25 忍び寄る危機
「むしろ、せめて死ぬまでに、誰か一人のためにでも、己が役立つことが出来たなら、その先が楽園なのかも知れん。
「……リンデさんは、もう見つけられたんですか、楽園は?」
「ふむ……今なら、妻が先に
そう言ってウインクするリンデの表情は、この場の空気を和らげるのに充分な、晴れやかなものだった。
「ごちそうさまです、リンデさん」
「ローレンス隊長は、今、己が役に立ちたいと思う人、モノはあるかね?」
「――そうですね、います」
ある、ではなく
「その気持ちがブレなければ、
「肝に銘じます」
「たまには、年寄りの言う事にも耳を傾けてみるものだろう?」
「何かそれだと、私がいつもリンデさんを敬ってないみたいなんですけど」
「いつも『鬱陶しい』と顔に書いてあったぞ?」
「それはサウルですね。私じゃありません」
「もしもし、隊長⁉」
近衛隊副長を務めるサウル・ジンド青年が、抗議の声を上げたが、キャロルは、冗談だと軽く片手を振って、それを聞き流した。
「ああ、フォーサイス将軍へのお答えがまだでしたよね。どうして旅に出ようと思ったのか、と」
「無理にお答えいただかずとも構わないが……」
「そんな大層な理由はありませんよ。ルフトヴェークに今住んでる両親の所に、弟が産まれたって言うのが一番の理由ですけど…単純往復じゃなく、周遊にした理由を強いて挙げるなら、殿下の目と耳になれれば、と思ったくらいですかね」
思いがけない答えに、全員の視線が、キャロルへと向いた。
「尊敬していた祖父と同じ、警備隊に入って、故郷の平和を守る――くらいの将来を最初は漠然と考えていたんですけど、思いがけず高等教育院や士官学校の推薦まで受けてしまって。そうなると、私は、街じゃなければ何を守るべきなのかと自答した結果が――アデリシア殿下で」
「………」
「あの
「……なるほど……」
「……真面目に感心されると、何だかいたたまれないです」
「いや。ただ、殿下の役に立ちたいと思う者なら大勢いるのだろうが…どこで、どうやって、を自分で考えて、ましてや行動に移せる者は、そうは多くない。殿下は良き部下をお持ちだ」
「あ、そこはぜひ、殿下に声高にお伝え下さ――痛っ」
「まったく、よく喋る『目』と『耳』だ」
「⁉」
その時、数十枚は軽くある書類の束が、乱暴にキャロルの頭の上に乗せられた。
「えーっと……殿下……」
「途中までうっかり、君の忠誠心に感動しかけた、私の純粋な心根を返してくれるかな、キャロル」
「純粋な心根……」
「うん?」
「いえ、何でもありません。あ、あの、それより何故こちらに……」
「強引に話題を捻じ曲げるね」
「いや、真面目な話です、殿下。そろそろ大使がお見えの刻限ですよね?何か――」
「仕方がないから、ここは誤魔化されてあげようか……そうだ、既に刻限にあるにも関わらず、大使が姿を見せない。大使館に使いを出したいが、誰か頼まれてくれるか」
「―――」
無言のざわめきが、場を支配した。
「殿下。何か遅れる理由があるのであれば、先触れの使者や、ご本人と入れ違いになる可能性がございます。今、この場にいる人間は、動かさぬ方が宜しいでしょう。典礼省から、使者として別に1名出しますので、軍の方に1人護衛を出すよう命じて頂けますか」
冷静にそう提案したのは、リンデだ。
短い思案の後、アデリシアも頷いた。近衛の仕事は、基本的に皇族及び宮廷内の護衛だ。
いくら目の前に戦力があっても、正規の領分を無視する訳にはいかない。
「分かった、頼む。私は中で、いったん通常業務を行うが、何かあれば、声をかけてくれて構わない」
控えの間の待機者は、頷いて恭順の意を示し、アデリシアは再び隣室へと姿を消した。
「――クルツさん!」
アデリシアの背後に控えていた、次席書記官ミケーレ・クルツを、慌ててキャロルが呼び止める。
「あの、隣室の侍女に、殿下へお飲み物をお出しするよう、お命じ頂けますか。それと出来れば、こちらのフォーサイス将軍の分も併せて、と」
「ふむ。結果的にお待ち頂く事になる訳だし、それも道理か。承知した、すぐ手配させよう」
「いや、私の分は結――」
結構、とフォーサイスは言いかけたが、既にクルツは聞いていなかった。
リンデとは対照的に、秀才官僚を地でいくような出で立ちの、クルツの行動は素早い。
せっかち、とも世間では言う。
フォーサイスの反論を聞く事もなく、隣室へと消える。
「やれやれ、相変わらずせわしない男だ。とても、ミハエルの息子とは思えん」
呆れたように呟くリンデに、キャロルも苦笑する。
彼の父親ミハエル・クルツは、キャロルも散々しごかれた、高等教育院の指導者だ。
「いや、
「…クルツが思う『論点のズレた会話』となると、ほとんどがズレている気がするが。一般人には、ハードルが高いのではないかね」
「まあ、それはそうなんですけど。私も時々言われますよ?『おまえの話し方は、カーヴィアル語になっていない』って」
「…おまえさん、よく耐えてるな」
「いや、だって、むしろ正しい言葉の使い方覚えるのには、良いかなと。せめてルフトヴェークの友人には、正しいカーヴィアル語を教えたいじゃないですか」
「ほーお。打算込みか」
「……なんか、今すっごい馬鹿にしませんでした?何でそんな、生温かい目なんですか?」
「失敬な。その前向きさを誉めてやっているのに」
「ホントかなぁ」
「ほらほら、話はここまでだ。クルツのヤツが、儂やおまえさんの分の茶も頼むほど、気が利いているとは思えん。殿下ではないが、大使殿の様子が分かるまでは、通常業務をこなすより他はないだろう。儂はいったん典礼省へ戻って、一人ピックアップせねばならんがな」
「あぁ…それもそうですよね。じゃあリンデさん、とりあえず私が典礼省へお送りします。サウルは、殿下から軍部宛の書状を受け取ったら、そっちの配達は任せても構わない?それと、選抜された一人は、そのまま馬留めの方に連れて行って。典礼省を経由させるより、その方が早いだろうし。典礼省の臨時使者は、私がそのまま馬留めまで連れて行くから」
「承知しました、隊長」
サウルは右の拳を胸元にあて、短く黙礼した。
一から十までの指示を必要としない、自分で動ける優秀な副長で、キャロルほどではないにせよ、アデリシアとのやりとりも難なく出来るため、キャロルも頼りにはしている。
欠点と言えば、自分の目で充分に物が見えるため、時折、小姑のようにキャロルに説教と雷を落とす事くらいである。
ただこの時は、会談を滞りなく終わらせることが全て――として、不要な発言は控えていた。
こうして使者と護衛が、ほどなくして、宮廷を出発した。