6 転機―二十歳前ー
「やあ、キャロル。今日は君が宿直かい?陛下もさぞ、心強いと思うよ」
この日。
近衛隊の夜勤担当として城内の巡回に出ていたキャロルは、深夜の宰相室にまだ灯りが灯っている事に気が付いて、宰相室の中をそっと覗き込んだ。
最初こそ、部屋の主人が「皇帝がいずとも日々が…」などと、ブツブツと愚痴って書類と格闘している姿に慄いたものの、すぐに誰かが部屋に入って来た事と気付いた、カーヴィアル帝国の宰相兼皇太子、アデリシア・リファール・カーヴィアルの声に、こちらもすぐに、我に返った。
胸元に軽く手をあてて、一礼する。
「勿体ないお言葉です、殿下。差し出た事と、充分に承知はしておりますが、深夜にお独り言は…さすがにお疲れでいらっしゃるのではと、無礼を承知で、中に入らせて頂きました」
「…もう、この時間は、私と君しかここにいないのだから、正直に『不気味な独り言を呟いていないで、サッサと部屋に戻って寝ろ!』と、明け透けに言ってくれて構わないよ。いや、むしろ嫌味で言ったのかな?」
「…お察し頂けたのでしたら、何よりです。そろそろお休み下さい」
一瞬の間を置きつつも肯定するキャロルに、深夜にも関わらず、ははっ…と、アデリシアは笑った。
「それでこそ、キャロル――私の近衛隊長だ」
キャロルが殊更にアデリシアの体調を心配するのも、純粋な体調の心配に留まってはいない、アデリシア一人の肩に全てがかかっているこの現状に対しての意味もあると言う事を、言った側も、言われた側も承知している。
「まあ、それ故の気苦労が絶えない事も分かってはいるが」
一部の大臣達が、クーディアと言う一地方都市の花屋の娘であり、平民市民の立身出世の象徴として実は絶大な人気と知名度を誇っている、キャロル・ローレンス近衛隊隊長がアデリシアの隣に皇妃として立てば、国内情勢だけをとれば、遙かに安定するのでは…などと騒ぎ立てている事は、両者ともに密かに承知している。
マルメラーデ国の姫君との縁談と勝手に天秤にかけて悩みを増やしている事も察していて、どちらも敢えて素知らぬふりを通しているのだ。
「私はただ、帝国宰相としての殿下が
今は滅多に自分も母も滞在はしないけれど、クーディアの街が、エールデ大陸に暮らす今の私にとって、故郷である事実は変わらない。
出来る限り災禍が及ばないよう、手は打っておきたいのである。
貴族階級層は多かれ少なかれ、
その点
「剣を持つだけが戦いではないだろう?」
宰相となって後、そう言って内政を充実させてゆくアデリシアを、戦嫌いの惰弱な皇太子と誹る声もあったが、キャロルはかえって信頼の度を深めたのだ。
万が一、アデリシア以外の人間が帝位につけば、国政の混乱は、一時的なものではすまない事が明白であるくらいに、アデリシアの手腕は確かだった。
自分がカーヴィアル帝国でこの先も身を立てていくなら、ここで彼を仰ぐより道はないと、国立高等教育院在籍の時点で、キャロルは自らの身の置き場を定めた。
キャロルにとって、帝国皇太子アデリシア・リファール・カーヴィアルは、自分が「剣を捧げた相手」であって、剣を手放して、高級なドレスを着て、隣に立つ相手では決してない。
時々アデリシアは「私と君の〝噂〟が事実になっても、私はいっこうに構わないよ。私が君の事を買っているのは確かだしね」などと軽口を叩くのだが「好き」ではなく「買っている」と言うあたりが、彼自身、キャロルを単なる縁談の風除け程度にしか思っていない事を窺わせている。
とは言え今回は、そんな国内の空気があった上でのマルメラーデ国からの縁談だ。
アデリシアも大臣達も、今までのように、
「第一収穫の
書類の一枚に、アデリシアが署名をしたタイミングを見計らって、切り上げろと言わんばかりの聞き方をしたせいか、アデリシアは苦笑と共に肩をすくめた。
「君の武勇伝を
東宮、とは宮廷内で皇太子アデリシアの住まう区画の事だ。
いらぬ噂、が何の事か分かっているキャロルも、媚びる様子は一切見せずに、わざと大仰に顔をしかめて見せた。
「そのように今更なことで、お気遣い頂かずとも結構です」
「そうだね。君が
キャロル自身、宮廷社会、それも社交界には全く向いていないと思っている。
公式行事を含めて、全てを騎士服で通しているのだから、見た目にもそれはバレバレな筈だ。訓練に出れば、嬉々として大の男を何人も剣で弾き飛ばし、休日ですら誰一人、お仕着せのスカート姿すら見た事がないのだから、尚更に。
とある貴族が、ある夜会でキャロル・ローレンスの近衛隊隊長職への取り立ては、色仕掛け云々…と言った、下世話な噂をばら撒こうとして、国立高等教育院、士官学校、近衛隊の関係者ほぼ全員が、信じるどころか、横を向いて笑いを
とは言え、腰まで届きそうな長い金髪が、頭頂部付近で一つにまとめられて、風に揺らぐ様は、
国立高等教育院を、それなりに上位の成績で卒業している以上は、貴族作法が備わっていないとは言わない。
だからこそ、特に貴族の側で「アデリシアの、正妃は無理でも側妃に」なんて噂が、完全には鎮火しないのも分かっている。
周囲は皆、キャロル・ローレンスの近衛隊隊長職を、実力で掴んだものと認めてくれていても――だ。
「ただね、そろそろ色々面倒にならないかい?近頃は、いっそ噂を事実にしてしまおうかと、思っていたりするんだよ。君なら今さら取り繕わなくても良いし」
「いやいや殿下、お疲れですね?先ほどの独り言といい、相当
「………」
深夜の執務室に、一瞬、沈黙が下りた。ややあって、疲れたようなため息を吐き出したのは、アデリシアの方だった。
「…君、本当に私に
「殿下がお求めなのは、そんな事じゃないと思っていますので」
「まあ、そうだね。それにあれだけ新年の宴で大笑いしておいて、最終的に君の色仕掛けに溺れたとか言われだしたら、ちょっと色々と残念だよね――
「……殿下も、何げに
「きっと疲れているんだよ」
「……ソウデスネ」
日頃の穏やかな笑顔に、皆がうっかり騙されがちだけど、実はこの皇太子様、中身は相当腹黒い。
国立高等教育院時代に初めて顔を合わせてから、それはもう嫌と言う程身に染みている。
そんなキャロルの内心をも察していたのかどうか、いったん会話が途切れたこのタイミングで、アデリシアは机の書類を軽く整えるようにして、立ち上がった。