たくさんのサヨナラがあるはずだ。
いつも思うんだけど、何事にもエンディングがある。テレビのドラマでも映画でも、小説でもそうだ。そして人生でも終局があって、それは物語とは違って悲しみがある。でもその物語だって、登場人物は最後には死を迎えるはずだ。ストーリー上ではハッピーエンドであってもその先には悲しみが待っているといってもいいだろう。時計の針が止まるように、私たちはいずれ死んでいく。それはとても頭をおもいっきり殴られるような感じなのかもしれないけど、私たちはそれを実感することができない。なぜ私たちはそれほど自分の死に対して鈍感なのだろう?それはあまりにも死ぬことが恐ろしくてそれから目を背けているのだろうか。でも多くの人は自分の死についてそれほど深刻に考えているとはいえないだろう。私だってそのうちの一人だ。死に向かって歩んでいるのに恐怖を感じないというのは、マヌケだ。だから死に対する恐怖を味わう為にできることをしよう。何から始められるだろうか。ひとまず自分が大病を患って病院のベッドに寝ている。腕には点滴をされて余命3ヶ月と言い渡される。そうなれば毎日を大切に生きることになるだろう。病室の窓の外で揺れている木々に対しても感受性豊かに感じることができるだろう。ああ、木が揺れている。なんて美しいのだろう、と。きっと毎日自分ができることが限られてきて、それでも死に対する恐怖が何故だか薄れてくる。何故だか以前出会ったピアニストの人のことが思い浮かんだ。名前はなんて言ったっけ?そうだ、石田恵太さんだ。彼からの連絡はまだ来ない。私のことなど忘れてしまったのだろうか。彼のとても美しいピアノの音色が浮かんできた。それは私の心と脳を癒してとても身体中が暖かくなった。少しずつ動き始めてきた。今、彼は何をしているのだろう?小樽のお店でまだピアノを弾いているのかもしれない。真剣に彼と話してみたかった。恋愛には億劫だったけど、少しずつ前に前進していくような、そんな感じがした。彼はまだ私のことを覚えているだろうか。少なくとも私を追いかけてきたのだから、きっと印象には残っていたにちがいない。スマホを鞄から出して彼にメールを送ろうとした。でもどんな文面にしようかと思い悩み微かなため息混じりになって、ファミレスの席で回りの混雑した様子を眺めて心が落ち着いた。私は人がたくさんいればいるほど精神的にも肉体的にも活発になるのだ。ほんと人が大好きなんだなあと思う。周りの人たちが幸せそうな笑顔を浮かべていると、ついつい私も顔がほころんでしまう。電車通勤で人混みで混雑しているときでさえ、私は落ち着いていられる。
店を出て自分のアパートへ向かう。空気がいつもより清浄で呼吸するとき何か清らかなものを吸っているような感じがする。こんなにも自動車が走っているのになぜ、大気が綺麗なのだろう?自分のモチベーションが上がっているからだろうか。それとも自然が排ガスを浄化する機能が勝っているからか。夏に向けて気候が晴れやかになって、空の青さが際立ってきた。途中コンビニに寄って雑誌コーナーを見た。ロシアが核兵器でヨーロッパの国々を破壊すると言った脅しを盛んに喧伝している。ここまで核の脅威が広まっているのは初めてだ。日本も安全ではない。なにせロシアとは海を挟んですぐそこだからだ。それでも実際によそごとのように感じる。きっと死が自分には関係ないと思っているように、自分の近くに潜んでいるだけでは気づかないものなのだろう。私たちのそばには病気で今にも死にそうな人たちがいるのに、それを他人事のように見てしまう傾向がある。きっと自分が当事者になってみないと、その苦しみというか絶望感は把握できないのだろう。もっと真剣になって、その問題と向き合わなければいけない。私はあまりにも生きていることを当たり前にみなしている。それはとても奇跡的で神秘的でとても崇高なものなのだ。世界にはあまりにも多くの人が死んでいる。だからそれらのことがあまりにも日常的になりすぎて無感覚になっている。だからこれからはもっと自分が生きていることに関して、そして死ぬことに対してもっと真正面に対峙しなければ。そして、恋愛にももっと積極的になって一人の人を愛せるように努力しよう。それが石田恵太さんなのだろうか?今のところ、実感がない。もっと、その事を知ることができるように接触する必要がある。私はスマホを鞄から取り出して石田恵太さんにメールを送る為に立ち止まった。すると目の前に、石田恵太さんが立っていた。きっと錯覚だろうと目をこすったけど、確かに石田恵太さんだった。
「みつきさんですか?」
「石田さん?」
「はい、石田恵太です。久し振りですね。みつきさんに会おうとここまで来てしまいました。連絡も取らずに、すいません。メールで何を語ったらよいか迷っていて、それならばいっそのこと会ってみようかと思って。まさか出会えるとは思っていませんでした」石田さんは出会った時より大人びて見えた。そして私の視線は彼の指に注目していた。とてもほっそりとしていて、いかにも敏捷そうな生き物のように見えた。
「その指がきっと向かうべき道を指し示してくれたんですね。そう思います。とても綺麗な指ですね。よかったら私のアパートに寄っていきませんか。何も無いところですけど。でも、本だけはたくさんあります。音楽関係の本はほとんど無くて小説ばかりですけど」私は思わず彼の指に触れたいと思って微かに腕が動いた。けれど慌ててその衝動を押さえた。
「ありがとう。お言葉に甘えて上がらせてもらいます。これ、新千歳で買ったお土産です。食べてください」石田さんは持っていた袋を差し出した。
「ありがとうございます。コーヒーか紅茶と一緒にいただきましょう。私のアパート、五分ほど歩いた所にあります」私たちは歩きながら、無言のまま向かった。アパートの階段を上がりながら石田さんの静かな所作がとても印象に残っていた。きっとピアノを演奏するときの動作もきっと影響を受けているのだろう。とても不思議な、芸能人と似て非なる態度だ。部屋の中に入って石田さんをワンルームの部屋に上げた。
「とてもシンプルで綺麗な部屋ですね。本棚が壁を埋め尽くしている。さすが編集者ですね」
「仕事以外の時間も本とにらめっこしているんです。職業病ですね。さあ、ソファーに座ってください。今お茶を淹れますから。コーヒーと紅茶どちらにします?」
「じゃあ、コーヒーで。僕は勤めている喫茶店でもコーヒーしか飲んだことがないんです。そこの店のピアノがとても、まるでコーヒーに恋をしているように思えて、とても素敵だなって思っています」石田さんは私の表情に合わせて動くような、それはまるで指の動きに合わせて鳴る音のような自然さを併せ持っていた。
「石田さんが勤めている喫茶店って、観光客が多いんでしょう?みんなきっと楽しい会話で弾んでいるんだろうな。素敵ですよね。そんな場所で演奏できるなんて」
「そうですね。皆さん本当に楽しそうですよ。その喜びの心が僕にも伝播して、演奏にも力がこもります。ピアノが弾けてこれほど幸せな気分になれて最高だなって感じています」
「石田さんは何歳からピアノを習ったんですか?」
「実は生まれたすぐに」
「えっ?」
「驚いたでしょう。生まれた時のゼロ才の誕生日にピアノをプレゼントされたんです。まるで僕の第二の器官みたいなものです。もちろん最初は演奏なんてものじゃなく、ただ鍵盤を叩いていただけですけど」
「でもすごいですね。ご両親のピアノに対する熱意というか、熱心さがとてもある」
「お父さんは銀行員で、ある演奏会で母を知ったんです。バイオリンを弾いていてずっと彼女の姿を見ていたんだと聞かされました。よっぽどひかれたんでしょうね。それから母の楽団が演奏する度にそのコンサートに出向いてじっと彼女のことを追ってきたと聞かされました。今でも観客席から母を写した望遠カメラの写真が額縁に壁へ掲げています」何か誇らしげに石田さんは言った。
「石田さんのこれからの活躍を願ってます。だんだんと運気が上昇していくと思います」
「ありがとう。この間演奏後にお客さんの一人から名刺を渡されたんです。CD を出さないかって。こんな機会が巡って来るなんてほんと奇跡みたいです」
「それは凄いですね。そう言えば石田さんの演奏、引き込まれるものがありました。さすが零歳児からピアノを叩きつけただけはありますね」私はコーヒーを石田さんの前にあるテーブルに置いた。そしてお土産のクッキーを皿にのせた。
「僕はこれから東京で暮らすことに決めたんです。演奏家としてデビューしたとしてもまだそれだけで暮らすことは難しいから、どこかで働きながら生活していこうと思って」恵太さんはマグカップを口につけてにっこりと笑った。
「ああ、みつきさんに淹れてもらったコーヒー、とても美味しいです。このクッキー、札幌農学校って言うんですけど美味しいですよ。食べてください」恵太さんは何枚か個包装をちぎって私にクッキーを渡した。
「知ってます、このクッキー。何度か実家から送ってもらったことがあるんです。ほんと美味しいですよね」私は一枚皿からとってかじった。小麦の風味とバターのこくが口のなかに広がった。
「そうだ、みつきさんと一緒にいた女の子、確か潤子(うるこ)ちゃんって言っていたっけ?芸能人みたいに可愛い子。最初見たとき年の離れた姉妹かと思いました。彼女、元気にしていますか」
「ええ、毎日アップルパイを作って一生懸命働いているみたい。彼女の作るパイ、最高に美味しいですよ。そうだ、今度一緒に食べに行きませんか。横須賀ですけど。もしよかったら、これから潤子の家に向かいません?きっと大歓迎してくれると思うわ」私は興奮を抑えて言った。
「いいんですか、ぜひ行ってみたいな。僕、甘いものが大好きなんです。横須賀には行ったことが無いんで楽しみだな」石田さんはマグカップを鼻に近づけて香りをかいだ。そして瞳を閉じてため息をついた。私はそんな彼の仕種に心が動いた。私もため息をついて彼の爽やかな全身からほとばしる爽快感というか新鮮さに感動をおぼえた。初めて彼に好感を抱いた感じがする。それとも何かの縁というか初めからそんな奇遇が用意されていたのだろうか。私は石田恵太という一人の男性に興味というより、自分に似た感覚を覚えた。私はじっと彼を見つめて心の底から本当に恋に落ちたのだろうかと不思議な、それでいてまるで今まで恋愛などという高尚な行為をしたことがなかったというような、面白いと思うような気持ちになった。
「みつきさん、僕の顔になんかついてます?」石田さんはじっと私の瞳を見て言った。
「いえ、ただ石田さん、私、あなたのことが好きな気がして。なんて言ったらいいのかな?」
「僕もみつきさんのことが、最初に出会った時から好きでした。本格的な、お付き合いをしてくださらないでしょうか」
「はい、私こそよろしくお願いします。あー、良かった。なんか心の中に溜まった毒素というか沈澱していたものが解放された感じがする。これから石田さんのことを恵太さんって呼んでもいいですか?」私は彼の純粋な瞳を見て言った。
「はい、そういえば僕はみつきさんって初めから言っていたような気がする。きっと下の名前のほうが呼びやすかったのかな?なんか、すべてと言ったらおかしいけど、みつきさんが感じたように解放されたような雰囲気だ。これって初めからシナリオに含まれていたような、人生の延長線を歩いているようなそんな気がする。でも奇跡だとも言えるような、なんて素敵なことなんだろう。これから先、とても単純だけれども良いことばかりしか待っていない、面白いことが始まる予感がする」恵太さんは私の両手を握った。とても新鮮な果物を握った時に感じるフレッシュな感覚だった。今までたくさんの別れやさよならをしてきた気がしていたけど、これからはもっとたくさんの出会いがあるような、そんな嬉しい気持ちがして、私の頭の中にはきらめくような、それでいて鮮明な喜びに満ちた、文章が様々な形になって浮かんできた。そのなかで一番大切な文字は物語る必要性は無い。だって今までで幾度も口にのぼることがあったのにもかかわらず終いまで語らずにいた言葉だったから。