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「ねえ、なぜ壊れ物の世界を抱くの?」

「ねえ、なぜ壊れ物の世界を抱くの?」「問えば響く君の答え」


『およそ3年前、私たちは国をまたいだドライブ旅行に出かけました。 楽しい一日になるはずでしたが、通過する小さな町の車道に入るたびに、ある種の恐怖を感じました。 住人に精気がなくモブキャラみたいでした。興ざめして定番の名所だけ巡って帰ってきました。 それ以来、ずっと慎重な旅を続けています。
観光が非日常における得難い体験から低俗な消費行動に堕落してしまった。

旅行記なる文学は昔からあります。

しかし私は今回のこれを物語として考えたことはありません。私は物語として描く時間を決めて、実際の旅へと旅を行っておりました。そのために、様々な場所に行ってみたいと思うようになり、娯楽としての旅行は避けていました。けれども、これからは避けてはならない、そう思うようになりました。だから私は、このエッセイを書き始めたのです。
私は、読者に伝えたい。
現実が語り、そこにある。
ただそれだけです。そうすることが、私にとっては自分を表しているように思えているのだから』
       ~~ ヘンリー・トーマス・リビング

「エッセイでは無いだろう。私がこれを読んでいる現在、君は殺されたのだ。記事の掲載はそういう手筈だった。あの編集長と三人だけの秘密だ。だが訃報を受け取った彼は自殺した。なぜだ?いや二人とも消されたに違いない。私も私だから言えることだ」、と胸の内で別の私が疑っています。

連載の今月分がヘンリーの『遺稿』として公開された時も私は半信半疑でした。

藪蛇をそっとしておけば穏便に済むのでしょう。

「それが物語として描けるのか? だがそれは、私がやりたかったことではなかったか。あの男のたった一つの使命に、私はただ関わっただけ。だがそうか、|物語《シナリオ》は|物語《シナリオ》だ。君は物語の読者と、読者を物語に引き込む読者を救いたいだけだった。違うか」

ヘンリーの面影が私を責めます。

「あなたは物語を読まなくてはならないと思うのですか」
私がそう言うと、
「その言葉はいらない」

「私は言葉も書きやすい」
「私は物語を語ることも出来る。私は書かなくては、自分を出してはいけないだろう
から。でも読んでいる君はいない君では無い」と、彼は私の代わりに書き始めました。これで私は物語として描けるようになったと思いました。
しかし、こんなエッセイをもらったところ、すぐに「それは、物語を読んでいないのだ」と書くべきでは無くと感じました。それならなぜ「物語を読んでない」などと書くのですか。物語を読まないとは何なのですか。
私はそもそも物語を読みなんかしたことがないです。
それに物語を読んでいないとは思ってもいません。私は物語を読めない人でも、それを物語と呼ぶ人だからこそ書いているのです。
物語は生きるために存在しますが、それは人の意志にかなう意思では有りません。人は物語の作者である可能性を無意識に認めているだけです。
物語は物語であり、その作者が自分たちのいようが、そうであるから書かれているのではないのですか。
もし本当に物語で語られていることが有るならば、その内容は、ただ物語にのみ存在するということが、真実なのではないか、と、私はそう思いました。
でも人は自分が正しいという感情さえ忘れ、物語を読まない人なのです。
だからこそ物語は生きるために存在するのです。
物語を読み、物語に書き込む。物語を読んでいないために物語を語れないから、物語を書きなさい、と思うのですか。
私はそれはとても無責任だと思いました。
物語を読めるように勉強していれば、ある程度の自分で分かると思ったのです。そうしたら不思議なことに、この物語に至ったのは、私が物語をつくった故に生まれただけ、という気がしました。

物語が物語を語らないからこそ、物語は物語なりに生きているのです。
物語を語らないからこそ、物語は物語である。ただ話したい、と思うだけで物語は語られるわけではないのです。
語り部と作者の違いに疑問を抱いた。
彼らの物語は借り物だったので、信憑性に欠ける。

物語の存在を疑う彼らの中で、私だけが物語を語ることができたのです。私が物語をつくる。それが彼らの物語であるわけではない、ということに。
だから私は、私はあの物語は物語ではない。物語はそこにあり、物語は物語と、誰かの物語そのものであり、私の物語は私のものなのだ、と思いました。
何より、あの人たちの物語を聞いていただけで、あの物語で得られる物語が存在するのなら、物語が、物語はある。物語とはつまり、そういう存在なのです。
そして物語とはつまり、物語を形成する主体なのです。

どんなにたくさんの言葉で書いても、それが物語ではないということは、必ずどこかに隠れるでしょう。どんな理由があっても、そこに隠れる。

誰かが物語を紡ごうと思っても、それを物語とは呼びません。物語の構造を考えたうえでさらに考えます。物語とは、その言葉の内容が意味を成しているか、あるいは文章の中身が意味を成しているかのどちらかであり、その内容が作者の想像力によって語られているかどうかのどちかである。

そして物語はどの言葉にも、作者の想像力が表現している。作者は誰よりも、世界の真実を、可否の狭間を歩く人間です。
そんな彼の言葉を、その文字を通して、世界はその事実を受けいれてくれる。
彼は世界を肯定する言葉をつくりだし、世界に受け入れられたのだと。
私には分かりませんでした。私は自分の書いたものを、誰かが書いたものだと信じていられない。でも私はそう信じるしかなかったのだと思うようになりました。物語を信じることでしか生きられなくなってしまったのです。
「君たちの言うことはいつも正しくはない。それは彼らが正しいのだろう」彼は言いながら私に微笑みかけた。彼が笑っている姿は、あの編集長と似ていた。
編集長も笑っていました。彼は笑う。
しかしあの編集長はもうこの世にいない。
私は、彼を殺した犯人を探し始めた。私も殺されてもおかしくない。
私はただ、知りたかった。なぜなのかを、私はあの男に訊きに行きたかったのだ
「それは違う」
「あの男が殺されたからだ」
「それはどうでもいいことだ」
「君は、君の好きなようにしていい。君はまだ物語の中にいる」
彼は私に向かってそう言ったような気がいたします。
「私には物語が無い。だから私はそのことについて、物語として書きたいと思っている」
「私はその答えを知っており、その質問をされる前に答えることが出来るだろう」
彼は言う。
「君たちは物語を書く」
私は問う「だが君は物語の語り手だ」と、
彼は「それはどういうことだ?」
私は続ける「言葉はただの文字だ」と、「私は何も間違ってはいないと思うのだが」「君はなぜ私を殺そうとしない」
私は殺すことができないでいた。いや、殺してほしくなかった。彼は何もしていないし悪くないのだと思っていた。
彼にも事情があるはずだからだった。
「では君はなぜ、君の物語が書かれないのか知っているだろうか」
「私は、私自身が私であることを物語ってみたい。私は私のことが嫌いだけれど、それでも物語として生きることができるならば、私の存在は肯定されてもよいのではないか。私の存在が、たとえどれほど愚かしくとも、醜くてもその瞬間だけは認められるべきではないか。それが私の願いです。

私は自分を物語として描くことで自分を知り、自分のことが少しくらい分かるのではないかと思うのです。物語を知ることこそが、私が私になることへの一番の近道だと考えています」

私は彼を理解できなかった。でも彼の言っていることを聞いていくうちに分かった気がしてきたのかもしれません。
とにかく物語を描きたいと、そう思った。そしてそれは自分自身のためだけに、書くのではなく、もっと別の、何かを物語りたかったのです。

私はただそれを描いてみる。
すると私はその絵の中に入っていけそうな気がするから。
絵を描くとき、筆を持つ手は自分のものですがその目は誰かの目になるのでしょう?私はその目を私に向けて描き始めるのです。そしてその筆を動かすことによってその手が、私のものであるかのように錯覚させる。私の手を動かし、私ではない誰かを描くために、その絵に入り込むように描くという行為をすることによってその筆が自分のものになったように感じるのでしょうね。

でもこれは私の妄想に過ぎない。私以外の人間がその絵を描くと、きっとその人間は絵の中で生きている人間のことをその手で描いたはずなのである。

つまり私がその絵を描く時だけ、同じ絵筆を持った第三者によって描かれているのです。 だから私にとっては「私のために書かれた絵画」というよりも、「私を描いたものではない、他の人がいる絵画の中の人物画」、「他人の目を借りている私自身の絵画」のように見えていた。

その絵を見る人の視点を考えて、その人はどんなふうに見るだろうと考えて私は描くということをする。それはまるで、その人に見せるつもりで、私の存在を知らせようとしているようなものです。

だから、もしこの人がその作品を見れば私のことを理解できる。私は私をそのキャンバスの上に置いておきたいと思いました。
その絵が完成したあとも、私は私自身として生きてみようと思います
「問いに答えなさい。編集者を殺した真犯人は誰か?
」「犯人はこの中にいます」
彼は私に向かってそう言うと、持っていた鞄の中から一枚の写真を取りだした。
そこには編集長の姿が映っていた。
彼は、編集長を殺した。でもなぜか殺した理由を語ることはできなかった。
彼が嘘をついていないことは、私にも分かった。彼は確かに言ったのだと思える言葉がいくつもあったから。
「あなたは何をしたかったのですか?」私は尋ねる「何を言いたかったのですか」と。でも彼は微笑むだけでした。私はただ、彼が私に話してくれた話を頭のなかで何度も再生しながら歩き続けたのです。彼は立ち去ってしまったのかもしれないけれど、私はずっと彼を追いかけながら歩いていました。
「私は物語を書くためにやってきた」彼は言う。
しかし私は何も言うことができずにいた。
そのとき私は初めて知った。
「私は物語の語り手ではなかったのだ」ということが。
ただの語り手だったのです。彼は私の物語を読んでいただけの男に過ぎなかったのですね。私を物語の語り手にしておきたいと思ってしまった時点で彼は物語の中にいて、彼自身のことは語らなかったのですから。私だけが語り続けるしかなかったわけです。だから彼が「君はなぜ君の物語が描かれないのか知っているだろうか」と尋ねたときも答えることは出来なかったのでしょう。だって私にはその理由がわかっているわけではないのだから。私が私であることの証明なんてできはしないのです。私が語る物語は、物語ではなくてただの私についての説明でしかありませんでした。私が自分自身について語ったことしか私の中には存在しなかったのです。私は、私以外の誰のことを語っているつもりもありませんでしたからね。私は自分自身についての物語を語っていましたし、それを私は自分自身についての物語と呼んでいただけにすぎない。それはただの独り言だった。だから私以外には聞こえなかった。それは、他人には分からないものだった。それは、誰にも伝わらないものだったのでしょう。だからこそ私にしかわからないのです。私は私のことなんか知りたくはなかった。そんなことを知りたくはなかったのですよ。でも知らないでいることはできないでしょう。それが私だから、私が私であるために知らなければならなかったのです。私がそのことを知ったのはある意味では、私を物語りたいという欲望に負けた結果でもありました。だからといって私が悪かったわけではなく、また悪いとするならばその責任は、私のことを勝手に理解しようとする者にあるはずです。私にそれを求める権利があるかどうかは別問題にしても、少なくとも彼にはあったはずなのですが…… その男は、私を物語の語り部として見ていたわけではなかったのですから、私の言葉を聞きたいとは思わなかったはずなのですよね。私という人間の物語を聞くことなど、聞きたいとは思いませんから。それでも彼は物語を語ることを強要しました。
私は物語を語ったつもりだったのです。
彼の言うところでは、それは誰かのための物語でしたが、しかし私にとってそれは自分のためのものでしかなかったのだと、今となってはよくわかりますよ。でも彼はそれを、私のためのもののように語ろうとし、私が私自身のことを語るたびにそれに反発するような顔をするんですね。まるで自分が何かに怒っているかのような態度をとりました。それは私がその物語の中で私自身を肯定しようとしても否定されてしまいました。私以外の存在になろうとすることは無駄な努力だったのですから。
私にできることといえば、物語を描くことでした。それは誰かのために物語を描こうとするようなものではないのですが、私を形作るための物語として必要だったのです。でも、それを描けと言われたときに私は描きたくなかったのでしょうね。自分の内面を描き出すなんてことがしたくはないと拒絶していたのでしょうか。自分でもよく分かりません。でも嫌だと言ったと思います。
最後に彼にこう尋ねました。あなたの物語を私は描くことができるのだろうか、あなたは自分の物語の中の人なのだとしたらどうなのだろう、とね。すると、あなたはこう答えたのですよ。
できるかもしれません、でもしなくてよいことです。私は物語を語り続けることができればそれでいいのだから、私の物語は私によってしか描かれることはできないのだからと。
それではさようなら、そしてもう会うこともないでしょうと言って歩き出した男を追いかけようとしましたが足が前に進みませんでした。そのときになってはじめて気がついたのですがどうやら私は怖がっていたようです 彼が立ち去ってしまうことを恐れていたのか、あるいは私がこの先何を言えばいいかわからなくなることを恐れていたのか……それは今でもよく分かりません ただひとつ確かなことは私がその男と出会ってしまいそれから別れたことは事実であり、私はそのことについてこれからも考え続けなければなりません、それだけの話なのです……そして、私の話は終わった……? はあそうですか、終わりなのですね、はい、これで終わりのようで。まだあるのかと言われても困るのだけど……。まあいいでしょう…………。それじゃ、またいつか会いましょうか。きっとまたどこかで。
それではお疲れ様でした。

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