3-18 Mephistopheles
臨海署を後にした流雫と澪は、その入口前で揃って大きな溜め息をついた。そろそろ9月も終わると云うのに、落ち着く気配が無い暑さが、制服を纏った2人に襲い掛かったからだ。涼しい部屋にほぼ1日中缶詰めだったから、余計暑く感じる。
東京湾の対岸に大井コンテナ埠頭を望む警察署は、30分前に入った緊急速報で、2人の取調どころではなくなるほどの慌ただしさに包まれた。だから今日のところは打ち切られ、明日再開されることになった。
あの空港での騒ぎから、ちょうど1ヶ月。警察から澪の父を通じて、先日の件での捜査協力を求められた流雫は、今日あの日以来初めて東京に足を運んだ。恋人といられることは嬉しいが、生憎デートではない。
……あの日、台風がもたらした大雨に打たれながら抱き合っていた2人は、やがて全身ずぶ濡れのまま、近くの空港署へと連行されることになった。
到着フロアまで階段で下りると、黒塗りのセダンの後部座席に乗せられる。レザーのシートが耳障りな音を立てた。運転席の弥陀ヶ原は顔を歪ませ、恨み節を吐いた。
「……誰が拭くと思ってるんだ……」
ただ、その声に2人が無事だったことへの安堵も混ざっていた。
「忘れ物だ」
と弥陀ヶ原は言い、2人が展望デッキで置き去りにしたバッグをそれぞれ引き渡し、車を走らせた。
数分で着いた空港署の入口では、澪の父、常願が2人にタオルを手渡しながら
「全く……お前らは……」
と呆れ顔で娘とその恋人に言った。
「政治家を撃つなど前代未聞だぞ。まあ、正当防衛だが……」
……展望デッキで澪が言った
「殺されるってこと……?」
の言葉に、流雫が見出したラディカルな勝機。咄嗟に練った作戦はこうだった。
流雫が自分のネクタイで、澪の首を絞めて殺し、その死体を放置した……ことにする。流雫がわざわざ1人になったのは、伊万里が標的にしたいのは流雫1人であって、澪はあれから先はいない方がよかったからだ。
その彼に殺された……ことになった澪が、首にネクタイを回されると同時に、2人のスマートフォンはメッセンジャーアプリの通話で接続された。流雫とその周囲が今どうなっているか、リアルタイムで把握できるように。
仰向けに寝た澪がネクタイを解きやすいように、そして抵抗しながら死んだと見せ掛けるために、流雫は首とネクタイの間に指を挟ませ、軽く絞め、それっぽく見せると澪の元を離れた。
そしてデッキの端で、流雫はポケットに入れたままのスマートフォンに触れた。澪と別れる寸前に開いた、ボイスレコーダーアプリの録音ボタンを押していた。
1対1のあの場でなら、トーキョーアタックの真実に少しでも触れられる……流雫はそう期待していた。だからあの会話を全てスマートフォンに残そうとした。そして、澪にも聞こえていた。
ただ、流雫が嘲笑えと泣き叫んでいたのは、聞いていられなかった。美桜と云うかつての恋人を殺されたことへの怒りが、限界を超えていたことを意味していた。そして澪も、彼女を想って少し泣いた。
あの集団は、澪が倒れている間に、そして流雫が伊万里と対峙している間に、貸ホール前で特殊武装隊と争った。そして特殊武装隊が犯人全員を射殺すると、常願と弥陀ヶ原が澪からのメッセージを頼りに、流雫と同じ方向から展望デッキの上階を目指した。
……伊万里にとって最大の誤算は、外したとは云え流雫を撃ったことだった。そもそも、威嚇のためだろうと相手に銃口を向けた時点で、反撃は正当防衛として成立する。それは銃を握る上での基礎知識だったハズだ。
恐らく、高校生2人に嵌められたことで、それ以外の選択肢が思いつかなかったのだろうか。それだけ、元政治家は追い詰められていたのか。
そして外れたとは云え、流雫は撃たれた。だから、正当防衛として撃ち返した。それに対して伊万里は、あくまでも自分が正当防衛だと叫んだ。
あくまでも撃ったのは威嚇目的で、それに対する流雫の銃撃こそ殺意を持っていた、だから俺は正当防衛だと言いたかったのだろう。
その銃口は流雫と澪、2人のどっちかに向いていた。眼鏡の奥の目に、明らかに2人を殺す意志が見えた、順番はどうであれ。
だから澪は撃った、震える手を流雫に支えられながら。全ては、2人が殺されないために。
事情聴取は明日も続く。だから今日も、流雫は澪の家に泊まることになった。澪の母、美雪も歓迎しているらしい。
「でも、本当によかったの?」
と澪が問うと、流雫は問い返した。
「何が?」
「学校を休んだあたしが言える立場じゃないけど、一昨日から修学旅行だったんでしょ?行かなくてよかったの?」
と、澪は更に問い返した。
今日は金曜日だが、河月創成高校では一昨日から日曜日までの5日間の予定で、九州北部への修学旅行が組まれていた。事前に配布されたアイテナリーでは今頃、一行は長崎あたりを散策しているだろう。
ただ、流雫だけは一連のテロの取調を理由に、出発3日前に欠席することが決まった。教師は突然のことに流雫に苦言を呈したが、この少年は別に修学旅行が愉しみだったワケではなく、それどころか行く気は無かった。それだけに、取調と云う特別な事情は寧ろ好都合だと思っていた。
……あの空港テロ事件の後で、何かが変わった……ようなことは何も無かった。ただ、最初の2週間近くは、話を聞かせてほしいと迫るメディアが五月蠅かったことぐらいか。
そして、ニュースで何度も防犯カメラの映像が流されたことで、暗に空港テロ事件解決の立役者と持て囃された流雫は、しかし相変わらず、同級生から避けられたままだった。
1年前のあの日以降、流雫自身も同級生から距離を置いていたが、それは春のクラス替えで大幅にシャッフルされても変わらなかった。そして、今回の事件を経ても、変わることは無かった。
この溝……のようなものは、卒業式を終えても変わらないだろうし、流雫自身それはそれで構わなかった。室堂澪と云う少女がいる、それだけでよかった。
「よかった。行ってたとしても、これじゃどうしようもなかったし」
と流雫は言った。
……伊万里雅治が殺された。それは警視庁全体を一瞬で混乱に陥れ、臨海署も例外ではなかった。そして自殺した犯人の正体が判明した瞬間、混乱は更に大きくなる。
伊万里の背後の警備が手薄だったことへの指摘も今後出てくるだろうが、1年前のトーキョーアタックに端を発した一連のテロ事件、その最重要参考人2人が一度に死んだことは、真相の解明に少なからず影響が出ることを意味していた。事件の核心を話せる人間が、現状誰もいなくなったことになるのだから。
もし、修学旅行で散策していたとしても、そのニュース速報が流れた瞬間に修学旅行気分を奪われ、最終日まで取り戻すことはできなかっただろう。その意味では、修学旅行を潰した今日の取調は、澪に会えることを差し引いても、彼にとって好都合でしかなかった。
「それもそうね」
と澪は言い、少し間を空けて続けた。
「……しかし、後味が悪いわ……」
「悪い、と言うより……悪過ぎる……」
と流雫が続いた。
……伊万里の決まり文句は法的措置。それで刃向かう連中を黙らせ、己が正義だとアピールしてきた。しかし、それは黙らせることに限っては有効的だったが、馬鹿の一つ覚えの如く多用したがために、会見そのものが「伊万里劇場」と揶揄されていた。
もし、相手を晒すための公開処刑場としてしか見ていなかった法廷と云う場に立っても、伊万里は恐らく最後まで無罪を唱えていただろう。
もし私刑と云うものが認められるなら、流雫は間違いなく真っ先に殺している。ただそれが認められない以上、裁判官の判決に委ねるしかない。尤も、そこで真相が明かされるとは思っていなかったが。
「……渋谷、寄りたい」
流雫は言う。澪は頷いた。彼が行きたい場所は、少女には言わなくても判っていた。
平日に高校生が私服なのは、周囲からの見た目が有る、と衣替えを控えた夏用の制服で臨海署に行っていた2人は、りんかいスカイトレインに乗った。着替えは持ってきていないが、それはそれだ。
白の半袖カッターシャツをベースとした制服を身に纏った流雫と、黒い半袖のセーラー服に身を包む澪。2人は新橋でNR線に乗り換え、渋谷で降りる。足早に向かったのは、スクランブル交差点前の広場、トーキョーアタックの慰霊碑だった。
2人が最後に訪れたのは、あの空港テロの次の日だった。……何事も無く、空港での追悼式典が終わっていれば、遅くても夕方には渋谷に着いていたハズだ。
しかし、夜前まで空港署で事情聴取を受けていて、終われば終わったで弥陀ヶ原の運転で室堂家に送り届けられた。事態が事態だけに次の日も聴取は続くし、わざわざ東京と山梨を往復させるのも酷だ、と云う澪の父の判断だった。
何度も思う、あれからもう1ヶ月が経ったのだ、と。
……もし台風が来なければ、空港ではなくこの場所で追悼式典が開かれていた。そして、あの流れからすれば、渋谷だとしてもやはり銃撃事件が起きていただろう。どちらにせよ、流雫が銃を握ることは避けられなかったのか。
「……今日の空、あの日を思い出すよ」
そう囁く流雫は、無機質な超高層ビルが建ち並ぶ東京の繁華街の中心で、空を見上げる。
既に夕方だったが、昼間はトーキョーアタックが起きた8月最後の日曜日と変わらないほどに綺麗な青空が広がっていた。
「……時間は掛かるだろうけど、少しずつ真相が明かされていくと思ってる。……こんなことになるとは、思ってなかったけど」
そう言った流雫は、数秒の間を開けて呟いた。
「あの時、あの弾が外れたの、美桜が僕を護ったから……なんだよな……」
澪は隣の流雫に顔を向け、思い出した。
……伊万里にとっては威嚇だった1発は、突風によろけた流雫の右側を飛んでいった。しかし、40センチもずれていれば、流雫は今頃美桜から怒鳴られていただろう、あまりにも再会が早過ぎる、と。
今思えば、あの一瞬の突風は流雫を突き飛ばして護るために吹かせた、としか思えなかった。偶然だったが、そう思いたかった。
「……僕は何もしてやれなかったのに。……でも、サンキュ……美桜」
そう言う流雫は少しだけ息を止めた。そして、溜め息に混ぜた躊躇いを吐き捨て、囁くような声で言った。微笑みながらも、少しだけ……視界を滲ませて。
「好きだよ、美桜」
「好きだよ、美桜」
その言葉に澪は、息が止まる。
……流雫が最後まで、かつての恋人に言えなかった言葉。そして、彼女も何よりも聞きたかった言葉。生きている間に聞くことは叶わなかった、それでも彼女は今、微笑んでいるだろう。
澪は目を閉じて頭を下げる。銃口が2人に向けられても撃たれなかったのは、彼女が2人を護ったからだと思った。あたしは、彼女……美桜さんに生かされている、澪が何度か思ったことは、間違っていなかった。
「……流雫を、あたしを……護っていてください……」
澪はそう言って、顔を上げた。
屋外展望台、シブヤソラに上がったのはほぼ半年ぶりのことだった。日没を迎えた後で、空は青と黒のグラデーションを纏っている。この場所から見る東京の夜景と空が、流雫は大好きだった。
「……この1年、何だったんだろ……」
東京の街を見下ろしながら、流雫は呟く。
遠くには、あの空港が見える。航空灯を光らせた飛行機が頻りに離着陸しているのが見える。……あの場所で、澪と2人で戦ったのは1ヶ月前のことなのに、既に懐かしくなる。そして、無意識に眉間に皺を寄せた。
……一言で言えば、慌ただしかった。特に今年に入ってテロが相次ぎ、使い古された言葉で言えばジェットコースターのようだった。
「……あいつと別れるのは、当分先のことらしくて」
流雫は言った。……あいつ、それはコインロッカーに預けた黒いショルダーバッグの奥底に鎮座する、銃のことだった。
「……多分、別れても残る。あの冷たさ、重さ、反動、音……、その全てが脳に、身体に焼き付いてる。だけど、だから澪も僕も生きてる。だから受け入れられる」
そう言った流雫に、澪は言った。
「……あの時、凄く怖かった。撃たないと撃たれる……だから……必死だった……。流雫が、どんな恐怖を抱えて戦ってたか……少しだけ判ったような、気がする……」
……雨音に混ざった銃声と、濡れた掌に伝わる反動は、1ヶ月経った今でも覚えている。銃口を向けられた恐怖と戦いながら、引き金を引く。……流雫が無事だったことに安堵した。
「悪魔と踊ってるようなものだよ。終わった後、緊張が解けた瞬間に、もしかすると殺されていた……そう云う恐怖が押し寄せてくるんだから……」
流雫は言い、溜め息をついて続けた。
「だから、澪には経験してほしくなかった……」
……咄嗟に撃ったが、下腹部を狙ったから防弾ベストに弾かれ、結果として澪に引き金を引かせる羽目になった。少しだけ冷静さを取り戻していれば、下半身さえ狙えていれば、澪が撃つことは無かったのに。あれは完全に僕のミスだった……、そう思った流雫は、思わず唇を噛む。
その流雫の表情から、彼が何を思っているのか澪には判った。……ただ、撃たなければ今頃2人はこの場所にいない。そう思えば、悪魔と踊ることを怖がってはいられなかった。
「でも、だから流雫もあたしも生きてる。……怖かったけど、撃ったのは間違ってなかった……」
そう言って、微かに微笑んだ澪のダークブラウンの瞳は、優しくも凜としていた。
……間違ってなかった。そうはっきり言えるのは、彼女が生まれ持った強さだ、と流雫は思った。これでよかったのか、と自問自答する自分が弱く思える。
流雫は話題を変える。これ以上は、2人の性格からして泥沼に嵌まるのが判っていた。泥沼に嵌まるために、シブヤソラに行きたかったワケじゃない。
「……一つだけ、黙ってた」
その少年の声に澪は
「え?」
と小さく声を上げた。
「取調が無くても、今日は東京にいた。今日だけは、どうしても澪に会いたかったし」
と流雫は言った。
修学旅行に行かないことは流雫にとって既定路線だったが、取調はその意味で最も好都合だった。
「流雫が来るなら、放課後に空けてたけど、でもどうして……?」
澪は問う。流雫は答えた。
「今日で、ちょうど1年だったから。僕と澪が出逢って」
……銃を必要悪だと認めながらも、護身のためなら銃を持つ。二度と泣かなくて済むのなら。
SNSに上がっていた、銃刀法改正のニュース記事に対して流雫……ルナが投稿した、そう云う主旨のコメントに唯一反応したのが、澪……ミオだった。
刑事と元警察官の間に生まれた娘として、銃刀法改正に対して思うことは有った。ただ、改正の賛否には必ず政権に対する擁護や批判、更には憲法改正論が付き纏い、正直うんざりしていた。
それと切り離して唯一読めたのが、ルナのコメントだった。……ワケ有りなのは文面で何となく判っていた。厚かましい話だが、もし話を聞けるものなら。
気付けば、ミオは私信の送信ボタンを押していた。
「はじめまして。コメントを読んで、メッセージしてみました。私も、ほぼ同じ意見で、少し話をしてみたいと思いまして」
と。ルナから返事が届いたのは、それから5分後のことだった。
「……僕の話でいいのなら」
……政治評論家ごっこをしたいワケではない。ただ、護身のためとは云え人を撃つ、場合によっては殺すと云うことに対して、正当防衛だと頭では判っているものの、刑事の娘としてどう向き合うのが正しいのか、ミオは答えを見つけられず、悩んでいた。
ただ、ルナとなら、何となくでも見つけられると思っていた。だから、彼にアプローチした。ミオがルナにとっての希望だったように、ルナはミオにとってのちょっとした救世主だった。
それから1年の節目、それが今日だった。
「偶然と云うか、奇跡……なのかな」
流雫は言った。
流雫と澪を引き寄せたのは、美桜の死。それは、どうやっても変えられない、たった一つの現実だった。だが、それに縛られていても美桜が浮かばれない。
美桜が笑っていられるのなら、彼女さえ届かなかった位置に澪がいること、2人でいられることを笑いたい。美桜のため……それで縛っている感が有っても、そのうち自然に笑える日が来る。それまでは、形振り構わなくてもいい……流雫はそう思っていた。
「彼女が見せた、最初で最後の魔法……。あたしはそう思ってる」
と澪は言った。
悲しみの奥底に沈み、這い上がれない流雫を見ていられなかった美桜が、彼のために放った魔法。それが澪を、彼の元に引き寄せた。それが今この瞬間として結実しているのだと、澪は思っていた。
ただ、美桜ならきっと
「私は引き寄せただけ。今が有るのは、2人の愛が強かったから」
と言って笑うだろう。
「魔法、か……」
そう呟いた流雫は微笑む。美桜なら、有り得ると思った。
「……流雫は、あたしの手を掴んだ。だからあたしも、流雫の手に触れた。……だから、今こうしていられる……」
と澪は言った。
昼間に太陽がもたらした熱はなくなり、涼しく……どころか少し肌寒く感じる。それだけに、制服越しに伝わる彼の熱が、愛しく思えた。
「澪……」
「流雫……」
愛しい人の名を呼ぶ2人。無意識に指を絡めると、あのブレスレットが小さな音を立てた。
「時よ止まれ、汝はいかにも美しい」
その言葉は、今この瞬間のために生まれた。そう感じるほどに、風の音も聞こえない、東京の夜景と云うイルミネーションのカラフルな光も見えない、ただ、流雫の瞳には澪が、澪の瞳には流雫が映る。それだけで、世界中の愛が2人に降り注ぐのを感じていられる。
やがて、一瞬だけ止まった世界が動き出す。ほのかに熱くなった2人の頬を撫でる少し冷たい風に、遅れてやって来た秋の気配を感じた気がした。