34 名前は呼べない
「…中に入れるのか?」
既にエルフレードは、主に発音の問題で、カーヴィアルの人間だとイルハルトにも見抜かれていたため、潔く取り繕う事を諦めた。
護衛にさえ、見えていれば良いだろう。
足元に投げられた剣を拾いつつ、大使館へと戻るキャロルの背中に向けて、カーヴィアル語で声をかける。
「すみません。バレット卿を差し置いて、勝手な事をしました」
対するキャロルは、カーヴィアル語で返すものの、逆にこちらを片言で装っている。
「別に、事後承諾の謝罪など必要としてない。俺が聞きたいのは理由だ。それが正当なら文句は言わん」
「………」
キャロルはしばらく無言で歩を進め、答えを返したのは、大使館の入口に辿り着いてからだった。
中に入る前に一瞬だけ、足を止める。
「今の質問に私が『知らない』と答えれば、恐らくその二人は言葉とは裏腹に、街中でその誰かを訪ね歩く――そういう空気を感じました。彼らはここに留め置くべきです。それをさせちゃいけない」
「この二人は、逃げた男の仲間じゃない…と?」
「何が何でも、今回の事件の証人をでっちあげて、
ふん…と短くエルフレードは独りごちた。
「それはそれで、問題の種が増えただけのような気がするな」
「かも知れませんが……その二人をお斬りになりますか、バレット卿?」
「馬鹿言え。要は、ややこしい連中はまとめて一ヶ所に放り込んでおくのが一番安全だって話だろうが。ったく、段々アデリシアみたいな物言いになってきやがって」
「ええっ⁉」
その言葉に、真面目にショックを受けたようによろめきつつ、キャロルは大使館の入り口の扉を、右手で持っていた剣の柄でノックして、中に残るオステルリッツを呼んだ。
扉が、軽くきしんだ音を立てて開かれる。
「ロ…レアールさん、ご無事で良かった!怪我は大丈夫ですか?」
エルフレードもそうだが、オステルリッツも「ローレンス」と、うっかりキャロルを呼びそうになっては、慌てて訂正している。
「あ、首のコレでしたら、かすっただけなんで、大丈夫です、ありがとうございます。それより―――」
「冷えた井戸水と、乾いた布切れだ。あと、そいつの『大丈夫』をアテにするな」
剣を握りしめたままの右手を軽く上げて、オステルリッツに会釈しかけたキャロルの笑顔が、強張った。
驚いたように、後につづくエルフレードを振り返る。
エルフレードは少しだけ優越感を感じたのか、僅かに口角を上げた。
「別に、首の傷の事だけを言ってるんじゃないぞ?そもそも、あんな男の剣を、最初に勢いで弾き飛ばしたうえに、あの撃ち合いだ。その左手、
つい、と顎で指し示された己の左手に、キャロルも思わず視線を落とした。
その指先は微かに震え、実は剣一本まともに握る力さえ残っていない。
はは…と、乾いた笑いを浮かべながら、視線を無理やりエルフレードの方へと向ける。
「どうして殊更私を止めたり、
「これでも、帝国軍の一師団は任されている身だからな。最初に、どれほどのモンかと疑った事は詫びるが、少しは柔軟なつもりだ」
「……すみません」
「何でおまえが謝る。ほら、剣を貸せ。どうせ自力で鞘に収める事さえ出来ないんだろうが」
「………」
どこまでも図星である。
「何人かは見張りに散らせる。俺もそこまでルフトヴェーク語は得意じゃない。招かれざる客との
「……ご命令とあれば」
いくらカーヴィアル帝国の近衛隊長であるとは言え、キャロル自身は、帝国内では平民であり、なおかつ宮廷内での地位からしても、軍所属の公爵家長子、エルフレード・バレットには、遠く及ばない。
現在この大使館内においては、事実上の最高責任者となる彼が、こだわりもなく自らの不得手を認めて、場を委ねようとする事に、キャロルは思わず息を呑んだ。
そう遠くない未来の、軍務の長としては理想的ではないかとも思う。
「で、大使の執務室は窓が
アレとは、イルハルトがぶち壊して、粉々にした窓の事だ。
エルフレードが、曰く「招かれざる客」2人が、辺りを窺うように大使館の中へ入って来るのを見ながら、キャロルに問いかけた。
秋風が無防備に吹き荒ぶ部屋など、到底話し合いには不向きだ。
「…とりあえず、資料室へ彼らを連れて行きたいんですが」
「資料室?資料室って、今――あぁ」
「はい。今となっては、
エルフレードの目配せを受けたオステルリッツが、近くにいた部下に指示を出し、さっきの水と布に関しても、資料室に持って来させるようにと、言葉を添えている。
「はいはい、ちょい待ち。扉はお開け致しますよ、
「……カッコ悪い…未熟な自分が口惜しい…」
「未熟上等、お互い様だ。ひと段落ついたら近衛の訓練場行くから、一回手合わせな」
「えっ⁉」
資料室の扉を開けながら、しれっと告げるエルフレードを、驚いたようにキャロルが見上げた。
「どうされたんですか、急に」
「いや、さっきの撃ち合い見てたら、一度やってみたくなっただけだ。そもそも、近衛と軍の訓練は、普段、別々だ。良い機会だと思ってな」
「まあ、そうですけど…バレット卿の
「おまえが軍に来て、生意気だの
愛人って…と、ぶつぶつ不本意そうに呟いているキャロルを横目に、エルフレードが、問題の2人を部屋に招き入れた。
オステルリッツや部下数名がその後に続き、最後にクルツが入ってきたところで、扉を閉めて、警護するようにその前に立った。
ここからの会話の舵取りは、キャロルに任せると言う事だろう。
『ここ…は、一体…?』
見るからに大使の執務室ではない、本棚に囲まれた部屋に案内された事で、2人は最初明らかに戸惑っていたが、数歩進んだところで、その足を急停止させた。
『――どう言う事だ』
それまでキャロルは、彼らに対しては、彼らが武器を手放してからは一言も言葉を発せず、この部屋に入ってからもずっと、背中を向けて立っていたのだが――ここで、初めて振り返った。
「……この中に」
部屋の中央に鎮座する長テーブルを、すっと指差す。
『先程おっしゃった方の、持ち物はありますか?』
『なっ⁉』
――