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「『私のお母さんは、赤ちゃんです』」
最初の文を読み上げた途端、教室内がざわりと音を立てる。
ひそめた声も、集まればこんなに騒がしい。
ひそひそ、くすくす。
あぁ、だから嫌だったのに。
「『お母さんは、私がいないと何もできません。お箸も、スプーンも、フォークも使えません。食事も、トイレも、お風呂も、自分では何一つできません』」
教室の後ろに立つ誰かのお母さんから、「かわいそうに」と声が出た。
私は、黒板に書かれた「私の家族」という文字を睨みながら、続ける。
教壇に立つ女が、顔をしかめている。
「『お母さんは、何もわかりません。物も、言葉も、私のことも。教えても、すぐに忘れてしまうのです』」
ねぇ、満足? あなたが私を笑い者にしたのよ。
私をこんな惨めな気分にさせて。
これだから、授業参観なんて嫌い。
家族についての作文なんて、大嫌い。
張り切って読みたがる生徒がこぞって手を挙げる中、私は手を挙げなかったのに。
この人は私を指名した。
二度と先生なんて呼んであげるものか。
「『この前は、帰ったらコンロで遊んでいて、火事になるところでした。それでも、お母さんは、私が何で怒っているのか、わかってくれませんでした』」
嫌い。嫌い。大嫌い。
手のかかるママも。お漏らしの匂いが染みついた家も。
私を臭いと笑う学校の連中も。
みんなみんな、大嫌い。
ママと少しでも離れられるから、学校に来てはいるけれど。
家よりは少しだけマシってだけで、不愉快な場所には変わりない。
「『お父さんは、家に帰ってこなくなりました。たまに帰ってきても、疲れてるんだと言ってすぐに寝てしまいます』」
ねぇ。私だって、疲れてるんだよ?
遊ぶのも我慢して。勉強する時間も作れなくて。
毎日毎日、ママの面倒を見て。散らかった部屋を片付けて。
パパは、たまに来てお金を置いていってはくれるけど、文句ばかりで何もしてくれない。
「『これが、私の家族です。私は、家族が大嫌いです』」
シン、と教室内が静まり返る。
困った、という顔をしている女を睨んで、私は椅子に座る。
睨んでいなければ、涙が出てしまいそうだった。
私は、可哀そうなんかじゃない。
ずっとそう言い聞かせてきたのに、惨めで仕方がなかった。
その後も何人か作文を読んだけど、みんな同じようなことばかり。
週末はどこそこに連れて行ってくれる。
誕生日にはごちそうを作ってくれる。
クリスマスにはたくさんのプレゼント。
みんなの自慢はいっそう私を惨めにさせた。
私が最後に誕生日を祝ってもらったのは、いつだったろう。
最後にママが作ってくれた手料理は何だったっけ。
たぶん、小学校に入るよりもずっと前。
あの頃は、まだママもパパも一緒で、笑顔が溢れていた。
ママも、最初はあんなんじゃなかった。
後ろに立っている誰かの母親みたいに、ちゃんと「ママ」だった。
ママがおかしいと気づいたのは、小学校に入ってからだった。
――あら? ねぇ、これ、何に使うものだっけ?
毎日料理で使っていたはずのお玉が、突然わからないと言い出した。
それ以前にも塩と砂糖を間違えたり、言ったことを忘れたりといったことはあったけれど。
はっきり異常と認識したのはその一言だったと思う。
ママは、少しずつ少しずつ、道具がわからなくなっていった。
道具だけじゃない。言葉の意味や、人、思い出。
そういった記憶が少しずつ少しずつ消えていって。
今じゃ本当に赤ん坊みたいだ。
何かを伝えようとしているのだろうけれど、言葉が出てこなくて、「あー」とか「うー」とかしか言わない。
私が何か言っても、キョトンとした顔で首を傾げている。
何をしでかすかわからないから、少しも目を離せない。
赤ん坊のほうが動き回らない分まだマシかもしれない。
「あっ、木梨さん」
「……何ですか? 母の世話があるので急いでるんです」
チャイムが鳴ると同時に席を立った私に、教壇で作文を集めていた女が声をかけてきた。
睨みつけてやると、もにょもにょと何か呟いている。
言いたいことがあるならはっきり言ったらどうなの?
教師のくせに。
「あの、作文……」
「ああ……どうぞ。それじゃ」
ぐしゃ、と乱暴に提出して、教室を飛び出す。
やり取りを見ていた誰かの母親がまた、「大変ねぇ」「かわいそうに」とか好き勝手言ってるのが聞こえた。
何で、聞きたくない言葉ほどはっきり聞こえてしまうんだろう。
「……ママ!! 何もしないでって言ったでしょう! 何で言うことが聞けないの!!」
「……ふ、ぅ、えぇええええええん!!」
「うるさい!! 泣きたいのはこっちよ!!」
玄関からでもわかる家の中の惨状に、キレた。
ドアの外まで水が溢れていたのだ。
水の発生元はお風呂場。蛇口が全開だった。
排水口だってあるのに、何時間出しっぱなしにしてたらこんなことになるのか。
水の中に座り込んでキャッキャとはしゃいでいたママを見つけて怒鳴りつけると、突然大声で泣き出した。
怒鳴ると、更にギャアギャアと叫ぶように泣く。
まるで恐竜。
うるさい。うるさい。
あぁ、頭が痛い。
「あぁ、もう。早く片付けないと」
たっぷりと水を吸った絨毯は重かった。
やっとのことでそれを物干しにかけ、床を拭く。
雑巾が足りなくて何度も何度も絞っては水を棄て。
廊下も部屋もひととおり拭き終わった時には、もう外は真っ暗だった。
「何だ、この部屋は。濡れてるじゃないか」
「ママがやったのよ。家中水浸しにして遊んでた」
まだひんやりと濡れてる床に疲れた体を投げ出した時に、パパが帰ってきた。
こんな日に限って帰ってくるなんて。
「だから、ちゃんと見ておけといつも言っているだろう」
「そんなこと言うならパパが面倒見てよ!」
「パパは会社があるんだ。遅くまで働いて、生活費を」「私だって学校があるの! 勉強だってしなきゃだし、いつもいつも見てられるわけないでしょ!? いつだって自分ばっかり疲れた疲れたって、パパは会社に行ってるだけじゃない!!」
「ゆかり!」
乾いた音。
ジンジンと痛む左頬。
じわり、と涙が出てくる。
あぁ、もう嫌だ。
「……パパなんて、大っ嫌い!!!」
もう1秒だってこんな家に居たくない。
濡れた服もそのままに、夜闇の中へ飛び出した。