(2)
後悔なんてするだろうか。
越えていない線なので、わからない。
「僕と珠雨が結婚出来ないのは知ってる? 一度親子になったことがあるから、無理なんだ。精神論ではなく、法的な意味で」
「そこまで考えたこと、なかったけど……そうなの?」
「こんなことで嘘つかないでしょ」
「禅一さんは先のことまで考えて断ってるんですか? でも、別にそれは。気にしないし」
気にしないとは言ったが、事実ではない。法に否定された関係であることがなんだかショックだった。けれど世間には籍を入れずに内縁関係を選ぶ人もいるし、黙っていれば周囲にはどんな関係かなんてわかりようがない。
「あとね、もし珠雨が将来的に子供が欲しいと思っても、僕は願いを叶えることが出来ない」
襖の外から店員の声がして、料理を運んできた。会話が途切れる。
コバト座で禅一が二度目に言った「大好き」と、唇の感触が残っている。
あんなふうに甘い行動を取った男は、それとは裏腹にこんな断り文句を用意している。
(意外と理屈っぽいんだよなぁ……この人)
ずるいと思った。
難しいこと考えないで、本能で動いたら良いのに。
そうしたらきっと上手くいく。
料理が並べられて再び襖が閉められると、喧騒が遠退いた。
「禅一さん、外堀を埋めるのはやめてください」
「――え」
「大体、さっきキスしたのはなんでですか? エロ過ぎですよ、あんなの。禅一さん今ホルモンバランスの関係でサカってませんか?」
「え、いや……なんで知ってんの」
「目の前に食べられる獲物が転がってんのに、なんで我慢してんだか」
「珠雨……ちょっと」
禅一は明らかに狼狽えて、口元を押さえている。顔や耳が赤くなったのは多分アルコールのせいだけではない。
「禅一さん、好きです」
「……珠雨」
「大好きなんです。どうしたらわかってくれますか」
「だけど僕は……」
「前に烈さんに、俺と付き合ってるのかと聞いたのは、気になったからでしょ? 環奈と友達から始めるのかって聞いたのも、俺がどうするのか知りたかったからじゃないんですか? 禅一さんは俺のこと子供だと思ってるって言うけど、それは今も変わらないんですか? 本当は違うんじゃないんですか」
子供相手に、あんな切ないキスはしない。そう思いたかった。
禅一はしばらく沈黙してから、ごそごそとポケットから電子タバコを取り出した。タール0なので副流煙など問題はないが、多分嗜好品に逃げたのだ。
けれどあえてそれは止めずに見ていた。
少しでも心が落ち着くのであれば、小休止したって良い。ただ禅一が黙り込む時は、何かしら言いくるめようとしている時だ。
「わかった……それについては認めるよ」
やがて禅一がぽつりと呟いた。
「僕だって気づいてはいるんだ。色々さ……珠雨に確認して、結果にほっとしてる。だけど、それでも今の関係は壊したくないんだ」
「禅一さんを頑なにしてる原因は、なんですか?」
顔を覗き込むように首を傾げてみせるが、そっぽを向いている禅一は苦虫を潰したような顔で電子タバコをくわえている。シナモンフレーバーの匂いが漂っていた。
「僕はさ……現実の色恋沙汰は不得手だって、言ったっけ」
「あー……そうでしたね。そんなこと言ってた」
「僕は一度氷彩さんを傷つけて、失敗してる。珠雨とそうなったら、いつかはまたぐだぐだになるんだ。だけど、そんなことで珠雨を失いたくない。嫌なんだそういうの」
珠雨を納得させる為に弱音を吐いているわけではなく、これが禅一の本心なのではないだろうか。
相手を傷つけたくなくて、自分も傷つきたくなくて、臆病になっているのだ。
「え、なんでぐだぐだ? 俺と上手くやってく未来は存在しないんですか?」
「珠雨というか、誰とも上手く行く気がしない」
「……随分自信がないんだ、禅一さんは。でも母はしたたかですよ。傷つけたなんて思わなくていいです。あの人、俺の為に禅一さんキープしてたそうですから」
言わない方が良かったのだろうが、氷彩が障害となって誰とも恋愛しないなんて馬鹿げていた。禅一は胡乱な表情になったが、やがて自嘲気味に笑った。
「ああそう……やっぱり。手のひらで踊らされてる感、当たってたなあ」
「気づいてたんですか。怒らないんですか?」
禅一は声を荒げて怒ったりしなかった。
怒りはしなかったが、手元の果実酒を最後まで一気に飲み干すと、タブレットでまた何か注文している。
「やけ酒とかやめて……」
「断じてやけ酒ではないよ。飲みたいだけ」
くだらないやり取りのあと、二人とも食事に手をつけていなかったのに気づいて、しばらく言葉少なに黙々と食べ始めた。
「そう言えば珠雨、一つ疑問なんだけど……僕が『あざみ』って気づいたから好きなの?」
「純粋に禅一さんに好きって言ったことありますよ。忘れました? がっかりだなー」
「え、ごめん……いつ言われたっけ」
「敬語やめるやめないの時」
「ああ、あれそういう意味で言ってたんだ……ほんとごめん」
ごめんを繰り返す禅一は、困ったようにもそもそ食べている。
「じゃあ、珠雨。僕たちは今後どうしたらいいと思う?」
「え、それ俺に決めさせるんですか?」
「いや、だって僕の言い分全然聞かないじゃない」
「付き合ってください。親子じゃなくて、カレカノで。決定」
「珠雨の物言いって、たまにちょっとドライだよね……」
襖の外から大騒ぎしている酔っ払いの声が聞こえてきた。