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『アレ』、見ましたよね?

「ごめんなさい……」
そう言いつつまひるは真也に近付き、背後に回った。
そのまままひるは背中に額を当てる。シンヤにはその様子が昨晩の妹の様子を思い出させた。まひるが自分に抱きついてきたのだ。
(え?……どゆこと?)
状況がよく理解できないシンヤに対してまひるは口を開く。
「今日もお願いしていいですか? あの、私、どうしてもやらなきゃいけないことがあって」
「それは良いけど、まひるも無理するなよ」
真也はその言葉を聞いて胸の内でガッツポーズを決める。
『やってしまった事』は取り返しがつかないが『これから』はまだ何とかなる可能性があると気づいたからだった。
しかし、次のまひるの言葉は彼の思考を停止させることとなる。
「お兄ちゃん……その、……『アレ』、見ましたよね?」
「『アレ』って、どれのことだ?」
真也の反応を見て、まひるは自分の失態に気づく。しかし一度口にしてしまった以上、このまま黙っているのは卑怯だと思い彼女は意を決して告げた。
「私が……その……変なこと言ったり、泣いたりとか、したこと……」
それを聞いた真也の表情が変わるのを、背中越しにまひるは感じた。それは驚きであり困惑でもあっただろうが、まひるにとってはその感情はどうでも良かった。ただただ兄の返答を待つのみである。
「……まあ」
その言葉を受けてまひるの心が軋みをあげる。
(やっぱり見られたんだ。私のあんな姿を……)
「……ごめんなさい」
消え入るようなその言葉は彼女の本音だった。
その言葉を受けた真也も何か言わねばならないと思うのだが、上手い言葉が見つからない。彼はしばらく口をもごもごと動かした後、まひるに向かって口を開く。
「別に、変じゃない」
変ではない、という言葉に対して、真也は首を横に振る。
「嘘。変ですよ、普通じゃありません。だから……嫌だったんです。知られたくなかった。だって……」
そこまで言って、まひるの声に別のものが混じる。
「私は、妹でしかないのに」
真也は振り返ろうとするがその動きを止めるかのようにまひるがぎゅっと力を込めたからだった。
真也は言葉を選び、彼女に問う。
「そんなこと、ない。そんなこと、ないだろ。俺は、まひると血が繋がってるだけで嬉しかったんだぞ」
真也の脳裏に浮かぶのは父の葬儀の後に現れた母の姿だった。
彼女はシンヤの死を認めようとしなかった。だが、そんな母の姿を見ていたのは真也と、その腕の中に抱かれた赤ん坊の二人だけだった。真也には彼女が悲嘆にくれる姿を見せまいとしていたように見えた。
だから彼は思う。自分は確かに家族としてまひるの側に居ることはできた。だが、彼女が求めているのは自分のような紛い物の『兄妹愛』などではなく本当の意味での『家族の絆』なのだ、と。だからこそシンヤの言う『血の繋がり』というものを大事にしたかったし、その言葉に反論の余地はなかった。
しかし真也はそれ以上何も言えなかった。彼は自分の言葉が軽薄なようにも思えたし、何よりこれ以上彼女を傷つけたくないと思っていたからだ。
まひるは静かに首を振る。その動作はシンヤがするそれよりも遥かに大人びたものだったが、今の彼にとってそれは関係のないことだった。「お世辞はやめてください。それに……分かってるんですよね? 私のこの姿がどういうものなのか」
まひるは、自分の言葉に自分で傷ついた。それはきっと彼の言葉以上に、彼女自身の傷を浅くするためのものであったのかもしれない。
真也の心に衝撃が走る。
(俺の一言が、彼女をこんなにも苦しめたのか……! なんてことを!!)
真也は己の迂闊さに憤った。
だが同時に彼はまひるのことをとても哀れに思った。
それは彼の行動の結果によるものではあるが、彼の心を締め付ける。彼はゆっくりと息を吐きながら答えた。
「……まあ、大体は」
その言葉で確信した。真也には分かった。
『自分が何をされたのか』と、彼が何を『見た』のか。そして彼がなぜ自分を見放さなかったのかも。まひるは、それが全てわかっていた上でシンヤは死んだのだと気がついた。
(なんで!? なんでみんな死んじゃうの!? 私だけ残ってなんの意味があるの……!)
まひるの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
シンヤが亡くなってから初めて流した彼女の涙。それを見てもなお、真也には何がまひるをそこまで絶望させたかが分からなかった。そして彼の胸がずきりとする。その涙の重さに押しつぶされそうになるのを感じながらも彼は口を開いた。
「まひるは……どうしたい?」
「どうもしません」
「そう……だな」
その会話を最後に、二人は互いに沈黙を保ったまま、それぞれのすべき事をするために動いた。
◆ 昼食を終え部屋に戻った後、真也はまひるに呼ばれリビングに顔を出した。すると彼女は既に制服へと着替えておりソファに座っており、対面の席を目線で制し、そこに座るように促される。
「なにがあったんだ?」と問いかけるも、「すぐに分かりますよ」「まだ内緒です」
「ちょっとそこでじっとしていて下さい!」というやり取りを経て今に至っているが、まひるは何も語ろうとしない。
そしてまひるは立ち上がるとキッチンに向かい、お盆を手に取るとテーブルの上に置いた。そこには2人分のコーヒーとクッキーが置かれている。
その皿を見て真也は疑問符を浮かべるが、対角線の位置に腰掛けたまひるがカップに手を伸ばし、そして少しばかり眉間にシワを寄せたところを見て納得する。「苦かったんだ」
そう真也が呟くもまひるには届いていないようで、一通り香りを楽しむように鼻から空気を出すと、両手を合わせて呟く。
「頂きます」
そう言って彼女はマグに手を伸ばした。
「ん……」
その声にまひるの方に視線を向けるとまひるの顔に先程よりも深いシワが寄せられていた。
「あちゃー……」と言いたげな様子の真也に対して、まひるは一度顔を左右に振ったが、意を決したように口を開き説明を始める。
「実はこれ……牛乳を入れ忘れたみたいで……砂糖を入れてるのにすっごく苦くて……」
はぁ〜と大きくため息をつくまひるの表情は心底落胆しているように見えたが真也は知っている、これは恥ずかしさを隠すためのポーズであるということを。
真也も同じように、自分のマグを覗き込むとほんのり黒い水面からは湯気が立っており、『入れすぎ』たことは明らかであった。
思わず「ごめん」という言葉が出かけた瞬間。それは起こった。
3日目の昼過ぎ頃、まひるは真也の部屋を訪れるために廊下を歩いていた。目的地まであと数メートルといったところでその歩みが止まる。それは扉の前に立つ兄を見つけたからである。真也はちょうど部屋に鍵をかけようとしているところだった。
「お兄ちゃん?……あ! まひるが来ましたよー!」
「おう、まひる。元気そうじゃないか」
そう返す真也の言葉には普段のような覇気がなかった。しかし、その表情はまひるのよく知るものであるし、真也の態度に違和感を覚えても昨晩の妹の様子や真也自身の言葉を思い出しまひるはそれ以上気にすることはなかった。

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