第三章 魔導士
第三章 魔導士
…蒼真…。
にぎやかな小鳥の囀りと差し込む朝日で、目が覚めた。
久々にふかふかとした寝台で眠ったせいで、熟睡してしまったようだ。
うーん、とシルヴェーラが寝台の上で身体を伸ばすと、ごん、と拳が何かに当たった。
あっ…昨日はガルディエルと一緒に寝たんだっけ…。
そろりと身体を起すと、子供のようにすうすうと無防備に眠りを貪っているガルディエルが真横にいて、シルヴェーラは思わず吹き出した。
こいつ、まだあたしの衣服握ったまんま…。
昨日から一度も放さず握っているらしく、捕まれた腰の辺りはくしゃくしゃに皺がいっている。
ガルディエルが起きるまでこのまま待っているのもまずいな…。厚かましく同衾していたなんて…。
シルヴェーラはガルディエルがぐっすり眠っているのを確かめて、ごそごそと衣服を脱いで寝台から降りた。
アイシュナが用意していた着替えと蒼真を持って、昨日教えてもらったガルディエルの部屋の隣にある浴室へ向かった。
黒大理石で創られた艶やかな浴場は、端から端まで泳いでいけるほど大きく、天井は水晶を通して差し込む朝の光に輝いていた。
「いくら資源豊富とはいえ、贅沢だよなー…」
火山帯があるヴァーゴ国は、周辺の国よりも多く温泉が湧く。 そのため一年中温暖な気候で天候もよい。
温泉での湯治や、落ち着いた気候で年中咲き乱れる様々な花から取れる香油や蜂蜜、柑橘類を国の産業とすることで、ヴァーゴ国は潤っていた。
初めてシルヴェーラが口にした塩と柑橘で味付けられた水は、温泉として湧き出るものに特産品の柑橘を絞ったものだという。
その温泉で満たされた湯槽を足で蹴り上げ、シルヴェーラは大の字になってぷかぷかと浮いていた。
「まさか、砂漠で乾燥死を覚悟した後で、この温泉での贅沢が待っているとは…」
次元流砂の転移先が大陸を飛び越えているだなんて。生きているだけでも奇跡だというのに、その先に幸運が待っていたとは。
「さぞ神もびっくりだろう…」
香りが移るくらい香油の効いた石鹸で髪と身体を洗って、シルヴェーラがご機嫌で脱衣場で身体を拭いていると、壁に填め込まれている銅鏡が目に付いた。
久しぶりに見た自分の鍛えられた裸体に色気がないと感じながらも、シルヴェーラはくるりと背を向けて振り返った。
「やっぱり、くっきり残ってる…。消えるわけないか、こんな傷…」
背中に残る爪で抉られたような五本の切傷は、シルヴェーラから過去の記憶を奪った。
シルヴェーラは覚えてないのだ。この傷より前の記憶は何一つ…。
父に聞くと、何かに襲われた後、熱で何日もうなされて生死をさ迷ったらしく、記憶がない程度ですんで良かったらしい。
指でなぞってみても痛みはないが、でこぼことした傷跡は、いつ見ても生々しく消える気配はなかった。
「醜い傷だ…」
着替えをするりと身に纏い、シルヴェーラは小さく溜め息を吐いた。
その頃、シルヴェーラが脱ぎ捨てた衣服を握りしめていた自分の手を見て、ガルディエルが何事かと顔から火を噴いていたことを、シルヴェーラは知る由もない。
*
その日の午後、シルヴェーラはガルディエルの取り計らいで、特級魔導士ディアゴ・ヴァルシュの宮殿に呼ばれた。
先日の狩りの途中で、盗賊に襲われたガルディエルを救けたという設定らしい。
身なりは旅人らしく整え簡素に、肩までの短い髪には少々似合わないが、普段からしている銀糸細工の額飾りをつけていた。
シルヴェーラの身分を隠すためには、必須のものだ。
ディアゴ・ヴァルシュは王族と変わらないほどの美しい紫の宮と呼ばれる宮殿に住み、魔導士独特の全身を覆う黒い衣装に身を包んでいた。
…どういうことだ?いくら王家に仕える特級魔導士とはいえ、この王族と変わらない扱いは…。
「王家に仕える特級魔導士として、礼を言う。面を上げられよ」
ディアゴ・ヴァルシュに言われて、シルヴェーラは片膝を付いて垂れていた頭を、ゆっくりと上げた。
「…!」
一瞬、ほんの一瞬。ディアゴ・ヴァルシュの表情が驚きに満ちた。
ディアゴ・ヴァルシュの髪は薄く淡い茶色、瞳は琥珀。
確かに、普通の人間としては珍しくない色。
整った顔立ちだが、人の域を超えているわけではない。
そして額には、特級魔導士の証の五芒星紋。
でも、これは…微かな魔の匂い…?
「…望みを言われよ。このディアゴ・ヴァルシュ、グリフライト王とガルディエル王子よりそなたの望み叶えるように言い渡されておる」
すぐに何事もなかったような表情に戻ったディアゴ・ヴァルシュを、シルヴェーラは見逃すはずがなかった。
「…はい、私はしがない旅の剣士。路銀が尽きていたのを王子が知り、水晶宮に招いてくださいました。今しばらくここに留まることをお許し願います。後の旅の路銀は、滞在中に街で働くつもりです」
名も名乗らないシルヴェーラの望みを聞いて、ディアゴ・ヴァルシュは不思議そうに切れ長の目を細めた。
「おかしなことを言う。欲ある者ならば、一生暮せるほどの金を要求するものを…」
大体の台詞を計算して、対応を考えていたシルヴェーラは、すかさず言葉をつないだ。
「私は旅をしてこそ生きる者。きっと死ぬまで同じ所に留まることはないでしょう。これもなにかの由縁、旅の話にもなるでしょう。どうか滞在のお許しを…」
一瞬ディアゴ・ヴァルシュがにやりと笑みを浮かべ、シルヴェーラを射抜いた。
…なんだ?今の笑みはまるで、獲物を手中に収めたような…。とても、嫌な笑みだ…。
「良かろう、そなたの願いを受ける。王子が許すかぎり、滞在するが良い」
「ありがとうございます」
とりあえず作戦第一歩成功、と内心ほっとしながら頭を下げた。
「ではこれで失礼する。宮殿の結界強化の時間だ」
黒い衣服の裾を翻し背を向けたディアゴ・ヴァルシュを、シルヴェーラはじっと見つめていた。
どこまでも冷たい気配。同じ魔導士といえど、なぜあんなに差があるのだろう…。
*
「シルヴェーラ!」
王宮の敷地内を歩いて水晶宮に向かう途中、大きな常緑樹から声が降ってきた。
「ガルディエル?」
ふと見上げた途端、ばさばさっと枝を揺らし、ガルディエルが飛び下りてきた。
「王子が木に昇って、怪我でもしたらどうするんだ?」
目立つ緋色の装束を着ていないガルディエルは、まだ完全に少年を抜け出せていない瞳で、屈託なく笑った。
「剣の腕はいまいちでも、木登りで怪我したことなんて一度もないぜ。子供の頃の逃げ場所だったんだ、この樹。ここは人通りが少ないし、上に昇っちまえば葉で下からは見えないんだ。ああそうだ、預かってた相棒…」
「それはあとだ」
ただの剣士ということにしておいたので、聖魔剣士の証であるメルカルスの印の入った金の指輪と銀糸の包み、魔除けの銀の細工が一際目立つ蒼真を、嫌々ながらガルディエルに預けておいたのだ。
「水晶宮に帰ってからの方がいい。何か変わったことはなかったか?」
「いや、特には何も」
頭一つ分ほど身長差のあるシルヴェーラは、ガルディエルと並んで水晶宮に向かった。
「特級魔導士になると大抵遠視の力はあるんだ。不思議と水晶は媒体としては遠視に力を貸すけど、遠視による覗きの力は弾くんだ」
「そうなんだ。だから昨日の俺たちのことはばれてなかったのか」
「まあ、それだけではないけどな」
急ぎ足で水晶宮に着くと、シルヴェーラは徐にガルディエルから指輪と蒼真を受け取った。
「いつも身につけてるんだな、その聖剣」
銀糸で織あげた包みに入った蒼真を覗き込んで、ガルディエルが言った。
「聖剣と聖魔剣士は一心同体だ。それにこの蒼真は、親父が鍛えあげたものだ。唯一の形見を、片時も手放すわけにはいかない」
「ソウマ?それに、形見って…」
言ってからはっと気付いて、シルヴェーラは少し微笑んで蒼真を握り締めた。
なぜだ?警戒心を抱かないのは、あたしも同じだ…。
「古代語で蒼真、こいつの名前だ。親父はこいつを鍛えあげてから原因がわからないまま床に伏して、弱っているところを妖魔に殺された。正義感の強かった親父の魂は、妖魔にとって絶好の生の糧になった」
三年前、父を無残にも食した後、シルヴェーラにも手を出そうとした妖魔は、シルヴェーラの手の蒼真を見て、逃げだした。
悔しかった。聖剣を持っていながら、恐ろしくて動くことすら出来なかった自分が。
自分が振るうことが出来なければ、聖剣も能力を発揮することができない…。
そうして、シルヴェーラは聖魔剣士になるために修業を積んだ。
どんなに腕のいい鍛冶屋でも、一生に二度聖剣を鍛えることは出来ない。
命をとして、出来上がるのが聖剣なのだ。
全身全霊の願いを込めて鍛えあげた聖剣は、想いが強いほど能力を増すという。
父がどれほどの想いで創ったなんてわからない。
ただ、自分の命を削り取ってまでシルヴェーラのために聖剣を鍛えてくれたことに、何か報いたかった。
蒼真が聖剣として認められてしまえば、聖魔剣士としてシルヴェーラ自身が登録をしなければ蒼真を剥奪されてしまう。
鍛冶師である父の遺言によって第一の持ち手となったシルヴェーラは、聖魔剣士となることを決めた。
そして聖魔剣士になった今、あの時親父を襲ったのが、ただの低級妖魔の仕業とわかり、どれほど怒りを覚えたことか。
蒼真の銀色に光る刀身に触れるだけで、砂塵と化す程度の輩に、みすみす親父を殺されたなんて…。
「大変、だったんだな…」
ガルディエルがぽつりと呟いて、片手でぐいっとシルヴェーラの頭を引き寄せた。
不意をつかれて、シルヴェーラはそのままガルディエルの胸に顔を埋めてしまい、慌てて離れようとした。
「シルヴェーラよりずっと甘ちゃんで、頼りないけど、一応俺だって年上だし、男なんだぞ。言いたいことがあるなら、いくらでも言えよ。愚痴ぐらいいつでも受け止めてやる」
今まで父とある人以外に受けた事がない優しさに、シルヴェーラは思わずガルディエルの胸元の衣服を握り締めた。
「やめてくれ…こんな、優しくなんてしないでくれ…」
父が死んでから、一度だって泣いたことなんてなかった。
生きるために精一杯だった。ただ自分を強くするためだけに…。
ぐっと力を入れて離れようとしたシルヴェーラを、ガルディエルはしっかりと自分腕の中に抱き締めた。
「辛い時は、誰かに甘えればいいんだ。頼る奴がいなければ、俺に頼ればいい。その時は、依頼や仕事の話は抜きだ。俺は自分の意志で、シルヴェーラの力になる」
ガルディエルに耳元で囁かれて、シルヴェーラは涙こそ出なかったものの、その腕の中で小さく肩を震わせた。
背中に回されて微動だしないガルディエルの手が驚くほど熱く、シルヴェーラは不思議と安堵すら覚えながら、今まで忘れていた感情をふと思い出した。
人を信じるのも、悪いことじゃないのかもしれない、と…。