“こんなところにバーがあったのか…”
暗闇の中、Bar vengeance と書いてある明かりの点いた看板をみて男は呟いた。
赤レンガ造りの店で通りに面したところに窓はなく、中の様子をうかがうことはできなかった。
男は思い切って古びた木製のドアを開けると、からん、と音が鳴った。
“あら、いらっしゃい”
店内は暗く、あちこちに蝋燭の炎が揺れている。
ようやく目が慣れてきて、ゆっくりと見回してみると、カウンターのみの小さなお店で、カウンター越しに長い髪を右肩のあたりで緩くまとめ、右側は黒、左側は白の着物を着た女性がいることがわかる。
“こちらへどうぞ”
女の声はとても甘やかな声で誘われるままに女性の目の前の椅子に座る。
“何にしましょうか?”
“ウイスキーをトワイスアップで”
“はい”
女は慣れた手つきでワイングラスにウイスキーと水を同量いれ、静かに男の前に出す。
ウイスキーは男好みのモルトウイスキーで、自然とほほが緩む。
“お気に召したようでよかったです”
女の安堵したような声が聞こえる。
“本当に、好みのウイスキーだよ。よく好みがわかったな”
感心したような男の声に女は、ふふっ、と小さく笑う。
“お客様の雰囲気が前に付き合っていた男性とよく似ていて、その人はモルトウイスキーが好きな人でした”
“ほう”
ふと、女の顔を見ると会ったことがあるような気がした。
“何かわたしの顔についているのかしら?”
女は男の視線に気づき、首をかしげながら問いかける。
“いや、なんとなく、どこかで会ったような気がして…”
“…”
女は黙り込んでしまった。
“気を悪くしたようで、申し訳ない”
“…いいえ…私もお酒を頂いてもいいかしら?”
“かまわないよ”
“ありがとうございます”
女は男に出したウイスキーを少なめのソーダで割って飲み始めた。
ふぅ、と息を吐いて
“ちょっと身の上話してもいいかしら?”
女は少し沈んだ声で話した。
“もちろんだよ”
女は手元のお酒をまた一口飲んだ。
“わたしの生家は商売をしており、大層繁盛していたのでお金に余裕のある家でした”
男はお酒を飲みながら、女の甘やかな声に耳をかたむける。
“そんな家ですから、学校の卒業と同時に見知らぬ方の嫁になることが決まっていました”
女も一口酒を飲む。
“それ自体、わたしに否を言えることではないので、家のためにと卒業と同時に嫁ぎました。20も年の離れた旦那は商売人でしたが、とても大事にしてくれていました”
ふと、男が女の顔を見ると、目を細め、過去の思い出を浮かべ恍惚とした表情をしていた。
“このまま、幸せを感じ人生を終えられるのだろう、と思った矢先に旦那が亡くなりました”
女はその時のことを思い出したのか、一筋の涙が見えた。
“原因は交通事故でした。警察から連絡があり病院に駆け付けた時にはすでに息をしていませんでした”
女の声は涙声になった。女は手元のお酒を少し飲み、気持ちを落ち着ける。
“それからの記憶はとても曖昧で、いつの間にか通夜も葬式も終わっており、居間で呆けていました”
氷のとける音が小さく響く。
“そこに一人の男が訪ねてきました。その男は事故の時に旦那と一緒の車に乗っていて大けがを負い入院していたためお詫びを言うのが遅くなったと話していました”
男はかすかに手が震えていた。
“その男は旦那と仕事のやり取りがあるため、家の商売についても面倒をみてくれました”
女の声が淡々と店に響く。
“また、旦那を助けることができなかったことを悔やんでいて、落ち込んでしまったわたしを慰めるよう時折様子を見に来てくれました”
男は女から目をそらし、お酒を飲む。
“その男はとてもやさしく、いつの間にか恋心を頂くようになりました”
男はそのまま話に耳をかたむける。
“その気持ちは男にも伝わったようで、旦那が亡くなって5年ほどたって、再婚しました”
女はお酒を一口飲み、話しを続ける。
“桜が咲く春に結婚し、これから好きな人と一生添い遂げることができると幸せでした”
“ある日、私は男に殺されました”
男は持っていたグラスを落としそうになる。
“幸せな日々は長く続かなかったのです。その日、お店の近くを歩いていたら、男が店から出てきたので、声を掛けようとしたのですが、嬉しそうに歩く男に声を掛けるタイミングを失いそのまま男の後をつけたら、店の裏手で見知らぬ女性と話している姿を見かけたのです。わたしは何もできないまま、二人の会話を耳にしてしまったのです”
男の顔には汗がうっすらと浮かんでいる。
“わたしの旦那を車の事故に見せかけ殺した、と”
女がいつの間にか横に座り、こちらを見ていた。
“わたしはそのまま家に帰り男の帰りを待ち、聞いた話を確認しました。本当のことかと”
女に見つめられ男は動けずにいる。
“男は、ためらう様子もなく本当のことだと言いました。そして、わたしを殺し、店と保険金を受け取るのだと話ました。そんな話、信じたくないと男に詰め寄ったのですが、男は薄ら笑いを浮かべながら、わたしを抱き寄せると突然背中に痛みが走りました。なぜ?どうして?と男に聞いても薄ら笑いを浮かべるだけでした。遠くなる意識の中で痛みだけが何度も襲い、完全にこと切れたことを確認した男性はわざと部屋を散らかし、強盗に押し入られたように細工をして警察を呼んだのです”
男は音を立てながらグラスを置くとそのまま店を飛び出した。
男はそこで目が覚め、自宅の布団の上にいることを確認した。
(そうだ、あれは夢だ。あのことを知っているやつはこの世にいない)
男は落ち着こうと体を起こし、枕元にある水差しに手を伸ばした時、女がいることに気づいた。
「…!」
悲鳴とも言えない声が口からでる。
「あら、殺した女の顔は忘れてしまったのかしら?」
甘やかな声で話す人は夢の中の女だ。
男は全身に冷水を浴びたような気持になり、小刻みに体を震わせながら女をみつめている。
「ふふっ、途中で帰ってしまうなんてひどいですわ。まだ続きがあるのに」
男をひたと見つめ、
「私と旦那を殺すだけではなく、別の女性も殺したのよね、あなたは」
「そんなことはない!殺したのはお前とあの男だけだ!」
「あら、では、隣は?」
女は左手で口もとを隠し笑いながら、右手で男の後ろを指さす。
夜明け前の薄明るい部屋の中、女が指さす方向を見る、
そこは妻が寝間着姿で寝ているはずだが、かけ布団はめくれ上がり、布団には黒いシミが広がり、そのシミの上に妻が寝ている。胸のあたり、目を凝らし確認したが、胸が上下に動いておらず呼吸していないようだった。
「俺は殺していない!」
「ふふ、そうね。あなたは殺していないわ。殺したのはわたし」
口元に笑みを浮かべ、楽しそうに話す女。
「でもね、あなたが殺したように証拠を作ったわ。その女性を殺すために使った包丁にはあなたの指紋を、そして、あなたの手にも体にも女性の血を浴びせているわ」
男はその言葉で自分の体と手を確認した。
確かに女の言った通りに、男の寝間着には血が大量についており、手もぬるっとするほどに血で濡れている。包丁は妻の近くに落ちていて、それにも血がべったりとついていた。
「俺は殺していない!」
女は男の近くに寄り、耳元で囁く。
「あなたに乗り移って殺したのよ」
「なせだ!」
女は笑みを浮かべ、
「わたしから大事な人を奪ったのだから、お返しをしたのよ」
男は布団の上で動けずにいる。
女は一転して笑みを消し怒りの形相になり、
「お店と保険金を手に入れて、幸せになるなんて、許さない!」
気づけば外にはサイレンの音が響き、この家のそばで停まっているようだ。
同時に玄関のドアを叩く音も聞こえる。
青ざめた男の顔を見ながら女は笑いながら
「地獄で待っているわ」
そうつぶやき、消えていった。