。多分最後に行ったのは、9月だったか。
 その話でまとまった頃、パンケーキが焼き上がった。2人は家族3人と流雫、合わせて4人分のパンケーキが入った紙袋を受け取り、駅へと向かった。

 澪の家では、母の室堂美雪が料理の途中だった。そのタイミングで帰り着いた澪は、その手伝いをしようとエプロンに手を掛ける。流雫もそれに混ざろうとしたが、先刻の事も有り、のんびりしていなよ、と澪から制された。普段からペンションの手伝いをしているためか、つい体が動くのは仕方ないことだった。
 流雫はダイニングテーブルにスマートフォンを置いて電子書籍を開く。選んだのは、何度も読んできた戯曲だった。

 ……あらゆる学問を究めながら満足しない学者ファウストは、神との賭けで訪れてきた悪魔メフィストフェレスから契約を持ち掛けられる。
「お前が生きている限り、俺はお前の忠実な下僕になる。その代わり死んだ後は、お前は俺の支配下だ」
と。それに乗った人間は
「いいだろう。時よ止まれ、汝はいかにも美しい……そう言った時こそが、俺が死ぬ時だ」
と応え、ドイツ文学史に残る壮大なファンタジーが幕を開ける。これが、あのゲーテが生涯を掛けて書き上げた名作の相当大雑把な概要だった。
 ……自分が主役のファウストだとすれば、死なない、殺されないと云う自分の願いを叶える意味では銃こそがメフィストフェレスだ、と流雫は思っている。
 確かに、銃を手にしたから、テロや通り魔に何度も遭遇しても、流雫は生き延びてきた。しかし、やはり火薬が爆ぜる銃声や銃の反動は、今でも耳と手に残っている。まさに悪魔の呪いのように。
 恐らくそれは、宇奈月流雫と云う人間の命が終わる瞬間まで、簡単に言えば生きているうちは永遠に消えることは無いだろう。それが何年後か、何十年後か、もしくは明日か。終わる時が判らないことが、更なる戦慄を覚えさせる。何時まで続くのか、と。ただ、今死ぬ気は毛頭無い。
 澪はダイニングテーブルに食器を置きながら
「……流雫は、偶にはゆっくりしないとね」
と流雫に言った。……尤もだった。

 澪の父が帰宅したのは、その数分後だった。室堂一家に流雫が混ざってのディナータイムが始まり、澪の母の特製スープカレーを堪能した。常願も、昼間臨海署で見た刑事としての顔は無く、父親の顔をしていた。
 その後、澪の両親はリビングに移動し、飲酒を始めた。肴になるかは微妙なところだが、秋葉原で手に入れたパンケーキを2人分渡した澪は、残りを流雫と愉しむべく、自分の部屋に持って上がる。
 ローテーブルにドリップコーヒーとパンケーキを置きながら、澪は
「いくら父相手とは云え、取調は緊張するわ……」
と言い、流雫の向かい側に座る。父と娘の間柄ではあるが、やはり刑事とその娘だ。父の仕事場では、あれでも緊張している。
「……少しは、役に立ってるといいけど……」
流雫は言った。
 弥陀ヶ原や澪の父は、協力的で助かっているとは言う。ただ、流雫自身にはその実感が無い。無論、この取調が弾みとなって即座に全容解明に至るワケではないことは、重々判っているが。
 「役立ってると思うわ。そうでなきゃ、多分家に泊めたりとか、ここまで好意的じゃないと思うわ。あたしには甘く見えても、あれでもかなり厳しいから」
と座りながら言った澪に
「それならいいけど」
と返した流雫は、溜め息をつく。澪はその安堵していない表情を見て言った。
 「流雫はゆっくりしないと。……あたしもだけど」
「判ってる……と思いたいけど、つい……」
と言って、少しだけミルクを入れたコーヒーを一口だけ飲んだ流雫は
「澪には……心配ばかりさせてる気がして……」
と言って俯く。
「心配……させてるわね。でも、だからあたしは生きてる」
と澪は言った。
 見ている方が心臓に悪い、と言われながらも、流雫は絶望に囚われながら微かな光を見つけては、手繰り寄せてきた。形振り構っていられないから、ラディカルにならざるを得ない。
 今まで何度、それに九死に一生を得てきたか。澪は誰よりも判っていると思っていた。
 少女は恋人の隣に座り、
「だから、あたしは流雫の力になりたいと思ってるし、流雫には笑ってほしい。今まで辛かった分……」
と言った。
 ……あの秋葉原の事件から、流雫の表情に……微笑にさえ陰が見えるようになった。アウトレットでの事件を機に、それが顕著になる。やはり、自分が撃たれたことで澪を泣き叫ばせた……それに罪悪感を抱えていた。
 そして、それじゃダメだと思うことが、逆に彼を追い詰めている。アウトレットでの一報を聞き付け、フランス西部のレンヌから駆け付けた流雫の母、アスタナ・クラージュ。彼女は自分と1万キロ近く離れた日本で暮らす一人息子が陥ったスパイラルに気付いていた。母と子の関係とは云え、それほど判りやすかったのか。
 コーヒーは冷めていく。冷め切ったパンケーキも手付かずだった。エアコンの音だけが微かに聞こえる部屋で、澪はシルバーヘアの少年の隣で
「……あたしがついてるから」
と言って、その頭に触れる。
 ……何度も聞いてきた、でも何度も聞きたかった、流雫にとっては魔法のような言葉だった。
 澪そのものが流雫にとって生きた証だし、生きる希望だった。だから、何時しか自分が死ぬより澪を失うこと、殺されることを何より怖れていた。だから、その一言で生を感じられる、救われる。
 流雫は
「澪……」
と囁くような声でその名を呼ぶ。目が疼き、少しだけ冷たさを感じる。焦点を失いかけた視界が滲むのを抑えようとしても、悪足掻きにすらならなかった。

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