3話 日常
翌日、胸を押し潰すような閉塞感がほんの少し和らいでいるのを感じた。これがカウンセリングの効果……なのだろうか。
だけど、そんな一時の平穏すら嘲笑うように、学校という名の地獄は私を容赦なく痛めつける。
私は一秒でも長く学校にいたくないから、いつも通り朝は遅刻するギリギリに家を出た。歩く速度にまで神経を使い、チャイムが鳴ると同時に誰もいない校門を通り抜けると、最初の関門、靴箱に辿り着く。
「――っ!」
長々と深呼吸してから取っ手を引いた指に、強い痛みが走る。おそるおそる取っ手の内側を覗き込むと、鋭い切っ先を向けたカッターの刃が、ずらりと並んで貼り付けられていた。
そして、もう何もないだろうと油断することなく慎重に開け放った靴箱には……何度隠されて汚されたか分からない上履きの中に、警戒するまでもない大量の液体のりがなみなみと注がれていた。
「……暇すぎでしょ……」
勉強も部活も不真面目なろくでなしのくせに、私に対する嫌がらせだけは毎日欠かすことなく時間をかけて念入りに取り組む。本当に腹が立つ。
洗っても洗っても落ちない粘り気に溜め息をつき、諦めて来客用のスリッパを履いて朝礼中の教室に入ると、ほぼ毎日と化した恒例行事に教室中が無関心で無反応の中、実行犯の三人だけがにやにやと侮蔑的な笑みを向けてきた。
この知性のない猿共の脳内では今、昼休みと放課後をたっぷり使って私をどのように苦しめようかと面白おかしく考えていることだろう。本当に殺してやりたい。
「……はぁ……おーい、遅刻だぞー」
うんざりした顔で大きく溜め息をついたクズ教師は、面倒くさそうにそれだけ口にすると、再びどうでもいい話に戻った。これも、いつもの反応だ。
一度だけ、このクズ教師にいじめられていることを打ち明けたことがある。いつも不機嫌そうで熱意もないから正直なところ信頼はあまりしていなかったが、それでも何十年も教職を務めているベテランだったので、藁にも縋る思いだった。
しかし、告げ口への報復を恐れながら勇気を振り絞った私に対して、こいつは気のせいだの遊びの延長だの被害妄想だのぐちぐちと疎ましそうに説教を始めた挙句、最後には「俺に迷惑をかけて楽しいか」と吐き捨てた。
その時の私の絶望は筆舌に尽くしがたい。それから私は、このクズと一言も口を利かないと心に誓った。
変わらない……何も変わらない、理不尽な日常だ。
もういい。もうたくさんだ。
結局、カウンセリングなんて単なる気休め……いや、むしろ苦しみを長引かせるだけにすぎない。どれだけ心のヒビを懸命に修復したところで、嬉々として壊す連中が何も変わらないのだから……。
「こんにちは、のどかさん。また来てくれて嬉しいよ」
そう思っているのに、間違いなく本心なのに、私は今日も無意識に樹海へと足を運んでいた。昨日と変わらない陽だまりのような笑みで温かく私を迎えてくれた春原さんは、約束していたわけでもないのに、手に持ったミルクココアの缶を私に差し出した。
「甘いのは大丈夫?」
「あ……はい……ありがとう、ございます……」
もごもごとお礼を言いながら受け取ろうとした私の人差し指に巻かれた絆創膏を見て、春原さんは代わりに蓋を開けてから私に手渡す。
「今日も、君が思っていること、話したいこと、なんでも聞かせてくれないかな」
この絆創膏の原因も、きっと春原さんは察している。でも、この人は何も聞かない。それは決して、学校の教師連中のように面倒事から目を背けているわけじゃない。その苦しみを吐き出したいのか、それともそっとしておいて欲しいのか、私の気持ちを尊重してくれているのだ。出会ったばかりだけど、確証なんかないけど、春原さんと接しているとなぜか自然とそう思える。不思議だ。
昨日の私は、そんな心遣いに気付く余裕すらなかった。本当に、自分がどうしようもなく弱くて情けない人間だと実感してしまう。
「……あの……今日は……春原さんのこと、教えてください」