マルデ攻城戦 9
やべっ、寝てた?
いやそんなわけない。けどずいぶん長い時間眠っていた気がする。
早く起きよう。腹減った。
だけど……妙だ。ベッドから起きあがろうにも、身体が全然動いてくれない。まるで全身が石に変わってしまったみたいで。
それに、背中がじりじり熱くなってきた。そっか、外で日を浴びてたんだっけ? ……いや、違う。俺はそんな場所に今……あれ?
ここはどこなんだ!? 鼻の周りには泥と血の臭いがこびりついているし、それにだんだん息ができなくなってきた。胸の奥にまで泥が押し寄せてきているみたいだ。
ー雨宿りしようとしてたんだっけ? そしたら上からたくさんの黒い虫が襲いかかってきて……
しばらくそのままじっとしていると、今度はぬるい風が吹いてきた。ただ今の俺の鼻には、その風の匂いすら血生臭く感じられる。
その風が突然嵐みたいにひゅう、と去ったその跡には……
真っ黒な草原が視界一面に茂っていた。
ーそうだ、ようやく思い出した。そういえば俺……
もう一度身体を起こそうとしたが、やっぱり地面に縫いつけられたみたいに指一本も動かすことができない。
ーほらみろ、やっぱりこれは罠だったじゃねえか。
辛うじて目だけは動かせられる。周りには俺同様に針山になった連中だらけだ。みんな動く気配すらない。こりゃ一人残らず死んでるな。まあ当たり前か。あんな大雨みたいに降ってきた矢から逃れられるわけなかったんだ。
おそらく俺の背中……いや、全身に矢は刺さっているんだろうな。
ああ、そうだった。痛みって、『痛い』を通り越すと焼けつくような熱さになるんだっけな。
真っ赤に焼けた鉄の串を刺されたみたいな猛烈な熱さが、背中を覆っていた。だが、そのうちだんだんと意識が泥と同じになって……
ーおれ、ここでしぬのかな……ああ、さいごのさいごでばかやっちゃったな、へんにとびこんじゃったからいっぱいやをうけちゃった。
ぬるい感覚が身体を覆っていくのがよく分かる。気持ちいい、けど気持ち悪い不思議な気持ち。
それは俺の意識すらとろりと溶かしていくみたいだった。なにも考えることができないくらいに。
おやかたごめん、いきできない。おれ、もうだめ。けどもっとでっかいにくくいたかっ……
ーいけません。
その時だった、倒れている俺の目の前に、声とともに光り輝くなにかが。
優しくも厳しい、だけどどっかで聞いたことのあるような懐かしささえ感じる……
そう、それは生まれて初めて聞いた女性の声。
だれ?
ーこんなところで倒れてしまってはいけません。
なんでだよ……おれ、もうつかれちゃったよ、からだうごかない。
ーだめです、あなたにはこれからまだまだやるべきことがあるのです。さあ、立ち上がりなさい。
やるべき、こと……?
ーそうです、あなたはわたしの意思を継ぐ大切な子供なのですから。
おまえ、なんなんだよ……? なにいってるんだかぜんぜんわかんねえ。
ーさあ、立ち上がるのです。私に強い命を見せて!
耳……いや、頭の中に響く女性の強くて優しい声。なぜだろう、この声を聞くと、ここであきらめちゃダメだ、って奮い立たされていくようだ。
「うっせえな……おきるよ、おきりゃいいんだろ!」激しい痛みをこらえ、ゆっくりと……。
沈むぬかるみの中をしっかりと両足で踏ん張り、泥だらけの俺はようやく立ち上がれた……? 起き上がれた! あれほど身動き一つ取ることができなかった身体を、起こすことができた!
だがそれ以上はもう無理。張り詰めた意識がそこで尽きかけようとしたとき、ふわりと、目の前にいた女が俺の身体を支えてくれた。
それは、生まれてから今まで感じたことのない、どんなものにも例えることのできない、優しい風のような両腕。俺はそのままぐいっと、彼女に強く抱きしめられた。
現実の俺がこう言ってしまうのも変だけど、ジールの身体よりも柔らかく、そして今まで嗅いだこともないような甘い花の香りがした。
ーよく立ち上がってくれました。それでこそ……。
「それでこそ……?」俺はゆっくりと首を上げて、俺は彼女の顔を見た。
白く輝くような薄いベールの向こう側に見えた、その顔。長い鼻面に黒くとがった鼻。頭の上には三角の耳。ああ、俺と同じ顔をしている。
そして……眉間から両目の間にかけて、深く刻まれた十字傷。
すごく痛々しそうな傷跡……なんでこんなきれいな顔なのに、誰に斬られたんだ。ひどすぎる。
ーよく立ち上がってくれました。それでこそ私の子です。
え、俺が……あんたの子供⁉
「なんなんだよ、こどもって。わけのわからないこというんじゃねえよ、いいからはなせってば!」
いつの間にか背中に受けていた矢の痛みは消えていた。
ーあなたの命の力と優しさ。ずっと私は求め、探し続けていました……
女は俺の身体を地面におろした。
なんなんだこいつ、いきなり俺を抱きしめるわ、意味不明なことを言ってくるわで。
けど、周りにいたやつらと違って、この顔に傷のある女には、不思議と警戒心は沸いてこなかった。
それどころか、なにか……自分の心の奥底に、懐かしさと、それでいて感じたこともないような暖かさがにじみ出てくるようにも思えた。親方という存在しか知らなかった自分にとって、初めて感じた柔らかく優しい声、そして抱きしめられたぬくもり。
「かあ……さん?」ふと、俺の口からそんな言葉が漏れ出た。
彼女は静かな笑みを浮かべ、こくりとうなづいた。
ーええ、何百年と続く私たちの意志を受け継ぐ子。それがあなたです。
「おれをどうしたいんだ?」
俺は問いかけた。なぜ死にかけの俺を救ったのか、なぜ俺のことを子だなんていうのか。それに……
意志って、いったい何なんだと。
そんなことを思っていると、彼女はひざまずき、泥まみれの俺の頬に両手をあてがった。
細く長い、すらりとした手の指。ああ、これが女性の指なんだなって。
ーあと何年かしたら、あなたの元に様々な出会いと別れがあるでしょう。みんな、あなたを慕ってくる仲間たちです。その中であなたは……
彼女は俺の鼻面に、軽く口づけをした。突然の出来事に、一気に俺の胸はドキドキと早鐘を打ち始めた。爆発する寸前だ!
「な……⁉ ちょ!」暖かな吐息が俺の鼻や耳元へとかかる。全身が心臓にでもなったみたいだ。なんなんだよ一体!
ー自分の使命に、少しづつ目覚めていくはずです。私たちが何百年も叶えられなかった思いに。
「おい、いってることがよくわからねえよ! つーかはなせよ!」抵抗したいが、ドキドキが治まらなくて力が出ない。
ーさあ、いまから私の思いを、あなたに捧げます。
その時だった。
鋭い刃で斬られるような、真っ赤に焼けた鉄を押し当てられたような。今まで体験したこともない激しい痛みが俺の全身を襲った。
全身を切り刻まれるかのような耐えきれない痛みが身体じゅうを駆け巡り、そしてそれは俺の鼻面へと一気に集中していった。
「ぎゃあああああああ!!! いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい!!!!」
俺は痛みに耐えきれず地面を転がりまわった。だけどその程度じゃこの激しい痛みは一向に消えなかった。
ーそれは私のしるし。私があの時負った痛みです。辛くても今は耐えるのです。
「いてえ! いてえ! いてえ! いてえええええ!!! ぢぐしょおおおおおおお!!!」
ーこの痛みが消えたとき、あなたはここで遭ったことをすべて忘れているでしょう。別の思い出に変わって。そう……
彼女は白く輝く光になって、痛みに叫び、のたうち回る俺の前から姿を消した。
ーいつか、その日が来るまで。