8 北国のクーデター
「第一皇子は
「叛乱……よりによって今……?」
半ば呆然と呟くアデリシアの動揺は、先刻フォーサイス自身が通ってきた道である。
このエールデ大陸において、ルフトヴェーク公国は、直接カーヴィアル帝国と国境を接していない。
国土面積では、カーヴィアルを上回る程の大国だが、両国の間には、マルメラーデ国、ディレクトア王国、リューゲ自治領の三国が横たわり、両皇室は、冠婚葬祭時を除いて、これまでさしたる交流を持ってはいなかった。
アデリシアの手腕もあり、ようやく内政の安定にも見通しが立ったところで、クライバー2世は、外交面からの更なる国家安定を目指し、まずはディレクトア王国と縁戚関係を結んだ。
リューゲ自治領とは、リューゲ特産のツェルト織の商業権を得る事で経済交流を深め、そしてマルメラーデ国とは、近々妙齢の姫君とアデリシアとの縁組が検討されており、いよいよ本格的な、ルフトヴェークとの交流を――と意気込んでいた矢先の、皇帝不豫であり、その皇帝の体調が、ようやく落ち着いてきたからこその、第一皇位継承者同士の、交流計画だったのだ。
タイミングもさる事ながら、これから冬の季節を迎えるエールデ大陸で、最も北方に位置するルフトヴェーク公国が兵を動かす事こそ、愚行の最たるものと言うべきで、蓄えておくべき食糧の浪費は、即、冬を越せない地域が出てくる事を意味する。
あまりにも当たり前の事すぎて、アデリシアは、それを無視した事態が起きるなどと、考えもしなかったのだ。
予定通りならば、近日のうちに、第一皇子は、春の会談に向けて公国を出立する筈であり、明日のルフトヴェーク大使との会談も、皇子のカーヴィアル帝国までの陸路を、最終確認する内容である筈だった。
「…フォーサイス将軍」
半瞬の自失から立ち直ったアデリシアは、まず自分の額に手をやり、自分の中で何とか、起きた事態を飲み込んだ。
「侍従武官が、そちらへ駆けこんだと言う事は、ルフトヴェーク公国の大使館は、まだ、この事は……」
「ここは、カーヴィアル帝国です。この国で起きた事はまず、この国の然るべき立場の方に報告をするのが筋と思い、こちらへ」
言外に、ルフトヴェーク大使館では、まだ、この事態を把握していないだろうと、フォーサイスは告げた。
「もっとも事前に、不穏だとか、何か可能性は感じていて、入ってくる情報に聞き耳を立てている可能性は、あるかと」
「……なるほど」
「今、我が国の駐在官邸の者には、箝口令を敷いて、待機させています。ご指示頂ければ――いかようにも」
フォーサイスが、わずかばかりの緊張感を漂わせて、アデリシアを見上げる。
彼がこの情報を、どう扱うつもりなのかによっては――駐在官邸における目撃者は、始末するようにと命じられる可能性もあるからだ。
フォーサイスの緊張が、伝わったのだろう。
アデリシアは、僅かに片手を上げて、首を横に振った。
「何やら物騒な想像をしておいでのようだが、その心配は無用だ、将軍。むしろこちらからは、わが
「…私は、職業軍人です。こう言った事態への対応は不得手で、殿下を頼らせて頂いたに過ぎません。過分なお言葉、有難く存じます」
頭を下げるフォーサイスに、鷹揚に頷きながらも、アデリシアの頭の中は目まぐるしく動いていた。
「将軍…その箝口令、もう少し、そのままにしていて頂けますか」
「それは…殿下がそう、おっしゃられるのでしたら…」
「我々は、ルフトヴェーク公国大使館――と言うよりは、その
「……っ」
単に、自国が有利になるよう、情報を留め置きたいのかと思ったフォーサイスは、内心ですぐさま己の不明を恥じた。
この皇太子の目は、常に何歩も先を見ている。宰相兼務が可能なだけの、政治的センスを持っているのだ。
彼が健在な限り、ディレクトアが王国の利益だけを追求して、帝国を出し抜く事は出来ない。少なくとも、自分には無理だと、フォーサイスは実感させられた。
まずここへ来た事は、正しかったのだろう――と。
「将軍、その侍従武官と直接話をする手筈を整えて頂く事は可能ですか」
既に心理的動揺からは回復しているらしい、アデリシアの声に、フォーサイスがハッと我に返る。
「いえ……傷をおして、昼夜を違わず走って来ていたようです。我々に事の顛末を語った後、力尽きたようにそのまま……」
沈痛な表情を浮かべたフォーサイスに、アデリシアはわずかに眉宇をひそめただけで、その事については、あえてコメントを避けた。
それならそれで、今ある手札の中で、どうにかするしかないと、思考を切り替える。
「…今、ここにある
「殿下?」
「将軍」
アデリシアはそこで、そもそもの疑問が、そのままだった事にようやく思い至った。
アデリシアの視線の先に気が付いたフォーサイスも、ゆっくりと、自分の背後の扉を、振り返る。
「事のあらましは、ある程度理解した。だが何ゆえ、我が
「……ええ」
――正確には、扉ではなく、蒼白な顔色で扉の前に立つ、キャロル・ローレンスを、2人ともの視線が捉えている。
「…どうやら、思い当たる節はあるようだ」
「そのようですね。ならば申し上げますが…亡くなった侍従武官が、私を大使館の者と勘違いしたまま、言ったのです。キャロル・ローレンスという女性の住まいを探して欲しい。カーヴィアル帝国の政情がどうであれ、必ず皇子にお味方下さる方だと、
「なるほど……」
キャロルの目が、自分達を見ていない事に気付いたアデリシアが、静かに立ち上がった。
そのまま彼女の側に近付くと、僅かに身体を傾けて、耳元で囁く。
「――キャロル」
ビクリ、と身体が跳ねた拍子に、腰の剣がカチャリと音を立て、その音で、キャロルの視線の焦点が、ようやく目の前の人物を認識した。
「で…んか…」
「落ち着いて。まだ君の知り合いが、亡くなった侍従武官だとは限らない。と言うか、将軍の伝言が言葉の通りならば、その侍従武官は、君を知らなかった。なら
アデリシアはキャロルに、ルフトヴェークに知り合いがいるのかどうかの確認はしていない。キャロルを落ち着かせようとしながらも、既にこの
普段であれば、すぐその事に気付くのだろうが、いかんせん今、キャロルは精神的に追い詰められていた。
「キャロル、確か君は国立士官学校入学前に、大陸周遊ルートで旅を――ルフトヴェーク公国にも、行った事があると言っていたね。最新の情勢は、明日、外交書記官にでも聞く。ただ、まずは今、君が知っている事を全て話してくれないか」
「―――」
「ルフトヴェーク公国を出たらしい、第一皇子とその家臣達が、もしも本当に、この
返事の代わりに、キャロルは胸元をギュッと握りしめた。
アデリシアや、フォーサイスからは見えない――そこにある2通の手紙を、服の上からなぞるかのように。