38 該当者は一人
「…エーレ…?」
まずその名前に反応したのは、クルツだった。
口述筆記をしていた手が、一瞬、止まる。
「知り合いか?」
話が終わるまでは、口を出さないと約束しているため、エルフレードはクルツに小声で問いかけた。
「恐らく
「……道理で、ルフトヴェーク語がペラペラな訳だよ」
エルフレードの隣で、オステルリッツも頷いている。
「
顔を上げたクルツと、ヒューバートの視線が交錯する。
ルフトヴェーク語で、確かめるべきかとクルツは思ったが、ヒューバートはそのまま何も言わずに、キャロルの方に向き直った。
『カーヴィアルへ来る事を、
『確かめたい…こと…?』
ヒューバートの胸倉から手を離して、キャロルが顔を上げる。
『……ここで話して良いのか?建前だけでも、個人の話としておく方が――』
『ううん。ウチの殿下には、自分が誰の部下なのか――公人であると言う自覚をしろ、何をしたところで、一個人としての話では通らない――って言われてるから…もう、誤魔化しは効かないと思ってる。って言うか、エーレが
『……マジか。何者だよ、
『掛け値なしの〝天才〟だと思うよ?
『なるほどなぁ……』
『だから、教えて?エーレに、何があったのか。ううん、そもそもどうして、
『⁉』
口述筆記をしていたクルツが、驚きのあまりペンを滑らせた。
エルフレードとオステルリッツも、第一皇子、と書きかけていたクルツの文字を見て、弾かれたようにキャロルに視線を投げた。
『…皇族の気まぐれで、庶民を
『…っ』
『お嬢ちゃん、何か〝約束〟をしていなかったか?その為に、絶対に頑張っている筈だから、負けていられないと、ずっと、ルーファス公爵としての、首席監察官職も続けていたんだ。本来なら、皇太子になった時点で、監察は外れても良かったのに。まあ、監察で
キャロルは完全に絶句しており、書き起こすクルツの文字も、震えている。
他国の皇子、それも皇位継承者であるなら、尚更一連の手紙は、納得だ。
『どのみち今度の外遊で、全て明らかになる筈だった。多分そこでなら、自分が本気でいる事も分かってくれる――そう言って、準備をされていたのは、俺も見てた。だからカーヴィアルへ行くのを、俺も楽しみにしてた』
もしかして…と、小声でクルツに呟いたのは、エルフレードだ。
「アイツが、アデリシアとの噂を歯牙にもかけなかったのって……」
「手紙の大半は、語学から政治経済までを説いているような
彼女に〝天才の通訳〟としての価値を教えたのは、もちろん、国の中でキャロルの立ち位置を確保させる為だろう。
だが〝王と同じ目線で物が見れる〟事に関しては、ルフトヴェーク公国皇位継承者にも、同じ事が言えるのだ。
「その第一皇子が、手紙の〝彼〟と同一人物であったなら、間違いなく、アデリシア殿下と互角に渡りあえる……」
マジか、と呟くエルフレードの率直さを、さすがに今はクルツも咎められない。
キャロル自身も、こちらの声は聞こえているだろうに、何も言わない。――言えないのかも知れない。
ポツポツと話す、ヒューバートの声だけが場に響く。
『
『……
キャロルも初めて聞く単語――登場人物に、怪訝そうに首を傾げた。
『ミュールディヒ侯爵領から毎年多額の上納を受けている、筋金入りの、第二皇子派。エーレ様が監察で不在がちな事を利用して、実権を握ったんだ。とは言え、それでも後継者は、あくまでエーレ様だ。一時的に政務を
『……無茶、したんだ』
『本人は、無茶だとは思っていなかった筈だ。今の内にと、第二皇子派を増やそうとしただけだっただろうから。ただ、その皇弟殿下からの申し入れを、一顧だにせず切って棄てた
『…一顧だにしないって、何か凄い。仮にも相手は皇弟殿下なのに』
『元から、中庸派の人だったからなぁ…正室を持たず、跡継ぎは、平民の寵姫との間に出来た子供。国家式典以外には、
『………んんっ?』
途中までは、深刻に話を聞いていた筈のキャロルが突然、素っ頓狂な声をあげた。
中庸派。平民の寵姫。貴族社交界とは、ほぼ没交渉。1男1女。長女はルフトヴェークにはいない――そんな「侯爵」は、大陸広しと言えど、1人しかいない筈だ。
『うわぁ……』
キャロルは、ここがどこかも一瞬忘れて、頭を抱えて膝から崩れ落ちた。