神は乗り越えられない試練を与えることない。
夜なべして作ったレポートを提出した俺は、その言葉をひしひしと噛み締めた。
「ういーす」
「あ、先輩やっほー」
部室へ向かうと、神奈月遙がいた。
なにやら分厚い本を読んでいる。やけに楽しそうだ。
「何してんだ?」
「明日の体育のテストなんですよ」
神奈月遙が見せた表紙には大きく『週刊プロレス地獄変』のロゴ。おおよそ女子高校生が読むものでは無い。
「なんでプロレス?」
「テストでやる技が教科書だと分からなくて……、探してみたらこれが出てきたんです!」
危機察知とでも言うのだろうか。
俺はこのとき神奈月遙がスパッツを履いていることに気づいた。
「ちなみに技は?」
「肘十時固めです!」
「テストっていつだっけ?」
「明日ですよ!」
「……ふーん、じゃあ頑張って」
俺は素早く部室を出ようとした。しかし回り込まれてしまった。
神奈月遙は俺の右腕に手を回すと、舐めまわすように見ながら言った。
「先輩の腕って、折り紙みたいでス・テ・キ♡」
「折るな折るな!」
「もしくは筆♡」
「物騒なこと言うんじゃねぇ!」
作家生命潰えるわ!
全力で振りほどこうとするが、負けじと神奈月遙も身体を密着させてきた。
やめろ!童貞には刺激が強すぎる!
カーディガンを犠牲にようやく脱出した。
「うわっ、器用なことしますね」
「はぁはぁ…。これ俺がやる意味あるのか?別に友達とかいるだろ…」
「うーん、できれば先輩がいいんですよねー」
神奈月遙はさも意味ありげに腕組みをした。形のいい胸が腕に乗り、より強調される。
「なんで」
「気分」
「帰れ!」
「待って待って、冗談ですよ!先輩、暴力系ヒロインを出した時に肘十時固めしてたじゃないですか!あの時主人公『やわらか!』『いい匂いがする!』ってモノローグがあったんですよ」
「それがどうした」
「おかしくないですか?絶対痛くてそんな余裕ないでしょ」
確かにそうだ。
合気道にしているから分かるが関節技は一度決まると想像を絶する痛みに襲われる。さらにタチが悪いことに自力で逃げられない。
ここで再び危機察知。すかさず神奈月遙に視線を向ける。ああやっぱりだ、何かを企んでる意地の悪い顔をしている。
「……そうかもしれないな」
「ですよね!だからシチュ検証するべきだと思うんです!」
俺は敢えてその企みに乗ることにした。
「じゃあ横になってください」
「おう」
俺が床に寝転ぶと神奈月遙は左横にしゃがんだ。
ククク…
初心者の神奈月遙は失念している。
関節技というのは経験者じゃないとそうそう上手くは決まらないのだ。
上手くいかずにまごついている神奈月遙をどう煽ってやろうか。ことある事にクドクド弄り散らしやがって…、今回くらいは立場逆転と行かせてもらおうw
神奈月遙は、俺の左腕を掴んだ。すぐさま両足で腕を極める体勢に入る。
ぷにゅん
神奈月遙が着ているのは柔道着ではなく、普通の制服。しかも技をかけるためにブレザーを脱いでいる。対する俺も半袖だ。
太ももの柔らかさと体温がダイレクトで伝わってくる。
つまりどうなるかと言うと。
やわらか!?
いい匂いがする!?
理性では御せない暴走。
必死に頭でコントロールしようとすればするほど俺の五感は今の感触を堪能しようと躍起になっていた。
うおおお落ち着け!呑まれてはいかん!呑まれては……うわっ腕が言いようのない多幸感に呑まれて………違う!無だ!何も考えるな!何もない白い空間を……わぁ白いマシュマロのような感触が上腕全体に……ぬ゛ああああ!!!
理性と感性が一進一退の攻防を続けるなか、その時はきた。
「じゃあ先輩行きますね!えいっ!!」
ブツン…………ブチブチブチブチ!!!!!
突如、関節が行き場のない痛みを訴える。骨が軋み、軟骨が削り落ちる音がした。
「ぎゃあああああああ!なんだこの痛み…初心者の出せる代物じゃねぇ!!」
「言ってませんでしたね…実は私、柔道をやってたことがありまして…」
「おおお、おいまさか…」
神奈月遙はニッコリして言った。
「加減が分からないので、練習しておきたかったんです♪」
「そんなバーサーカーみたいな理由あってたまるか!」
「まだ余裕がありそうですね、それっw」
「ぐわぁあぁぁあああぁあぁぁあぁぁあぁあぁぁ!!!」
神よ仏よ獣王よ!何故俺に試練を与えるのですか!俺が何をしたって言うんだ!
「やっぱりこのシチュ、痛い以外なにも思いつかないですよねー」
そうだった!シチュ検証だった!
神様すいません!俺が犯人でした!でもせめて慈悲をください!!
しかし無情。腕の痛みは加速する。
ミチミチミチッ…!
「あ゛っははははははははははははは!!」
「いきなり笑い始めてとうとう気でも狂いましたか?」
ちげーよ!ホントにやばいとき人は笑うんだよ!!痛みの最終通告!!折れる一歩手前!!
「折れる!!折れちゃううう!!」
「どーしよっかなー」
俺は力を振り絞って神奈月遙を見た。痛みさえなければ相当の絶景なんだろうが、今そんな場合じゃねぇ!
「マジでお願いしますっ!」
「うわ…無駄にいい顔……。はあ、抵抗もしないなんて女々しいですね」
――いいのか?
瞬間、俺の中にいた獣の王が告げた。
……本当にこれでいいのか?
我が身可愛さに、女々しいとまで言われ………
男が、その誇りを失ってまで、許しを乞う必要があるのか?
「いいですよ解いてあげ――」
「…全力で来い」
(ありがとう獣王、俺の心の迷いは晴れました!)
「はい?」
「全力(ギガブレイク)で来いって言っているんだ神奈月」
俺は全筋力を左腕に集中、一気に解き放った。
「わわっ……や、やるじゃないですか!えっ、ちょ、あわわわわわわっ」
神奈月遙も力を入れ始めたが、俺もそれ以上の力で対抗する。
肘十時固めから抜け出す唯一の方法。強引に手繰り寄せる、それだけだ。
「ぬわああああああっ!!」
今度は神奈月遙が必死の形相で叫び始めた。
だがもう遅い。ここまで来ればもう俺の勝ち――
むにゅう
突然、素晴らしい感触が腕を包み込む。
この感覚…知っている、太ももだ!神奈月遙が太ももにめっちゃ力を入れている!なにこの抱擁力!?
結果、驚いた俺の手は仰け反ってしまった。
もにゅん
次は手のひらに柔らかい感触。手に馴染むちょうどいい大きさだ。弾力も素晴らしい、打てば響くというのだろうか、揉めば程よい反発が返ってきそうな……、おいこれ……これって!?
恐る恐る視線を向けた。俺の左手は神奈月遙の胸に実る果実をガッツリ掴んでいた。
おっぱいじゃねーか!!!!
「うわあああ!!!」
「ひゃあああああああああああああああああああ!!!!!」
お互い高速で距離を取った。
試合中のプロレスみたいだって?やかましいわ!
「ごめん!まじでごめん!!」
俺は咄嗟に謝った。
疲れと緊張で心臓がおかしなことになってる。息が上手くできない。
「い、いえ私もお粗末なものを…」
弄ってこないってことはアイツも似た状況か。両手で胸を隠し、肩で息をしている。
顔も首まで真っ赤で、表情も、怒ってるのか照れてるのか、ここからじゃよく分からない。
「に、にしても先輩……やれば出来るじゃないですか!なんですかあの技?」
「いやあれは使っていいモンじゃねえから、事故ると掛け手受け手どっちも危険だ…し……」
手に蘇るあの感触。
はい墓穴掘りました。
「………じゃあ知ってて使ったんですね?」
「えっ」
「ひょっとして、狙ってやりました?」
ずんずんと神奈月遙は近づいてきた。顔が朱に染っていることを除けば、いつもの弄りモードだ。
「いや違っ」
「へーんたい!」
どーん
強く突き飛ばされた俺は無残に尻もちを着いた。起き上がるまもなく神奈月遙が馬乗りしてくる。
「おいまさか…!」
「今度はあんなことさせませんからね」
神奈月遙は俺の右腕を持つとすぐさま両足で挟み込んだ。しかも腕が曲がらないように固定もしている。
「や、やめっ」
「お仕置きです💢」
ぎゅうううう
「ぎゃあああああああああああああああああああ!!!!!」
その日、美術室からは絶え間なく男の悲鳴がこだましていたという。