(6)
昨日に引き続きヒトエを閉めてしまうのは気が引けたが、案内役の麦を伴って三人で駅前に向かう。
そうこうしている間に演奏が終わってしまうことを恐れて、麦が車を出してくれた。近くのコインパーキングに駐車し、どこでやっているのだろうと視線を彷徨わせる。
音源が雨音に混じっていた。
「あ、いましたよ禅一さん、あそこ」
指が示した方向に、珠雨がいた。
雨のかからない屋根の下で小さな折り畳み式の椅子に座り、重たそうな蛇腹状の楽器を器用に動かしている。悪魔が発明した楽器と呼ばれるバンドネオンは、あまり流通していないはずだったが、どこで入手したのだろうか。
もう一人、見たことのない男が珠雨の傍に立ってバイオリンを奏でている。顎に少し髭を生やした烈は、禅一よりも年上に見えた。髭のせいで老けて見える可能性もあったが、良くわからない。素性の知れない謎の人物は珠雨の音と良く絡み合う音色を作り出していた。
美しい、タンゴだ。
立ち止まり、聴き入る人。目で追いながらも素通りする人。スマートフォンのカメラを向け撮影する人。反応はさまざまだが珠雨は気にせずに、演奏することだけに専念している。
環奈もその音色をじっと聴いていた。
珠雨がストリートミュージシャンのようなことをやっているなんて、禅一はまるで知らなかった。聞かなかったというのもあるし、珠雨も言わなかった。
何曲か弾き通し、ふと音が止まった。
終わったのかと思いきや、烈が近くに置いてあった箱から小さな小さなバンドネオンを取り出し、珠雨の持っている重そうなそれと交換した。
「筐体が小さいと音も変わるのかな」
烈も小さいバイオリンに持ち替えて、ミニチュア演奏会が始まった。
可愛い音だ。
同じ曲でもコミカルな印象に変わる。観客も禅一達が到着した時よりだいぶ増えていた。
ちまちまと演奏する姿は見ていて楽しく、聴いても楽しい。
更に何曲か演奏し、やがて本当に終わりを告げたようだ。あちこちから拍手が起きたが、珠雨は少しばつが悪そうにお辞儀をして終わりだった。バイオリンの男も楽器をすべて仕舞い、珠雨の肩をぽんと叩いたかと思ったら、傍で撮影していた背の高い男と一緒にすたすた帰っていってしまう。どういう関係性なんだかまったくわからない。
「上手でしょ、珠雨さん。シフト被らないから仲良くなれる機会あんまないけど、たまたま聴いてから一方的にファンなんですよ」
麦が得意げに言った。
「……さっきの男性は結局なに?」
「お役に立てず申し訳ないですけど、どういう関係だかは知りません。いつも一緒に演奏してるということしか……あれ? 環奈さんが」
どうしたのかと環奈を探した禅一は、ふと何か心に引っ掛かった。
(なんだっけ……ん?)
すっかり撤収態勢に入っていた珠雨の目の前に、環奈が立っていた。
「あ……えっと確か」
珠雨も相手に見覚えがあるのに気づいたようだった。
「あの……あたし、ヒトエで会ったことあるんですけど、覚えてますか?」
「――勿論。よく来てくれますよね」
相手が何を伝えようとしているのか、珠雨はよくわからないようで、少しの困惑が浮かんでいる。
「唐突でごめんなさい。どうしても今、伝えたくなって。あたしとお友達からでもいいので……仲良くなって貰えませんか?」
「お友達からでもって?」
小さな声で言った環奈の言い回しに、珠雨は困惑を更に深める。そして禅一は己の思い違いに気づいた。
「あー……そっちかぁ……」
額に手を当てて、なんだかとんでもない勘違いをしていた自分にがっかりしている。麦は意味を解せず置いてきぼりを食らったような顔だ。
「え、何が? 状況飲み込めてないの、俺だけですか?」
雨足が強くなってきた。