紫の君は突然に
それから約数十分後、葵と爽と弾七は銀座のある建物の前に立っていた。
「こ、ここは……?」
「歌舞伎座だよ。なんだよ、知らないのか?」
「それは知っているけど、何でまたここに連れて来たの?」
「ここにいるからだよ、助っ人候補が」
そう言って弾七は歌舞伎座の建物を指し示す。葵と爽は驚く。
「ええっ⁉」
「ほお……?」
「じゃあ入ろうぜ。……ああ、そっちじゃない、関係者入り口はこっちだ」
「関係者……?」
「葵様とにかく参りましょう」
爽に促されて、葵は戸惑いながら弾七に続いて関係者専用の入り口へと向かった。
「ほ、本当に中に入れた……」
「俺様くらいになれば顔パスよ」
弾七は両手を大袈裟に広げ、誇らしげに胸を張る。爽が冷静に問う。
「それで、助っ人というのは?」
「さっき連絡をとっておいた。なかなか忙しい奴だが、公演の合間なら時間が取れると言ってくれたぜ。えっと……ああ、この楽屋だ」
弾七が楽屋のドアをノックする。
「橙谷だ、入っていいかい?」
「……どうぞ」
部屋の中から艶のある色っぽい声が聴こえてくる。
「邪魔するぜ」
弾七が部屋に入り、葵たちが続く。
「急に時間を取ってもらって悪かったな」
「橙谷先生とアタシの仲さね、つまらないことをお気にしなさんな」
そこにはまるで浮世絵の中から飛び出してきたかのような美しくきらびやかな花魁姿の人物が畳の上に座っていた。その人物は鏡越しに目が合った葵の存在に気が付くと、ゆっくりと振り返った。
「あらあら、これはこれは、珍しいお客様じゃありませんか。上様、お目に掛かれて大変光栄でございます」
「あ、は、はい、こちらこそ……」
花魁姿の人物は畳に両手を付き、葵に向かって恭しく礼をした。
「ど、どうぞ頭を上げて下さい」
「……それではお言葉に甘えさせて頂きます」
花魁姿の人物は顔を上げて、葵と目を合わせる。
「き、綺麗……」
葵は思わず呟いた。
「そのようなお言葉を賜るとは……お世辞でも嬉しく存じます」
「お、お世辞なんかじゃありません! 本当にお綺麗です! 憧れちゃいます!」
「あらまあ、お上手でいらっしゃいますこと」
花魁は右手を口に添える。
「い、いや本当にそう思っていますって!」
「ふふっ、冗談です」
花魁は弾七に目をやる。
「橙谷先生もお人が悪いこと……。まさか上様をお連れになるなんて……こちらにも心の準備というものが必要ですわ」
「悪かったよ、今日は頼みがあって来たんだ」
「頼み?」
「ああ、お前さんにしか頼めねえことなんだ」
「ええ、アタシにしか?」
「ほら、アンタからも頼みなよ」
弾七に促され、葵は未だに戸惑いながらもバッと頭を下げた。
「お、お願いします! あなたの力を貸して下さい!」
「あらあら、上様……どうぞ面をお上げになって下さいな」
「あなたが必要なんです!」
葵は頭を上げて尚も頼み込む。
「あなたが欲しいんです!」
「葵様、言葉が抜けています! それでは意味が変わってしまいます!」
側に立っていた爽が慌てて止めに入る。花魁は目を丸くしながら答える。
「よく分かりませんが、何やら大事なお話の様でございますね……衣装を着たままでは失礼ですわね。すぐに着替えて参りますのでちょっと失礼させて頂きます。どうぞお掛けになってお待ち下さい」
「は、はあ……?」
花魁は立ち上がって、楽屋の内側のドアを開けてそこに入っていった。
「まあ、座って待とうや」
「う、うん……」
葵は畳の上に正座した。
「……お待たせを致しました」
数分後、ドアの向こうから先程と同様に艶のある色っぽい声が聴こえてきた。ただ、その声には若干の凛々しさも感じられた。葵はそのことをやや不思議に思いながらも返事をした。
「あ、いえ……」
「失礼致します」
「えっ……⁉」
楽屋にゆっくりと入ってきて正座をした人物を見て葵は驚いた。声は先程までいた花魁と同じなのだが、姿が男性なのである。
「お、男の人……⁉」
男は改めて両手を畳に付いて、礼をした。そして、頭を上げてこう名乗った。
「改めまして……本日はお目に掛かることが出来まして大変光栄でございます。アタシはこの歌舞伎座で役者をやっております、涼紫獅源(すずむらさきしげん)と申します。以後、お見知り置き下されば、この上もない喜びです」
少し長い紫色の髪をした男は品のある笑顔を葵に向けた。
「え、ええ……?」
葵はやや間抜けな顔でそれに応えた。