ジールの涙
チビと二人でトガリの特製シチューを食っていると、ふと俺の背後から「よっ、調子どう?」と、酒臭い息が抱き着いてきた。
一瞬俺は焦ったが、ああ、ジールだなこの声と感触はってすぐに察した。
いつもそう。どんな場所であろうとこいつは足音、爪の音ひとつ立てない。この仕事を続けていて、どんな気配や殺気だろうと逃さない俺ですら無理だ。
しかし今のジールはとんでもなく酒臭い。以前親方が言ってたっけ、こいつは底なしの酒飲みだって。いくら飲もうが顔色一つ変えやしねえし、ブッ倒れることもない。とどめに翌日も二日酔いにならずにピンピンしてやがる。筋金入りの酒豪だって。
親方も結構な酒飲みだったって話だが、こいつはさらに上をいく。まったく酒がダメな俺にいわせりゃ、ある意味誰よりも恐ろしい存在かも知れねえ。
「どうだったぁン? トガリぃ。今日の結果は?」今度は向かいの席に座っているトガリにベタベタと抱きつき始めた。
「ま、まだ仮採用だけどね、でもって明日テストするんだ、ありがとうジール」
「やぁっぱりぃ~! らってトガリ最高のコックさんらもん、不採用にされたら、あたし怒鳴り込んでやるもんにゃ~」
ろれつの回らない言葉と酒臭さに、当のトガリもうんざりとした顔になり始めている。
だけど、酒豪のこいつがなぜここまで飲んでいるんだか…
相当な量じゃないのか? 俺はダメもとで思い切って訊ねてみた。
「ん~とね、いいこと半分、わるいコト半分。あ、でもね、ラッシュにはどーでもいいことよ、まあ、あたいたちにしてみたら、にゃ」
相変わらず謎かけみたいな答えで返してきやがった。酔っぱらってんだからしょうがねえかな。
そしてジールの視線は、俺の隣にいるチビへと向けられた。
目を合わせ、寂しげにふう、とため息ひとつ。
「そっかぁ……やっぱダメだったか……まあ、でも大丈夫か、なんてったって……」ジールはチビを抱き上げ、その小さな身体をギュッと、自分の胸にうずめた。
「ラッシュがこれから一人前のおとーちゃんになるんだからにゃー! だからチビもこのバカ犬を見習って立派な大人になるんだぞ!」ジールの柔らかな抱擁に、チビは心なしか喜んでいるように見える。うん、やっぱりそうだ、よく見ると口元がにやけているし。
「ん~、じゃあ新しい仲間が加わったことだしさ、入団式、しよっか?」チビを抱きしめたまま、ジールはけたけた笑いながら言った。
「に、入団式!?」
「そう、トガリもここ来た時やったでしょ、おやっさんと」ジールは手のひらをトガリに向け、ハイタッチを仕掛けてきた。
……って違うだろ。親方はそんなことしなかったぞ、トガリも戸惑ってる。
「ジール、こここれ違うんじゃなかったっけ。ここ、これはただのハイタッ……」
「そうらったっけ~? 昔のことだからすっかり忘れちゃった~にゃははは」
と言うや否や、今度はテーブルにドン! と突っ伏していきなり爆睡を始めた。なんなんだこいつは。
ジールの胸に潰される寸前だったチビを救出し、とりあえず俺はこの泥酔ネコを寝室へと連れていくことにした。
やれやれ。もっとシチュー食いたかったのにな……こいつのおかげですべてぶち壊しだ。
変な表現かも知れないが、ジールの身体は「軽いけど重い」。
身軽なんだけど、重いんだ。
なぜかというと、こいつが着ている服の中には何十本もの投げナイフや、ルースから買った薬品もろもろが隠されている。それを着たまま、普段の生活はもちろん、隠密行動の仕事もできるんだから大したもんだ。
そんな重くて軽いジールを両手で抱き、俺は二階にある個室へと足を運んだ。
さっきのはしゃぎようと打って変わって、小さな寝息をすうすうと立てている。
……こっちも悪酔いしちまうんじゃないかって思えるくらいの酒臭さだが。
まっすぐな廊下を突き進んだところに、来客用の個室がある。ジールは俺らのギルドに属してはいるが、基本的にここでは寝泊まりしない。
「イヤだよ、こんな男臭い部屋に居つくなんて」と言うのがあいつの言い分だ。
だからいつも別の場所に宿泊しているらしい。それがどこなのかは誰も聞いたことがないけど。ただ、この部屋なら来客用だし、毎朝トガリがきちんと掃除とベッドメイキングをしてくれている。ジールも文句は言わないだろう。
大きな木製のドアをそっと開けようとした、その時だった。
「ウェイグ……」
ジールの薄い唇が、かすかに動いた。俺の知っている名前じゃない、誰か別の仲間のことか?
「ウェイグ……あたし、間違ってないよね…」ジールの瞳は閉じたまま。そう、こいつは寝言言ってるんだ。
「こんなあたしでも、嫌いになったりしない……よね?」ふと、ジールの目から一粒の小さな涙がこぼれ落ちた。
ジールの涙……無論、俺は初めて見た。
昨晩親方のことを思い出して涙を見せちまった俺だけど、こいつにも泣いてしまうくらいの思いを馳せている相手がいるのか。そいつの名前がウェなんとかっていうのかな。心の奥で俺は考えながら、ジールの涙を、俺はそっと指で拾い上げた。
そしてあの夜、俺の流した涙をジールが舐めてくれたみたいに、自分もその涙を……あいつの涙を、ぺろっと口に含んでみた。
つい、好奇心に駆られちまって。
……甘い。そんな気がした。
そして、涙の粒は口の中ですっと消えた。
そのほんのちょっとの瞬間、蜂蜜の甘さのような、砂糖の甘さのような……なんとも言えない甘さの感覚が、舌ではなく、俺の胸、いや心の中にほんのり残って、だけどそれもまたすぐに消えてしまった。
奇妙な気持ちを抱えつつ、俺は静かにジールをベッドへと寝かせた。
彼女の寝姿を今一度確認してみる。うん、やっぱ起きてるはずねえよな、って。そうして俺は静かにドアを閉めた。
「女の涙……か」
ふと、俺の口から意識もしなかった言葉が漏れ出て、そして暗がりの中へと消えていった。