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竜の訪れ

 二年後の西暦千九百四十六年、ヒノモト帝国の南洋統治領であるダンプ諸島。

 竜の出現による第二次世界大戦の唐突な休戦により、ヴァージニア共和国による占領をかろうじて免れた諸島東部の夏島で、麦わら帽子の一人の少年が岸壁から釣り糸を垂れている。

「のどかだなあ…………」

 少年は釣り竿を片手にしたまま、のんびりと肩の力を抜き両足をぶらつかせた。

 南国の日差しは強く、肌が焼かれるような圧力があるが、海風はむしろ心地よいほどで少年は楽しそうに目を細めていた。

「戦争はひとまず終わりましたが、いつ竜の襲撃があるかもわからないのですよ? ご自重ください坊っちゃま!」

 困り顔で少年の背後から、美しい一人のメイドが控えめに声をかける。

「竜が怖くて家に引きこもっている趣味はないよ」

「それはそうですが……私にもメイドとしての矜持というものが」

「そうやって日焼けの日の字もない真っ白な肌を維持していられるんだから……すごいよね、メイドの矜持」

 南国であるダンプ諸島ではありえない白磁のように滑らかな肌。一部の隙も無いその美しさはもはや超自然的なミステリアスさを感じさせる。

 まるでそこだけがサクソン王国ビクトリア朝時代にタイムスリップしたかのようだ。

「うふふ……恐縮ですわ」

 嫣然と微笑むメイドの少女は、スカートの端をちょん、と摘まんで流れるように恭しく少年に頭を下げた。

 見慣れているはずの少年も、思わず見惚れるような流麗な動作であった。

 わずかに明るい茶の入った黒髪を肩口で切りそろえ、瑞々しい白磁の肌には日焼どころか汗一つ浮かんでいない。

 物理法則を超越したかのような少女の佇まいを、見るものが見れば、並々ならぬ発気――オーラが見えたであろう。

 彼女のせいで少年のメイドという職種に対する誤解が、ある意味間違った方向に天元を突破することになるのだが、それはまた別の話である。

 サクソン王国風のシンプルなデザイン、その清楚な色気を引き立てるかのように純白のフリルに彩られたヘッドドレスが少女の小さな頭に乗っていた。

 潮風が少女のスカートをひらひらと揺らすが、絶対領域は完璧に秘匿されている。しかしかろうじてのぞいた綺麗な生足を少年は見逃さなかった。

 くっきりとした目鼻立ちにさくらんぼ色の可愛らしい唇。どちらかといえば童顔な顔立ちだが、右の目尻の涙黒子なみだぼくろが、いまだ蕾の少女に不釣り合いな妖艶な色気を醸し出させていた。

 正しく誰もが振り返る、清楚で瀟洒で完璧な美少女である。

「――全く、葉月姉には敵わないな」

 少年に名を呼ばれた少女は満更でもなさそうに頬を染め、形だけは抗議のために口をとがらせてそっぽを向いた。

「もう! 子供のころのように呼ばないでくださいとあれほど言ったではありませんか。弥助坊っちゃま!」

「僕だってそろそろ坊っちゃまは恥ずかしいよ?」

「坊っちゃまは何歳になられても坊っちゃまですから! メイドとしてそこは譲れませんので悪しからず!」

「うわっ、理不尽な……」

 まるで相思相愛の恋人のように葉月と弥助は視線を交わしただけで、相手の言葉にはできない部分をわかりあっていた。

 このダンプ諸島へ船に密航してやってきてから三年。

 当時十一歳であった弥助は十四歳に、そして十三歳であった葉月は十六歳の年頃の乙女へと成長している。

 実は弥助はさる名家の嫡男であり、もともと葉月は護衛兼メイドとして幼いころから生活を共にしていた。

 その名家は古い武家で、今も軍部に大きな力を有しているヒノモトでは誰もが知る古来よりの有数な名門である。

 その当主が若くして死ぬとともに、当主の座を狙って豹変した叔父によって、弥助は家令や医者の証言によって当主との血縁関係を否定され、母がどこの馬の骨とも知れぬ男と浮気した産物ということにされた。

 まだこの世界にDNA鑑定はない。だから医者や関係者に証言を偽造させれば、権力者にとっては容易いことであった。

 ここまではまあ、よくあるお家の乗っ取りである。

 ところが新たに当主となった叔父はそれだけでは不安だったのか、一庶民となった弥助に複数の刺客を差し向けた。

 母は亡き夫のあとを追うようにすぐに病死しており、幼い弥助を殺すのは造作もないことのように思われた。が――――。

 若干十一歳であった弥助と、十三歳であった葉月は、まさに鎧袖一触に殺し屋を返り討ちにし、戦争中のどさくさに紛れてダンプ諸島行きの船へともぐりこんだのである。

 ヒノモト帝国の委任統治領であるダンプ諸島には、元軍人で葉月にとって母方の叔父である霧島剛三がいたためだ。

 弥助の亡き両親によって手配された幼馴染にして完璧なるメイド、葉月はこと白兵戦においても完璧であることを証明したのであった。

 いまや弥助にとって、この世で唯一頭の上がらない人物である。

「――――おっ! 引いたか!」

 あたりを合わせると竿がぐぐっと撓り海面を大きな銀の光が躍る。

 よい手ごたえだった。大物がかかったようである。

 なんとかバラさぬよう格闘すること数分、なかなかにいい型のギンガメアジを釣りあげて、弥助は破顔した。

 これで今晩のメインディッシュは決まった。

 なんといっても完璧なるメイドである葉月は、料理の腕も完璧なのだから。

「しようがないですわね」

 期待に満ちた弥助のキラキラした視線を向けられて、葉月は苦笑とともに弥助の手からギンガメアジを受け取った。

 葉月も弥助を甘やかしてしまっている自覚はあるのだが、メイドとして主人のいうことには逆らえない。

 それどころかむしろこうして甘えられることに、胸が高鳴るほど喜びを覚えてしまう困った自分がいた。

 このところ成長期の弥助は、早くも葉月の身長を追い越し、どこか男性的な頼りがいさえ感じさせる雰囲気をまといつつあった。 

 ようやく少年らしくなってきたばかりだが、整った顔立ちのなかに野性を感じさせる精悍さがある。

 それは見慣れているはずの葉月が、ついふとしたはずみで胸にキュン、と動悸を覚えてしまうほどであった。

(悔しいけど、格好いいのよね…………)

――だが常に完璧なるメイド、葉月は、かろうじてそんな感情が表情に出てしまうことを抑えつけた。

 少なくとも表面上は、相変わらず葉月は優雅で瀟洒な美少女メイドのままであった。

「葉月姉の煮つけは絶品だからなあ」

「もう! 褒めても何もでませんよ? 坊っちゃま」

 実は鉄壁のポーカーフェイスのようにみえて、葉月の耳たぶが興奮すると赤くなることを弥助は知っている。

 しっかりと葉月の耳たぶが赤くなっているのを確認して、弥助はニンマリと笑みを浮かべた。

「葉月姉はいいお嫁さんになるよね」

「ふえっ?」

 さすがの葉月のポーカーフェイスも、お嫁さんという乙女にとって魔法の言葉には無力であった。

 そんな葉月の反応を意地悪く楽しそうに見つめて弥助は笑う。

「ほんとに葉月姉は可愛いなあ」

「もう! もう! からかうことばっかり覚えて! 今日という今日はみっちり叔父様に叱っていただきますからね!」

「……本音を言っただけなのに……」

 もちろん葉月も本気で怒っているわけではない。むしろ本当はうれしいことの照れ隠しのようなものだ。

 姉弟のように育った二人が、次第に男女の性差を意識し始めたことによる違和感を調整するような可愛いじゃれ合いであった。

 二人を知るものがいれば、いつもの微笑ましい掛け合いであると笑っただろう。

 ダンプ諸島で二人が身を寄せた葉月の叔父である剛三が見れば、目に入れてもいたくないほど可愛い姪の甘酸っぱい思いに感涙したかもしれない。

 というより剛三は最近、本気で葉月を弥助に娶せようとしている節がある。

 そのあたりも葉月に弥助を意識させる原因となっているのだろう。



――――ウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ!



「空襲警報?」

 一昨年前にヴァージニア共和国が進出していたころは、一日に数回以上も鳴っていた。特に二月十七日の空襲はすさまじく、軽巡阿賀野や那珂など、多数の聯合艦隊グランドフリート艦艇が犠牲となった。

 即席の防空壕に飛びこみ、直撃弾がないことを祈る日々が続いた記憶が蘇る。

 もはや二人にとっては聞きなれた警報音であった。

 しかし『竜の目覚め』と呼ばれる千九百四十四年の竜の出現により、大被害を受けて撤退したヴァージニア共和国にもはや空襲する余力のあろうはずもない。

 世界でもっとも強大で豊かであったヴァージニア共和国は、竜による被害のもっとも大きかった国でもあるからだ。

 今のヴァージニア共和国は国力、人口ともにヒノモト以下の三流国へと転落していた。

 太平洋を支配したあの恐るべき数の大規模機動部隊も、すべて竜のえじきとしてロサンゼルス沖に沈んでいる。

 太平洋艦隊最後の司令長官となったスプルーアンス提督は座乗する空母フランクリンと命運をともにし、ヒノモト帝国海軍の魔手を逃れ続けた幸運艦エンタープライズもまた海の藻屑と化した。

 ではこの空襲警報はいったいどこからの襲撃だというのか?



「――――竜だ! 竜が来たぞ!」

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