一人の姫
手足を縛られた男の首元には、小さな湾曲した刃のナイフが突きつけられていた。それはまるで鎌首をもたげた蛇、そのもの。
「もう君の正体は分かってるんだよ。マシャンヴァルの『十人目』さん」
ナイフの刃と同じくらいに白く光るその毛並みが、暗闇から姿を現した。
「わ、わしがマシャンヴァルのスパイだというのか⁉ だ、断じて違う、いいからこの縄を解かんか！」
小太りの初老の男……袖や裾には金の詩集が施され、一見して彼が高貴な人間であることをうかがわせた。
「わかるんだよね。汗一つかかないその肌に、時おり妙な動きをする目……中に人、いるんでしょ？」
その言葉に男は黙った。
「半年前に隣国へ使いに出たまま突然の失踪劇。もうそこで君……いや、アダガ宰相は殺されていたんだ。中身だけ残してね。これでも結構調べるのに苦労したんだよ？」
そう言って、白い毛の獣人＝ルースは、おもむろにナイフで男の頬をスッと掻き切った。
……が、その傷口から本来出るはずの血は全く流れてこない。
「おかしいな 本当なら血が流れ出るはずなのに……どうしてなんだろ？」
その言葉に、男の口元が不気味にゆがむ。
「ふっ……そこまでわかっているとはな、さすがリオネングの薬師」
「ご丁寧な言い方どうも。でも薬師は裏を返せば死神にもなれるっていうことくらい百も承知でしょ？」
さわやかな笑顔を見せるルースの口の端から、鋭い犬歯が光る。
「貴様の言う通り、この城には私以外にもまだまだ仲間はいる。それら全て見つけ出せるとでもお思いか？」
「ああ、それに関してはほぼ終わってるから。もしかしたらあんたが最後かもよ」
男が監禁されている部屋の隅から、もう一人、女性の声が静かに響いた。
「な……。もう一人いたのか⁉」
「ああ、僕が単独でこんなことすると思っていたのかい？ それこそ思い上がっている証拠さ。悪い癖だね」
「じ、じゃあ残りの仲間も……！」
「もうとっくにこの世にはいないさ、まあこんなこと城のほかの人に知られたりしたら、僕もジールもこの国にはいられなくなっちゃうけどね」ルースは寂しく笑った。
「ということはあの方も……」男は消え入りそうな声でつぶやいた。
「ここまできて君も命を奪われたくないでしょ？ だからこそ教えてもらいたいんだ。この国に潜伏している君の仲間たちの目的を」
「そういうことか……お前もこの私も、似たようなものというわけか」
命が惜しかったのかどうかは分からない、もしくは死を覚悟したのかもしれない。男はその言葉をきっかけに、まるで小鳥がさえずるかのように話しまくった。
純粋なマシャンバルの民は国外へ一切出ることをほとんどしない。ゆえに、未だにオコニドはマシャンバルの人たちの顔を見たことがない、しかし唯一例外として、『純なる一人の姫』に対してだけは謁見を許されている。
彼女の姿と同じになることがマシャンバルの民になれる条件の一つ。あといくつかあるが教えてはくれなかった。
しかし、『純なる一人の姫』の姿もマシャンバル人の真の姿ではないらしい。噂によると、獣よりさらに人ならざる者……だとか。
そして……
「ヴェール大司教様は、一人の姫様の血こそが秘薬だとおっしゃられていた……ゆえに、彼女がいないと我々オコニドも、真にマシャンバルの民へとなれぬのだ。彼女の血、それがイニシエーションに必要なのだ」
「イニシエーション？」ルースの疑問に男は即座に答えた。
「マシャンバルの民へとなること、それがイニシエーションだ。ヴェール大司教様の作りし秘薬を摂取することをそう呼んでいる」
「ヴェール……君はそいつとは会ったことはあるの？」ルースの眉間にしわが寄る。
「いや、マシャンヴァルの民同様見たことはない。だがあのお方も我々同様、元はこのリオネングから来たと話していたことがある」
やっぱりそうか、とルースは小さく漏らした。
「なんだ、お前もマシャンヴァルに行きたいのか？ この縄を解いてくれたら連れて行ってやるぞ、さあ……」
男のその言葉の直後、手首を縛っていた縄が音もなく切り落とされた。
「え、縄、これ、違……⁉ あ、ああああああああっ‼‼‼」落ちたのは縄だけではなかった。
男の手首も一緒にごとりと落ちた……が、血は一滴も流れてはこない。
「な、なんでだ……おま……」
「言っただろ、僕は死神だって」ナイフを持つ右手が、男の首に深く刺さった。
しかしそこから吹き出したものは真っ赤な血ではなく、どろりとした黒い泥のような液体だった。
「イ、いいの、カ、オマエ……残ったものをすベテ敵二回すコとになルのダ……ぞ」男の息が止まった。
「ああ、とっても不安さ。だけど僕らにはね……」黒い血だまりの中、ルースは立ち上がった。
「ディナレ様の加護を受けた友がいる。だから絶対に負けることはないさ」
