にゃあぉう
ハロウィーンの夜。ベッドに転がっていた俺は、猫の声にぎょっとして飛び起きた。
げ、黒猫!?
机の上には、いつのまに入り込んだのか、ひょろりとした黒猫がちょこんと足をそろえて座っていた。
にゃあぉう
俺に一声かけるようにして、黒猫は窓に向かってトン、と机を蹴った。
ぶつかる!
手を伸ばした俺の目前で、黒猫はふうっと窓に吸い込まれるように消えた。
窓は開けてないのに!…まさか!
はっとして、机に飛び乗って、窓を開けた 黒猫はトントン、と屋根を伝って降りながら、下で待ち受けていた魔女の腕の中に納まった。
「…魔女…」
黒猫を抱き抱えた黒ずくめの魔女は、一瞬俺と視線を合わせて微笑むと、またふっと消えた。
あ…今の黒猫…!
机に乗ったまま引き出しを開けてワインレッドの封筒を取り出すと、くっきりと捺されていたはずの猫模様の消印が、消えていた。
中の手紙の方は!?
ガサガサと便箋を広げると、契約がどうのと書いてあった文章は、変わっていた。
『柚木香さま
またね
高天早紀』
それが、俺が魔女を見た最後だった。
そして、一年が過ぎ、十月が訪れる。
相変わらず、朝から番までサッカーに明け暮れていた俺はその日、出掛けていた母さんが用意しておいた夕飯をがっついていた。
今日はたまたま早くクラブが終わって、珍しく六時には家に帰れて、テレビのチャンネルはどこも、ニュースタイム。
『今日、午後五時半頃、**交差点近くを歩いていた女子高生、高天早紀さん十八歳が、道路に飛び出し、青信号で突っ込んできた乗用車に跳ねられ、死亡しました。目撃者の証言によると、高天さんは路上にいた猫を救けようとしたらしく…』
思わず呆然としていた俺の手から、茶わんが滑り落ち、がちゃん、と床で乾いた音を立てた。
魔女が、死んだ!?
しばらく呆然とした後、俺ははっとしてばたばたと階段を上がり、自分の部屋のドアを開けた。
慌てているせいで中々うまく出てこない引き出しに苛立ちながら、震える手で、去年届いたワインレッドの封筒を取り出した。
猫が、魔女が抱いていったはずの猫の消印が、戻ってる!
ガサガサと中の便箋を引き出すと、俺は緊張しながら、丁寧に広げた。
『その猫がいる限り、効力は消えません
猫を、よろしくお願いします
ごめんね…
高天早紀』
な…どうなってるんだ、なんで魔女が死んだんだ!?
机に置いていた封筒が、風もないのにふわりと舞って、下に落ちた。
拾い上げたときには猫の消印はなく、机の上に、一匹のひょろりと痩せた黒猫がちょこんと座っていた。
にゃあぉう
「ひっ…」
俺は思わず悲鳴のような声を洩らして、じりっと後ずさった。
にゃあぉう
ぺろり、と赤い舌が覗く。血のように、赤い猫の舌。
「く、来るなぁっ!」
咄嗟に手をまさぐると、目覚まし時計が手についた。
「向こうへ行け!」
ガツッ。鈍い音が、短く響いた。
俺の投げた目覚まし時計は、猫に命中した。猫はもう起き上がらなかった。
「う、うわあああっ!」
倒れたはずの猫の姿は消え、ワインレッドの封筒には、鮮明な血色に変わった猫の消印が、戻っていた。
次の日、大雨が降っていたので自転車をやめ、傘をさして歩いて駅に向かっていた俺は、待ち構えていたかのように目の前を横切る痩せた黒猫を見た。
キキキキーッ!
いきなり飛び出した黒猫を避けようとしてハンドルを切った乗用車が、俺に向かって突っ込んできた。
ふわりと、雨の中にビニール傘が舞った。
ぐしゃっ。耳障りな、不快な音。
そして、全身を突っ切る激痛。
「ぎゃああああっ!」
車のバンパーと電柱の間で俺の右脚は、握り潰された卵のような悲鳴をあげた。
「脚が、俺の脚があぁっ!」
消えゆく意識の中、雨の中に黒猫が俺を見ていた。
――「この猫、腹空かせてるみたいなんだけど、あんた、なんか食い物持ってねえ?」
ああ、あの猫を魔女に渡したのは俺だったんだな…。
老いて死んだ黒猫を抱いて、泣いていた魔女。
『特別に、あなたの願い、叶えてあげる』
魔女は目に涙をいっぱい浮かべながら、微笑んでいたっけ。
にゃあぉう
黒猫は薄く目を細め一声だけ鳴いて、路地裏へ姿を消した。
俺が魔女と初めて出会った、小さな神社のある、細い路地へ…。
了