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 二組いた他の客がいなくなってしまい、麦と二人きりになる。静かな音楽が流れる中、ノートの上を滑る鉛筆の音が微かに響く。

「……あ、そうだ麦ちゃん。珠雨くんのライブ動画見てる?」
「勿論! なんかちょっとメイクしてましたよねー」
「そうなの。可愛いよね。……ね、珠雨くんて禅さんとくっついちゃったのかな」
「あー、どうなんでしょう。プライベートには首突っ込まないんで聞いてはないけど、気になるなら本人に聞いてみては?」
「うーん……ね、麦ちゃんは大学生でしょ? ここの問題わかるかなあ」
「え、どれどれ」

 環奈が開いているテキストを覗き込み、あー、とか呟きながら問題を考えている。ちょっとしてから置かれていた鉛筆を手に取り、余白に書き始める。

「麦ちゃんて字が物凄く綺麗だね」
「実はそうなんです。環奈さんはシャーペンじゃなく鉛筆派なんですね……はい、この問題はこういう風に考えたらいいかと」
 にこりと笑って立ち去ろうとする。

「あ、麦ちゃん……就職活動とかしてるの?」
「ですねー、今三年なのでぼちぼち。でも厳しいしつらいです。何になりたいんだかも、イマイチわかってないし」
「ふぅん……やだなあ。大変そう」

 会話が途切れる。話し掛けられて立ち止まっていた麦は、再度環奈から離れようとするが、何か思い出したように足を止めた。

「あ、そうそう環奈さん。珠雨さんの日本縦断路上ライブ、ちょびっと今朝の情報番組のワンコーナーで流れてましたよ。残念ながら録画はしてませんが」
「――え、嘘っ! なんで……もっと早く知りたかった……」
「ごめんなさい。俺もたまたま見ただけなんで。禅一さんは知ってるのかなあ」
「見たかった……」
 あからさまにがっかりしている環奈に、麦は苦笑してスマートフォンを弄り始める。

「あっSNSに動画上がってますね……ほら。環奈さん見て」
 環奈に歩み寄り、画面を見せてくれた麦は、ちょっとパーソナルスペースに入り込み過ぎたことに気づいたようで少し距離を取り、テーブルに自分のスマートフォンを置く。

「え、ありがと」
 一通り動画を見終えると、環奈はそれを麦に返しながら呟く。

「ねえねえ、麦ちゃんは麦なの?」
「え……? どういう意味で言ってます?」
「本名の話。なんかの略なの?」
「ああなんだ……俺の名前の話。ただの麦です。下の名前。苗字は日本で一番多い佐藤です」
「えっ、麦ちゃんて佐藤さんなの? あたしも佐藤さんなんだけど。すごーい!」
「……あ、そうなんですね。まあ、日本で一番多いですからね……」

 微妙な空気が流れて二人して笑っていたら、入口の扉が開いて、禅一が帰ってきた。

「環奈さんいらっしゃい、そして麦ちゃんただいま。ごめん病院混んでてさ……なんだか楽しそうだね」
「禅さん! 麦ちゃんとあたし、同じ佐藤さんなんだって」
「え、そうなんだ。偶然だね。……あれ、宿題やってたの? そろそろ仕上げないとまずい時期だね……」
「お店でやっちゃってごめんなさい。うちでやるより捗るんだもん」
「いや、それは別にいいけどさ。夏休みとは言っても、あまり高校生の女の子が遅い時間までいるもんじゃないよ。もう七時近くなる」

 禅一が沢山針のついた腕時計を見ながらたしなめる。

「ごめんなさい……」
「怒ってるわけじゃないよ。麦ちゃんもそろそろ上がっていいよ。ついでに家の近くまで送ってあげたら」
「えっ」
 禅一の提案に麦がびっくりしている。

「無理にとは言わないけど。んじゃ僕が送ろうか……徒歩だけど」
「いや、あの、俺行きます。車です。あ、環奈さんが嫌じゃなければ! ……禅一さんの方がいいですか?」

 環奈の顔を伺っている麦は、恐る恐るという感じだった。その様子がなんだか面白かったのか、環奈が笑う。

「麦ちゃん、送ってくれるの? 車だって、やったぁ」

 日照時間が伸びていたので外はまだ明るかったが、時計だけを見れば送ってやっても良い時間だった。
 環奈が何故か嬉しそうにしていたし、麦も送りたそうな感じだったから、結果的には良かったのかもしれない。

「麦ちゃん、くれぐれも気をつけて。送り狼にならないように」
 二人が出ていく間際、禅一が麦だけに聞こえる声で指摘した。
「しませんよっ。俺は好青年ですから!」
 と返した麦は、少し動揺していた。

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