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4-11 Smile Killed Smile

 バスタブに身体を沈める澪は、前にも一度泊まった彼の家でありながら、昨日終わったばかりの修学旅行代わりの感覚に浸っていた。東京からも行きやすい観光地は好都合だ。
 流雫の部屋はエアコンこそ効いていたが、身体を内側から温める方が断然心地好い。とは云えバスルームは貸切ではないのだから、長居は出来ないのが残念だった。
 ……ローテーブルに置かれていた、流雫のルーズリーフについ反応した。しかし、それだけトーキョーゲートが……元を辿ればトーキョーアタックが、最早2人の呪縛と化していることを、澪は改めて思い知らされる。コートを脱ぐのを忘れているぐらいだったから、自分でも呆れるしかない。
 それだけ、流雫は必死だった。呪縛に立ち向かい、呪縛に囚われ、それでも真実に触れようと藻掻く。その中性的な顔立ちと優しい……特に澪には激甘な……性格からは、到底想像がつかないだけに、澪は時々怖くなる。
 大きいバスタオルで身体を拭いたが、今手元の服は、ブラウスとスカート、そしてケープ型のコートしか無い。
「今度からルームウェア、持ってこようかな……」
と呟いた澪は、ブラウスに袖を通しスカートを履いて、ブレスレットを着けるとコートを手に彼の部屋へと戻る。関係者専用エリアに有る、LUNAと書かれたプレートが飾られたドアの前に立つと、彼の声が聞こえてくる。……誰かと通話中なのか。
 「……今は彼女もいて、時々一緒に遊んでる。僕が東京に行くことが多いかな?」
「フランスから戻ってきた日に、東京で。東京の人でね、去年から多少接点は有ったんだ。そこから……」
「……可愛いよ。可愛いけど、それ以上に僕の力になってて……。……そう、トーキョーアタックのことだったり、プライベートだったり、色々ね。とにかく助かってる。有難いよ」
「……仕方ないよ、フランスの観光ブーム、日本でも話題になってるんだから。だから忙しいのも、話す時間が殆ど無いのも、僕は判ってると思ってる」
その言葉で、澪は流雫の話し相手が誰か判った。
 「でも、僕は上手くやれてるから。……無理なんてしてないよ。……何時も誇張するんだから」
「……うん。また」
そこで話し声は途切れる。終わったのか……そう思った澪はドアをノックして開けた。
 「……流雫?」
その声に、床に座って溜め息をつき、メッセンジャーアプリのホーム画面を眺めていた少年は、ゆっくりと澪に顔を向けた。
「……あ……、……もしかして、聞いてた?」
「聞こえてた。あたしが可愛いって……?」
後ろめたそうな流雫の問いに、そう言って戯けてみた澪は、数秒開けて問うた。
「……今の、フランスにいる……?」
「うん。澪が可愛いのは当然の事実じゃない」
と流雫は答えて一度澪を真っ赤にさせる。不意打ちとは云え、自分から戯けてみたのだから、澪にとっては自業自得だった。
 「……今、あっちは9時前かな。時差が大きいと、ロクに話もできないよ」
と言った流雫が時計を見ると、17時前を指していた。今ローテーブルに置いたばかりのスマートフォンが鳴って、1時間近くが経っていた。これだけ話したのは、久々な気がする。
 「……流雫、寂しくない?」
澪は流雫の隣に座りながら、火曜日から抱いていた疑問をぶつけた。少しだけ笑いながら、流雫は問い返した。
「急に、どうしたの?」
「小さい頃から、家族と離れてて。年に一度しか会えないし……。あたしなら、耐えられない……」
そう言った澪の顔を見た流雫は目を逸らし、
「……寂しくない。……と言うとウソだけど」
と言った。そして小さく溜め息をついて、ローテーブルに目線を落とした。

 「日本人として帰化して、日本の学校に行った方が後々僕にとって好都合。そう云う理由で離れて暮らすようになって。未だ小さかったけど、提案されてそれでいいと決めたのは僕だから。……此処の親戚とは仲よくできてるし、今はビデオ通話も簡単だけど、やっぱり……ふとした時に思うよね」
その言葉に、澪は更に問う。
「だから、此処の手伝いに没頭してるの?」
一瞬、触れてはいけないことに触れているような気がしたが、彼女自身には止められなかった。
 「……美桜と同じこと、言うんだな……」
と恋人に顔を向け、やや戸惑い気味に言った流雫に
「あたしもミオだけどね」
と言って戯けてみせる澪。ただ、目は笑っていない。それどころか、少しだけ寂しそうな目をしていた。
 ……だが、それだけ澪も気になっていたのか、と流雫は思いながら、再度目線を逸らしながら答えた。
 「……でも、その通りだよ。没頭してたし、今もしてる。頭に掛かる靄を晴らすには最適だし、今は澪とのデート代を稼げるし。そう思えば悪くない、かな。親戚は今も、没頭するのをあまりよく思ってないけど」
 「……小学校に入った時から、僕には仲がいいって人が誰もいなかった。こんな日本人離れした見た目だし。中学もそうだったし、高校でも」
「だから美桜は心配だったのかな、何かにつけて気に懸けてきて、流石に無碍にはできなかったから、話すようになったんだ」
 「……告白された時も、急だったけど……僕の何が美桜を惹き付けたのか判らなかったけど……、美桜の好意を裏切ることはできないから……って感じだった。でも美桜にとっては、それでもよかったっぽい。……ただ、恋人だって実感は有っても、僕の整理だけが追い付かなかった」
 「ようやく追い付いたと思ったのは、1学期も終わる頃かな。だから、初めてデートしようと誘ったんだ。夏休みはフランスに帰る、それは入学の時点で決まってたから、2学期最初の日曜に」
「駅前かあのショッピングモールぐらいしか、河月で高校生が遊べるような場所って無いけど、それでも場所なんてどうでもよかった。美桜……満面の笑みだった。あんなの、初めて見た。ただ……」
流雫はそこで言葉を切る。……避けては通れない、あの悲しい日を思い出していたのだろう。流雫の目から、光が消えていくのが判る。
 1分ぐらい経って、
 「……だから、澪と逢うために東京に行くまでは、休みの日もほぼ手伝いしかしなかった。家族がいないこと、美桜がいないこと……紛らわせるには、それしか無かったから」
と言った流雫は、もう一度微笑んでみる。しかし、無理した微笑と、オッドアイの深淵に宿る寂しさを、澪は見逃さなかった。
 「……出しゃばっちゃったよね、あたし……」
そう言い、何か続けようとした澪の言葉を流雫は遮る。
「何時かは、話さないといけない……とは思ってた。でも、目を逸らしていたのは僕だから。話す時が来たってだけだから。……寂しいけど、僕には澪がいる。だから……」
そう言った流雫のスマートフォンのアラームが鳴った。
 「料理の時間か……。ちょっと行ってくるね」
と言ってアラームを止めた流雫は、自分の頬を軽く叩いて部屋を出る。
 1人部屋に残された澪は、溜め息をついて蹲った。
「あたし……何も知らなかった……」
そう呟くことしかできない澪は、頭を抱える。閉じた目を押し付けたサイハイソックスに、小さな染みが滲んだ。

 居候していることへの、せめてもの恩返し。対外的にはそれで通している流雫は、しかし何時かは話さなければいけなかったこと、とは云え、澪の表情を曇らせたことに罪悪感を抱えていた。
 ……今年開かれたパリオリンピックに起因した、フランス観光ブームの再燃。流雫の両親が住む西部の都市、レンヌもその恩恵を受けている。
 それ故、観光業を営む両親は朝から夜まで忙しいらしく、しかも日本との時差は9時間。普段は流雫の生活リズムに合わせてか、日曜日の早朝……フランスは土曜日の夜遅く……に掛かってくることが多いから、フランス時間で土曜日の朝、出勤前のこの時間に掛けてくるのは珍しかった。
 通話相手だったのは母、アスタナ・クラージュ。フランス人で、西部のル・マンで生まれた。余談だが、鐘釣夫妻のペンションの名前、ユノディエールは母が生まれ育ったコミューンの名前に因む。日本風に言えば、ル・マン市ユノディエール町と云ったところか。
 流雫のシルバーヘアと、オッドアイのうちライトブルーは母の遺伝だ。
 父の宇奈月正徳とは東京の大学に留学していた頃に知り合い、その流れで結婚し、夫を連れてフランスへ移住し、パリでルナを産んだ。
 ルナが日本人として帰化する時に、流雫と云う漢字を与えたのもアスタナだった。もし流雫がフランス人のままならば、ルナ・クラージュ・ウナヅキになっていた。
 アスタナは日本語が流暢で、流雫が日本にいる時は日本語で話してくる。逆に、彼がフランスへ戻った時は流雫がフランス語で話す。基本的にその土地に合わせて言語を変えるのが、宇奈月家の決まりだった。ビデオ通話は日本語だった。
 ……そのビデオ通話を聞かれていた。何を話していたか、澪には聞かれてもよかった。聞かれても困るような中身ではなかった。
 それに澪は、今まで流雫が家族の話を殆どしてこなかっただけに、単に個人的に気になったから、問うてきた……それだけの理由だろう。
 このまま、それこそ死ぬまで一緒にいるのなら、何時かは必ず話さなければならないことだった。それが今日だった、それだけの話だった。こう云う形で、とは思っていなかったが。
 ……流雫は気を取り直した。今から包丁と火を使うだけに、余計なことで頭を埋め尽くすのは禁物だ。

 「僕がついてるよ。……バカ……」
澪は呟いた。
 ……澪が何よりも好きな、何度でも聞いていたい流雫のその言葉は、最近特に増えているように思える。その言葉だけで、殺される恐怖さえも押し殺せる、魔法の言葉だった。
 しかし、今は寂しさを澪への愛だけで埋め尽くそうとして、そのための口癖になっている、と彼女には思えた。寂しいなら、そう言ってほしかった。
 「寂しいよね……やっぱり」
顔を膝に埋めたまま、澪は呟く。
 先刻彼が見せた微笑は、しかし澪は見ていられなかった。そして、それに何も言えない自分に苛立っていた。
 帰るべき家に両親がいる自分が、それが叶わない恋人に対して、何と言えばいいのか。ダークブラウンのセミロングヘアを掻き乱してみても、適切な言葉を見つけられない。
 気晴らしにと、澪は相変わらずハマっているゲーム、ロススタを開いてみた。しかし、今日のログインボーナスだけを獲得して閉じる。
 ……今は遊ぶ気にならない。自業自得とは云え、最推しの美少女騎士のキャラにルナと名前を付けなければよかったと、今更思っていた。どうしても、流雫を重ねる。
 突然、ドアを叩く音が聞こえ、
「入るよ?」
と流雫が言った。開けられたドアの隙間から猫柄のエプロンが見えるより早く、顔を上げて普通に座り直した澪は
「少し、寝てたっぽい……」
と言ってみた。流雫は
「ディナータイムの準備、できてるよ」
と言った。気付けば、彼が部屋を出てもう1時間近く経っていた。その間、ずっと膝を抱えていた澪は
「あ、うん。すぐ行く」
とだけ返す。しかしドアが閉まる直前、
「……澪が気にすることは無いから」
と声が聞こえた。……今まで何を思っていたのか、見透かされていた。
「気にするよ……」
と呟きながら、澪は立ち上がった。

 今日のディナーは、河月湖の淡水魚を使ったバターソテーがメインディッシュだった。聞けば、身捌きから全て流雫がしたらしい。そして今、最後の1枚を焼いたばかりだった。
「澪のために、張り切ってみた」
と囁きながら差し出す流雫に、澪は少しだけ頬を紅くして軽く頷く。
 流雫は相変わらず、席に着かず給仕として動いていた。彼だけが最後に残り物で軽く済ませるのは、夫妻がそうさせているからではなく、彼自身の癖だった。
 裏を返せば、ディナータイムでさえ忙しく動くことで、色々と紛らわせようとしていた。……そうやって形振り構わないことは、流雫の悪い癖だった。それが、澪にとっては常に気懸かりだった。
 ソテーが好評だったことで、流雫は安堵の溜め息をついて笑った。澪はその様子を見ながら微笑み、食後の紅茶を啜る。その間に流雫は食器を片付けていた。
 そして今日の手伝いが終わると、流雫はティーポットを手に自分の部屋へ戻ろうとする。それに澪もついていった。
 ディナータイムと食後の時間も、澪の名を呼ばなかったのは、対外的には澪も宿泊客だからだった。彼女だけ普通に呼んで……は御法度だと流雫は思っていた。
 流雫の部屋に戻ると、澪は満足げな溜め息をついて言った。
「やっぱり、流雫の料理は最高だわ……」
「未だレパートリーは少ないけどね。手伝いの合間に覚えたんだ。そう思えば、没頭するのも悪くないよ」
そう言って流雫は微笑んだ。確かに、それも一理有ると澪は思った。
 やがてティーポットが空になると、澪はコートを羽織り
「……湖、行きたい」
と言う。
 そろそろビジターセンターも閉まる頃だから、誰もいなくなる。暗いのは少し怖いが、2人きりの方が静かで居心地がよい。澪はそれに味を占めていたが、流雫も同じだった。
「じゃあ、行こうか」
そう言った流雫は、何時ものUVカットパーカーを羽織る。
「寒くないの?」
と問うた澪に
「厚着は苦手だから」
と答えた流雫は、スマートフォンだけをポケットに入れると、ブレスレットを着けた。

 流雫の服装は、少し肌寒い春先でも決まってシャツとUVカットパーカーだった。厚着は苦手と彼は言ったが、正しくは逃げる時や銃を持った時に動きにくいから、だった。
 あれだけ遭遇していると、そう云う事態を常に意識せざるを得なくなる。強迫観念は怖ろしいものだと、流雫は思った。そして同時に、本当に銃社会になったのだと思い知らされる。1年半前までは、世界一銃に厳しい国だったのに。
 隣を歩く澪も、母親と選んだコートをケープ型にしたのは、袖が無い方が動きやすいと思っていたからだった。ケープは脱着式だから、いざと云う時には外してノースリーブコートにできる。
 2人揃って、銃は置いてきた。近場だからと云うワケではなく、こう云う時ぐらいは持たなくて済んでほしいと思っていた。尤も、油断禁物なのは十分判っているのだが。
 河月湖のビジターセンターは数分前に照明を落とし、顔見知りの職員が駐車場の入口に鎖を張っているのが遠目に見えた。この時間からは、時々犬の散歩やランニングで地元の人が通るぐらいだ。
 「宇奈月!」
2台並んだ自販機の前で、突然背後から声がした。その声の主が誰だか判った流雫の表情から、途端に微笑が消え、代わりに眉間に皺を寄せた。……タイミングが最悪だった。何故いる?
「まさか、こんな所で会うとはな」
と言った黒薙は、咄嗟に振り向いたシルバーヘアの少年を睨みながら問う。
「隣にいるのは誰だよ?」
「……誰でもいい……」
そう言って、適当に遇おうとする流雫の隣にいる、セミロングヘアの少女を一瞥した黒薙は、更に流雫を挑発する。
 「まさか、欅平を見殺しにしたクセに、熱りも冷めないうちに新しい女と夜遊びか?」
「……欅平……?」
澪は流雫の腕に触れ、呟く。流雫が見殺しにしたと言っている。……まさか。
 その言葉に流雫は
「……美桜のことだよ」
と答える。その一言が引き金だった。
 「ふざけるな。熱りなんて冷まさせるか!」
黒いショートヘアの男の、怒りに満ちた言葉に被せるように、流雫から手を放した澪は
「あの……一つだけいいですか?」
と言って半歩前に出る。黒薙が
「何だ?」
と突然噛み付いてきた少女に顔を向けた瞬間、
「っ!!」
と息詰まった澪の掌が痛快な音を立てた。黒薙の視界が90度曲がる。
 対峙した男の頬を力任せに引っ叩いた澪の眼差しは、テロ犯へ向けるそれだった。いや、それ以上か。
「何すん……!」
黒薙が声を上げるのを、澪は腕を振り下ろしながら遮る。
 「流雫と美桜さんをバカにするなら、あたしが容赦しないわ……!」
「美桜さん……!?お前、誰だか知らないが少し……!」
そう言って少女の腕を掴もうとした黒薙の手を、流雫が払い除けた。その眼差しは、澪と同じだ。
「……触るな……!」
「何イキってやが……!」
そう大声を上げ、流雫の胸倉を掴もうとした黒薙は、しかし寸前で止める。その代わりに澪を指差して
「……お前。宇奈月は疫病神だ。思い直すなら、今のうちだ」
と告げ、踵を返すと流雫に背を向けたまま言った。
「宇奈月!……お前は最低な奴だ!」
その言葉に反応した澪の
「疫病神じゃない……!流雫はあたしだけの……!」
と尻窄みになった声は、去って行く黒薙に聞こえないほどの小ささで
「悪魔だもん……あたしだけの……」
と続いた。
 澪にとって、流雫は自分だけのヒーローで、そして悪魔だった。この命が終わっても、あたしを抱いて支配してほしい……そう思えるほどに愛しい悪魔。
「澪……」
とばつが悪そうな声を上げる流雫に澪は
「……誰?」
と被せた。少なからず、流雫のことを知っているようだった。しかし、あの怒りと憎しみに満ちたような言い方だけは、有り得ないし、よりによって……。
 「……同級生。……と云っても、この1年話してないけど」
「……え……?」
澪は流雫の答えに、思わず声を上げる。
 流雫が同級生の話をするのは、知り合って1年以上、出逢っても半年以上経つのに、初めてだった。夕方の両親のことと云い、今日は悉く、今まで流雫が語ってこなかったことに触れている気がする。
「僕が美桜を見殺しにした。……あいつだけじゃない、誰もがそう思ってる」
「……まさか流雫……」
そう言った澪の声は、少しだけ震えていた。……肌寒いからじゃない。
 「……最初は、誰も近寄らなかった。僕にとって、触れてはいけない話だと思われていたから。でもそれが、何時しか僕が美桜を見捨てた、見殺しにしたと言われるようになって」
「……僕も、未だ何処かでそう思ってる。どうしようもなかったことぐらい、判ってはいるけど」
そう続けた後で、流雫は澪の目を見つめ、言った。無理した微笑を浮かべて。
「でも、今は澪がいる。だからどうってことないよ」
 「どうってことないよ、じゃないよ……」
そう言った澪は、自分の腕を掴もうとした謎の同級生の手を払い除けた彼の手の甲にそっと触れた。癒やすように両手で包む。
「美桜さんを失った流雫が、
独りどんな思いをしていたか、それすら踏み躙られて……」
少女の声には、悲しみが滲んでいた。
 「それだけ、美桜の死が大きかったんだよ。何しろ学年でも人気者だったから、美桜が僕を選んだのも面白くなかったんだと思う」
流雫は、澪に顔を向けて言った。
「でも、あんなのただの言い掛かりじゃない……!」
澪は思わずヒートアップした。……だから名前も知らない流雫の同級生の頬を叩いた。
 「……でもそれで、誰かが苦しまなくて済むのなら……」
落ち着いた声で、しかし悲壮感に満ちた目をして言った流雫を見つめながら、その手を放した澪は問う。
「……誰かが……?」
「……その人の名誉のためにも、詳しくは言えないけど。でも……やっぱり美桜のことで苦しんでる……」
流雫は言った。
 その相手とは、1週間前に少し話し掛けられたのを皮切りに、絡まれるようになった程度だ。そして、あの日の昼休み……偶然流雫にも聞こえた、黒薙の言葉通りだった。
 「……流雫……まさか……」
澪は言った。こう云う時の鋭さは、やはり刑事の娘だ。
「……そこまで流雫が……、流雫が苦しまなきゃいけないの……?」
澪の声が、更なる苛立ちと悲しみを帯びていく。そして、彼女は叫ぶように言った。
「流雫は……人のために悲しむし、苦しむことだってできる。それが流雫の優しさなのも知ってる。だからあたしは流雫を尊敬するし愛してるの。だけど、だからって流雫が苦しまなくていいじゃない!」

 ……澪は薄々判っていた。流雫とあたしは、似た者同士なのだと。
 互いに知らない人のためにさえ、悲しみ、苦しむことができる。そして、自分が護りたいと思う人のために、自分を後回しにすることを躊躇わない。
 だからこそ、互いに背中を預けていられる。今まで何度もテロと戦って、逃げ切ってきた中で2人が見せてきたコンビネーションは、この世界で最高なのだと互いに信じて疑わない。
 しかし、澪は流雫が泣くのを見ていられない。そして、逆も同じだった。……同じことで苦しみ、同じことで泣いて、でもそれは自分だけでよくて、愛する人には笑っていてほしい。
 「……澪だって、同じじゃないか……」
流雫は言った。
 もう一度無理して微笑んでみたが、その瞳はやはり寂しさを湛えている。ただ、もし立場が逆でも、澪はそう言っただろうし、同じ表情をしただろう。
 「……行こう」
とだけ言った澪は、流雫から目を背けながら、しかし彼の手を強く握ると、引っ張った。
 そう、流雫と喧嘩するために、その寂しげな微笑を見るために、外に出たかったワケじゃない。

 あの七夕の日に2人が立った小さな桟橋まで辿り着くと、澪は空を見上げる。あの日のように、夜空と云う名のスクリーンには、無数の星が瞬いている。
「……はぁ……っ……、やっぱり、綺麗……」
澪は、上空に向かって白く解ける吐息混じりに声を上げた。
 ……流雫が抱える苦しみに対する無力感と、謎の同級生に邪魔された怒り、それが生み出した苛立ち。それさえも、吐息に混ざって霧散する気がした。
 星空が綺麗、だから河月と云う町が好きだったし、誰もいない夜の河月湖が好きだった。1週間前の東京と同じ、雲一つ無い夜空。しかし、あの不夜城では望めなかった星が、今こうして目の前に広がっている。
 この手を伸ばしても届かないことぐらい、頭では判っている。でも今だけは、この指先が触れられると思っていた。
「……」
その隣で、澪より1歩だけ前に出た流雫はただ夜空を見つめている。……先刻のことを思い出しているのだろうか。
 彼なりに思うことが有り、自分が触れるにはセンシティブ過ぎて何も言えなくても、ただいっしょにいることだけは、知ってほしかった。それが少しでも、流雫の力になるのなら。
 澪はセミロングヘアを揺らし、コートのケープをなびかせ、少年を後ろから抱いた。流雫の胸板の真ん中で両手が重なり、掌がシャツに触れる。
 微かに、流雫の心臓の鼓動が伝わってきた。それだけで、安心する。澪の心臓が少しだけ鼓動を早めた。
「澪……」
とだけ言った流雫の右手を、澪の手が探り当て、指を絡めた。
「苦しいなら、あたしがついてるから……」
澪は囁く。
 ……だから、流雫にはやっぱり笑ってほしかった。我が侭でも、笑ってほしい。
 「澪……。……サンキュ……」
とだけ囁いた流雫は少し微笑む。
 後ろから抱きしめていられるのは、澪にとっては好都合だった。星を映す彼の、アンバーとライトブルーのオッドアイの瞳で、微笑混じりに不意に見つめられると、また視界が滲んでくるだろうから。
 今は、ただこの星空の下に2人が生きていること、いっしょにいること、それだけを感じていたかった。

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