(4)
明日の入院に控え、氷彩はスーツケースに入れる荷物をチェックしていた。
海老沢と籍は入れたものの、半ば勢いでそうしたのもあって、お互いの住まいをどうするかについて決めていない。とりあえず退院したらゆっくり考えようということになっていた。
長年住んだ氷彩の自宅を売り払い、海老沢の家に入るのも良いが、思い出が詰まっているのもあってなかなか踏ん切りがつかない。死に物狂いで働いて、ほぼ女手一つで築いた財産だ。
「珠雨の背の跡」
リビングの柱につけた、珠雨の成長の記録を指でなぞる。
「これは浅見がつけてくれた跡」
小学校に上がった時につけた印だ。
過去を振り返り、戻れるわけもないのに時間を巻き戻したくなる。
「ひぃちゃん、もう寝た方がいいんじゃないか。用意が終わってないなら、私がやるから」
先ほど大学から帰ってきたばかりの海老沢は、心配そうに氷彩の顔を覗き込んだ。
「エビちゃんは優しいね。大丈夫、もう寝るよ。昨日もありがと。あたしの為に嘘ついてくれて」
「……心配かけたくなかったんだろう」
「まあ、おなか切るのは合ってるし、虫垂炎と大差ないよね」
「ざっくりしてるね、ひぃちゃんは。子宮頚がんと虫垂炎は全然違うよ」
海老沢はため息をついて、リビングのソファに座る。
「一番最初が手術の説明と同意書なんて、本当にごめんなさい。でも珠雨には聞かせたくなかったから」
「私の方こそ……そういう事情があるのを知ってて、それに付け入ったりして申し訳ない」
「感謝してるのよ。そんな言い方しないで。それにそのことだけで、あたしがエビちゃんと結婚までするわけないじゃない」
「……本当に、申し訳ない」
「何に対する謝罪?」
「浅見くんを紹介しなきゃ良かったって、今更ながらに思うんだ。あの時私は結婚してただろ。君に心奪われてるなんて認めるわけにはいかなかったから……遠ざける為に、私の勝手でそうしたんだよ。彼が性分化疾患だって、知ってたのに」
禅一を氷彩に引き合わせた自分自身に後悔しているのだろう。そして昨日の夜は禅一を欺いている。良心の呵責があったとしても仕方ない。
「ふぅん……でもそれ、エビちゃんが言っちゃ駄目な科白。浅見のそれって個性の一つかなって思うし……恋に落ちるかどうかは、エビちゃんの知るところじゃないでしょ」
「……じゃあ……ひぃちゃんはどうして私を選んでくれたんだい?」
「えー? うふふ、あたし優しい男が大好き。エビちゃんは、あたしを包んでくれるの。浅見も優しかったけど、今はもういいの」
「そう……」
海老沢はどこか悲しそうに氷彩を見たが、それ以上何も言わなかった。
「ねえエビちゃん……あたしやっぱり、この家を出たくないなあ。ここに一緒に住んでくれる?」
海老沢は白髪の目立つ頭で小さく頷いた。
「君と一緒なら、どこでも」
海老沢に寄り掛かりながら、氷彩が眠そうに呟く。
「あたしがもし明日死んだら、ごめんね」
「死なないよ、私もよく知ってる上手な先生だから。安心して入院したらいい。それに年齢的に言って、私の方が先に逝く」
「それじゃあ駄目よ。あたしが珠雨のパパ事故で亡くしたの知ってるでしょ? あの時気が狂いそうだったの、今でも憶えてるから……」
自分で言って本当に記憶が甦ってきたようで、氷彩の瞳から涙がこぼれ落ちた。
相手を変えてもけして忘れることなど出来ない。心変わりして別れたわけではないからだ。だから残された珠雨は、氷彩にとってかけがえのない、この世で一番大切な存在だった。
「あたしより先に死んだりしないで。約束して」
「約束は出来ないけど、努力しようか」
そこはとりあえず約束すると言っておけば良いのに。氷彩はそう思ったが、海老沢は出来ない約束はしない男だった。
とても眠くなってきたので、明日に備え眠ることにした。