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プロローグ

 悲しみが来るときは決して単騎では来ない。必ず軍団を率いてやってくる。
                  ウィリアム・シェイクスピア ハムレット第四幕第五番

――――その日、人類はなんの前触れもなく唐突に滅亡の危機を迎えた。


 一九四四年七月三十一日サヴォイア王国サルディニア島。
 地中海の宝石のようなこの島は、連合軍の大陸反攻の一大拠点となっていた。
 およそ五年に及ぶ全世界を戦火に巻き込んだ第二次世界大戦でいよいよ地中海を制圧し、ほぼ勝利を手中に収めた連合軍に所属する、サルディニア駐留軍第Ⅱ/33部隊は、近い将来の戦争の終わりを予感して今日も意気軒高であった。
 地中海の強い陽ざしを浴びて額が汗ばみ始めた午前九時十五分、フランク王国への定時偵察任務について離陸した第Ⅱ/33部隊所属の名物男アントワーヌ少佐は、今日も気分よく愛機の操縦かんを引き起こした。
「さあ、今日も行こうか。愛機(ベアトリーチェ)よ」
 そういってアントワーヌ少佐は目を細め、ぐん、と上半身を締め付けるハーネスの圧力を感じて心底うれしそうに微笑む。
「メッサーの新型が増えてます。くれぐれも気をつけてください」
「ありがとう」
 整備兵に軽く腕を振ってアントワーヌは礼を言った。
 広い額に高く尖った鼻、意志の強そうな黒い瞳。基地内で世界的有名人である彼の名を知らぬものは一人としていないといってよいだろう。
 彼こそはヨーロッパでもっとも有名な作家の一人、アントワーヌ・ド・サンテグジュペリその人であった。星の王子様のヒットで世界的に有名になった彼は、優秀なパイロットでもあり、第二次世界大戦においては本人の希望により前線の偵察隊に配属されていた。
 千四百二十五馬力を叩きだす愛機のアリソンVー1710エンジンも、心なしかいつもより機嫌の良さそうな噴き上がりである。
満足そうな笑みを浮かべてアントワーヌは愛気に搭乗した。
「離れろ! 出るぞ!」
 タキシングで動き出すアントワーヌの機体から、整備兵が小走りに離れていく。
「必ず帰って来てくださいね少佐!」
「そのつもりだ。ワインを冷やして待っていてくれ」
 手動でコクピットを閉めると、双発という大馬力を生かして、アントワーヌの愛機はぐんぐんと蒼穹へと吸い込まれるように上昇していった。
 コクピットから透明なアクリル越しに見えるのは、どこまでも真っ青な空と眩い太陽の白い輝きだけだ。
 高度三千メートルへ達するまでわずか五分、機首を倒し水平飛行に移るとコバルトブルーの深い色を湛えた大海原が眼下に広がった。
 いつ見ても飽きることのな雄大で美しい光景であった――だが今はなぜか故郷の温かな風と穏やかな木洩れ陽が恋しく感じられてならない。
 今や敵国に占領された麗しき故郷――――フリヴィエールの丘、黄昏に照らされるソーヌ川。そしてサンジャン大聖堂の荘厳な姿を思いだして、もうじき発動されるであろう大陸反攻を前に、アントワーヌはひとしきり感傷に酔う。
 懐かしいコート・ロティのワインを最後に飲んだのはいつだったろうか。
 できることなら愛機の足を伸ばして、故郷へと向かいたい欲求をアントワーヌはかろうじて抑えつける。
 あくまでも本日の偵察目標は、シャンベリー方面のプロイセン王国軍の進出状況であった。。
 先日のサルディニア王国解放以来、戦争の終わりがすぐそこまで近づいていることを、前線の兵士たちは誰もが肌で感じていた。
 生きて終戦を迎えるために、アントワーヌは逸るいたずら心を切り替えようとしたが、好奇心旺盛な持って生まれた性質(さが)は容易には変わらない。
 財産にも名誉にも不足のなかったアントワーヌがわざわざ軍に志願した理由は、ただの愛国心だけではなく、こうして空を戦争というスリルを味わいながら飛ぶためなのである。
軍としては確かに宣伝効果は高い、が、下手に戦死されても困る扱いの難しい札付きの問題児であった。

「――なんだ? あれは?」

 アントワーヌの視界左下方に、蠢く蛇のような何かが見えたのはそのときである。
 あまりにありえない光景に、アントワーヌは一瞬瞬きをして思わず無意識に自らの目を擦った。

 ――――そこに竜がいた。
 
 長大な胴体、爛々と光る瞳は燃えるように赤く、鋭く尖った五本の巨大な鉤爪はアントワーヌの愛機など紙同然に引き裂くだろう凶悪さを見せつける。
 うねうねと身体をくねらせながら白波を蹴たて、悠々と海面を蛇行するその存在に、アントワーヌは大口を開けて絶句した。
 おとぎ話の世界にしか存在しないはずのそれを目撃したアントワーヌは、思わず自らの正気を疑った。
 心を落ち着け、今度は手加減なしに右頬を抓るが、目に移るその存在は変わらない。つまりこれは夢ではなく現実であった。
「馬鹿な――――竜、だと?」
 まさしくそれは、禍々しき黙示録の獣の姿であり、悪魔サタンの化身ともいわれ、聖ゲオルギウスが倒した悪竜のサイズをほぼ十倍にしたような恐ろしく巨大なものであった。
 ……ありえない。この科学万能の時代に、愛機ロッキードF5Bが時速六百キロを超える速度で空を翔ける現代に、竜など存在してよいはずがない。
 我々はこれから悪の枢軸プロイセン王国より、祖国フランク王国を取り戻さなくてはならないというのに。
 幻想の悪竜に邪魔をされるとは、これは悪夢か?
 困惑のうちになかなか現実を認めようとしないアントワーヌの耳を、突如名状しがたい竜の咆哮が貫いた。
 脳を揺らすあまりの大音響に、アントワーヌの鼓膜が悲鳴をあげる。
 叫びとも振動ともつかぬ、不可思議な、そして何より圧倒的な存在としての格の差を感じさせる竜の雄叫びであった。
 古来より竜の雄叫びには人の心を砕き、恐慌に陥らせるという伝承がある。
 正しくその伝承が嘘ではなかったことを、アントワーヌはその身を持って思い知った。
「ひいいいいいいいいいいっ!」
 数百メートルの絶壁から生身で落下したような、砂浜で高さ数十メートルの津波にまさに飲み込まれようとしているような、人智ではどうしようもない未知への恐怖でアントワーヌは惑乱し赤子のように泣き叫ぶ。
 脂汗を流し顔は蒼ざめ、ブルブルと恐怖で唇は震えて無意識に操縦かんから手を放したことで、コントロールを失ったアントワーヌの愛機は海面へとみるみる高度を下げていった。
 あと何十秒か、正気に戻るのが遅れればアントワーヌは機体ごと海面に叩きつけられ即死していただろう。
 彼に正気を取り戻させたのは、意外にも敵国であるプロイセン王国の主力戦闘機メッサーシュミットbf109/Gから放たれた、もはや聞き慣れたマウザー社製の甲高い20ミリモーターカノンの音であった。
 咄嗟に撃墜される、と身体にしみついたパイロットの本能で機体をひねらせたアントワーヌは、愛機を追い越して一機のメッサーシュミットが竜へと果敢に機銃掃射を行っているのを目撃した。
いい腕だ。機銃の収束率もいい。もし竜という存在がいなければ、今頃アントワーヌは撃墜され、未帰還機の中に名を連ねていたことだろう。
 はたして運がよかったのか悪かったのか。
 おそらくは太陽を背にして、アントワーヌを撃墜する好機をずっと上空から窺っていたに違いなかった。
 その敵が竜を相手に奮闘している。まるで大切な何かを守るかのような、強い決意をもった動きであった。
 アントワーヌが竜の進行方向には、フランク王国南部の一大軍港トゥーロンがあることに気づいたのはそのときである。
 沸々とアントワーヌの胸に熱いものがこみあげてきた。
 不可能に挑戦する過剰な冒険心こそが、アントワーヌという男の生涯治せぬ悪癖であり同時に魅力でもあった。
「ふん、ジャガイモ野郎(プロイセン人)もやるじゃないか」
 あまりにも非現実的な竜、というものを前にして、任務を忘れず遂行しようとするパイロットの職業意識は素晴らしいものだ。正しく賞賛に値する。
 アントワーヌはラダーを蹴ると機体を横滑りさせて、照準器に竜の巨体を捉えた。
 ――――ダダダダダダダッ!
 F5Bの原型となったロッキードPー38は、双胴ということもあり重武装で知られている。
 機首の二十ミリと両翼の十二・七ミリ機銃が曳光弾を伴って、光の槍となって竜へと突き刺さった。
「だめか! 畜生!」
 確実に命中はしているのだが、竜にダメージを与えた様子はない。
 あの竜にダメージを与えるには、機銃のような豆鉄砲ではなく一トン爆弾か二十センチ以上の艦砲射撃が必要なのかもしれなかった。
 しかしこのまま放置すれば、竜はトゥーロン軍港へ到達してしまうだろう。
 たとえ今は敵国の占領下にあろうとも、トゥーロンのあるフランク王国はアントワーヌの生まれ育った大切な故国であった。
 おそらくはあのメッサーシュミットのパイロットも、自分と同じことを考えている。
 すなわち、たとえここで命尽き果てようとも、竜の進路を捻じ曲げようと戦っているのだ。
 ――――少しでも被害の少ない場所へと。
 アントワーヌは深呼吸すると、サルディニア基地管制へ後世に残る歴史的な電文を発した。
『いまや竜は舞い降りたり。我の力至らざるもなお、この身は未来への礎たらん』
 アントワーヌの右で、こちらの意図を察したらしいメッサーシュミットが軽く翼をバンクさせた。
 キャノピーからまだ三十にもならないような、金髪の若い男が白い歯をのぞかせている。
 死ぬにはまだ若すぎる、が、いい漢だ。このような絶望的な状況では特に。
「顔を狙うぞ! たとえ効かなくとも嫌がらせにはなる!」
「左は任せた。俺は右から侵入する」
「本日限り! 星の王子(サン=テグジュベリ)様最初で最後の英雄譚だ。本にして出版できないのが残念だがなっ!」
 スロットルを全開にして竜の鼻先を嫌がらせのようにフライパスすると、愛機の後ろを白い幅二メートルほどの光線が空へと吸い込まれていくのが見えた。
「竜の息吹(ブレス)か。本当にこの目で見れる日がくるとはな」
 直撃すれば撃墜どころか塵一つこの世に存在することを許されないであろう人外の魔弾。
 その恐怖が逆にアントワーヌの冒険心をかきたてた。
「人間をなめるなよ? このトカゲの親玉が!」
 聖ゲオルギウスもまた悪竜を退治したのだ。勇者の力は決して竜に劣るものではない。問題は、その勇者が自分ではないだろうということだった。古来より、ただの庶民が竜を討伐したという報告はない。
「…………残念だな。次は勇者として生まれてこの続きを物語にしたいものだ」
 愛機の操縦かんを握り、アントワーヌは光学式の照準器に映る竜へ向かって猛然と立ち向かっていった。
 それはあたかも、英雄譚の英雄であるかのごとく荒々しく気高く、そして健気な姿であった。


 ――その後の彼らの奮闘を物語る資料は存在しない。
 ただ人類と竜が初めて本格的な交戦を開始したこの事件を、歴史は『ルヴァン島遭遇戦』と記録している。
 そしてプロイセン王国パイロット、ホルスト=リッパートと、フランク王国義勇軍 パイロットにして世界的作家、アントワーヌ・ド・サン=テグジュベリは、人類初の対竜戦死者として歴史にその名を残すこととなったのであった。

 ――――これは人類が竜によって滅亡の危機に晒された、ほんの少し地球と異なる異世界の物語である。

しおり