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 どこにでもある非日常の話をしよう。
 ありふれた、それでいて味気ない非現実。
 そんな、非日常の話だ。

 僕の名前はO2。白くて大きな家に住んでいる、どこにでもいるような子どもだ。家族は、僕を含めて4人。魔女、博士、ゼロ、それから僕。ゼロは僕の双子の片割れで、魔女は僕らの母親だ。それから博士は、いうまでもなく僕らの父親。
 僕の家族は街から少し離れた小高い丘の上に住んでいる。白くて大きな家だから、みんなからもよく知られている。僕の家は街でも名の知れた一家だ。

 前置きが長くなってしまった。今から少しの間、僕の話をしようと思う。どこにでもあるような、特に面白みのない話だけれど。実際に僕らが体験した話だ。
 ぜひ、最後まで聞いていって欲しい。



『魔女の話』

 僕らが生まれた頃には、彼女は既に魔女だった。
 丘の上の家に住む魔女の噂は、きっと誰だって聞いたことがあると思う。少なくとも、僕らが通っている学校ではみんな知っている。
 魔女は日中ずっと家にこもって、何かの準備をしている。そして夜が来ると街に出る。朝方帰ってきたかと思うと、昼まで部屋から出てこない。
 魔女は毎夜、何かを求めて街に出ている。
「お前たちにはまだわからんさねぇ」
 そう言って魔女は笑う。
 彼女が街に求めているものと、僕らが彼女に求める物との間に、どれだけの差があるのかは分からないけれど。
 それでも、彼女は今日も夜の街へ繰り出していく。

 学校のみんなは僕らを指さして笑う。聞きなれない言葉で僕らを貶めようと、必死になっている。親にでも教わったのか、あるいは自分で調べたのか。後者だったら、ご苦労なことだと思う。
 彼らに言われた言葉の一部を思い出すと、例えば雌犬の子だとか、とんまだとか。他にも色々言われるのだけど、最近は慣れてしまって、あまり覚えていない。
 時々魔女にその意味を聞いてみる。その度魔女は同じことを言う。
「言わせとけばいいんだよ。怖いものを除け者にしたがる、臆病な奴等にはね」
 僕らは魔女のことをあまり知らない。本当の名前がなんなのかも知らない。僕らが彼女を、魔女としか呼ばないから。
 初めてを魔女と呼んだ時には、彼女は呆れたような表情をしていた。
「子どもは無邪気だからこそ恐ろしいね。お前たちには恐怖心はないのかい」
 僕らが首を傾げるのを見て、魔女は少しだけせせら笑った。
「いいんだよ。少しはあの人の研究も、実を結んでいるのかもね」
 魔女はそう言うと、素早い手つきで僕らを殴り付けた。僕らは何が起こったかわからず、ポカンとしていた。
 痛そうなそぶりを見せない僕らを見て、魔女は再び笑みを溢した。
「今日は久しぶりに夕食を作るかね。あの人が好きなもんでもさ」
 そう言うと魔女は、珍しく昼間なのに出かけていった。
 雲行きが怪しくなっていたけれど、魔女は気にせずに街へ続く道を歩いていく。


 
『博士の話』

 僕らはその人のことを博士と呼ぶ。別に深い意味はない。ただ、いつも白衣を着て歩く姿は、博士以外の何者でもないからというだけの、単純な理由だ。
 博士は僕とゼロの父親で、魔女の夫でもある。どのようにして魔女と博士が知り合ったのか、あるいはどういう経緯で結婚まで至ったのか、僕らはよく知らない。正直な所、二人はあまりに不釣り合いにすら見える。
 背が低く、いつも何かを呟いている暗めの博士と、見るからに派手な魔女との組み合わせは、学校のみんなから色々言われるネタの一つでもある。

 ところで、博士と呼ぶことに深い理由はないと言ったが、少なくとも彼は正真正銘本物の博士だ。時々彼を訪ねて遠方から人がやってくる。大抵はスーツで身を固めた偉そうなおじさんなのだけど、時折迷彩柄の服に身を包んだ人が集団でやってくる。そういう時、彼は決まって僕らを地下へと導く。危ないからと言い残して、彼は地下の扉を閉める。そうして話が終わると、再び僕らを外に出してくれる。
「あの人たちは何しに来たの?」
 僕らが聞いても、博士はアンニュイな笑みを浮かべるばかりで、多くを教えてはくれない。
「お前たちには、まだ関係のない話だよ」
 博士はそう言って、今日もまた忙しそうに歩き回っている。

 博士の部屋は地下室の奥にある。地下室への入り口は僕らの家族しか知らないから誰も入ってこないし、逆にいえば暇なときに入って遊ぶことができる。最も、奥の部屋にあるものに触れてはいけないという制限つきではあるが。
 僕らは時々、その言い付けを忠実に守って奥の部屋に入り込む。そこは妙に薄暗い部屋で、中央に巨大な筒上の管があるだけで他には何もない。部屋は白色なのに、青白い光で包まれているせいでどこか不気味だ。
 中央の管の中には、変な生き物が入っている。細長い身体に二本の角のようなものがついていて、きっと二足歩行するのだろうと思われる生き物。管の手前には何かを操作する電子盤がある。何度かそれを触ってみようとしたけれど、止めておいた。言い付けがあったってのもあるけど、それ以上に、心配だったのだ。
 これに触れたら、きっともうこの生き物を見られなくなってしまう。そんな、一種の勘のようなものが、僕らの脳裏にはちらついていた。
 幻想的で、どこか不思議な雰囲気の部屋の中、何かを待つように佇む謎の生き物。
何となくだけど、手放したくないと思っていた。

 その日地下から上がると、入れ違いに博士がやってくるところだった。
 僕らは博士に尋ねる。
「博士は何の研究をしているの?」
 博士はいつも通りのアンニュイな笑みを浮かべると、
「ココロの研究さ」
 そう言い残して地下へと消えていった。

 後日、再び地下室を訪れた僕らは一つのファイルを見つけた。
 その青いファイルには、僕たちの写真がいっぱい挟まれている。



『ココロの話』

 昔絵本で見つけた物語を、今でも僕は覚えている。
 その本は、僕とゼロが小さい頃に、博士からもらった物だ。博士は時折僕らに読み物をくれる。読み聞かせてくれるなんてことはないけれど、夜寝る前に二人で読む絵本は中々に夢が溢れていて面白い。
 その物語の主人公は、一台の壊れかけたロボット。ただし、彼には、一つだけ大きな特徴がある。「心を持っている」ということだ。
「心を持つロボット」という題材はよく見かけるものだ。その絵本の中での彼も例外ではなく、ある一人の天才科学者によって生み出され、その科学者のもとで暮らしていた。しかし、やがて科学者は死んでしまう。
 ロボットは心を持っているけれど、泣く事が出来ない。そう、科学者に教え込まれているのだ。自分が死んでも、泣かないようにと。そして、自分が死んだら、彼はもう自由の身だと。
 科学者が死んで、研究所には何もなくなった。声も、人気も、温度も、彼を縛り付ける楔も、何もない。何もないのだ。心を持っているのに、それを伝える相手がいない。心を持っているのに、この気持ちを理解してくれる相手がいない。それが、ロボットを殺していった。
 そうしてやがて不調を訴え始めるロボットの目からは、色彩も喪われた。壊れかけたロボットには悲しみの感情を理解できても、科学者の死を理解することができなかった。
 物語は、そのまま終わりへと向かっていく。何もなくなり、誰もいなくなり。そうして、彼に与えられた感情も、何の意味もなさないままただその場所で朽ちていくだけ。
 後日、その研究所に一人の客人がやって来る。遅れてきた来客は、そこで二つの亡骸を見つける。動かなくなったロボットと、彼が守ろうとしたかの様に彼の腕に抱かれた一人の科学者。
 心を持っていても、それを伝える相手がいなければ、心は死んでしまう。そんな話だ。
 久しぶりにその本を読んでみたら、僕らは妙な胸騒ぎに襲われてしまった。

 ふと、博士の部屋にいる不思議な生き物のことを思い出す。あのフラスコのような管の中にいた、得体のしれない生物。
 彼がどこから来たのか、誰によって生み出されたのか、僕らは何も知らない。博士があの生き物を使って何をしようとしているかも、僕らにはまだ確証がないけれど。
「……ココロって、何なのかな」
 ゼロがぼそりと、呟いた。僕はその答えが分からなくて、首を横に振る。
「例えば、この絵本では悲しみがあがっているけれど」
 きっと、それだけじゃないよね。ゼロが静かに続けた。

 この絵本をくれた博士のことが、よく分からなかった。
 心って何なのだろう。その答えは、ずっと分からないままだ。
「博士は僕らに何を言いたかったんだろう」
 博士はココロの研究をしていると言っていたけれど、それならなぜ博士は、あんな部屋にずっと閉じこもっているのだろう。
 もう一度、あの不思議な生き物のことを思い出す。
 幻想的に青白く輝く光の中で、目覚めの時をずっと待ち続けているかのように、眠る生物。囚われの身なのか、あるいはあの場所で生まれたのかは分からないけれど。
 なぜか、僕はあの生き物にシンパシーを感じていた。
 これも、ココロの内なのかな。そうゼロに聞こうとしたけれど、やめておいた。彼はいつの間にか、僕の隣で眠りこけていたからだ。
「……おやすみ」
 そう呟いて、僕も静かに目を閉じた。
 頭の中にはずっと、亡骸を抱くロボットの絵が映し出されている。



『いじめっ子の話』

 いじめっ子たちは、いつも僕らを取り囲んで、後ろ指さそうとする。
 『死んでしまえ汚れた奴らめ』『売国奴』『爆弾に巻き込まれればいいんだ』 そう言う彼らはどこか楽しそうで、その実どこか怯えているようだ。
 例えばの話だけど。
 僕らが何をしようが、周りの大人は何も言わない。逆にいじめっ子たちが事故に巻き込まれたりしたら、その親や、その子と親しい友達たちは心配するだろう。当り前だ、僕らとは生まれが違うのだから。
 でも、僕はそういう時に考える。
 大人たちがいじめっ子を心配して僕らを侮蔑するのは、彼らの勝手な解釈に依るものだ。何をしようと、誰かの勝手。そう考えたら、きっと僕らが何をしても許されるような気がしていた。例えば、いじめっ子の一人の鼻をへし折る、なんてことをしても。
 全て自由で、誰も僕らがすることに口出しはしない。そうあればいいと、時々思う。
 でも、現実はそう上手く行かないのだ。
 誰かが怪我をすれば、僕らはまたいじめられる。その仲間たちが寄ってたかって僕らを傷つける。僕がゼロを守ろうとしても、彼らは気にせず僕らを引きはがす。
 そんな日常がずっと続くもんだから、いつからか僕らの心にはある思いが生まれていた。

 僕らは自由を求めていた。
 魔女も博士も、悪口を言ううるさいあの子も、誰もいない、僕らだけの世界。
 それ以外は何もいらなくて、それが僕らの必要としているものだった。



『きっかけの話』

 初めて生き物を壊したのは、いつだっただろう。その時、何を思っただろう。多くは思い出せない。
 最初は猫だった。首を掴んで、ゆっくりと捻じ曲げた。白い毛並みの猫は、僕を引っ搔こうと幾分か暴れていたけれど、最終的には事切れた。瞬間的に不快になって、僕はその猫を路上に捨てた。
 次は犬だった。正面切って倒せる気がしなかったから、首輪に繋がれているのを後ろから殴りつけた。犬は呻き声をあげて抵抗しようとしてきたけれど、やり返される前にやった。
 徐々に慣れてきた僕らは次に人を壊すことにした。一応、おばあさんやおじいさんは避けた。どうせこの先長くもないだろうに、余生を奪ってやるのもかわいそうな気がしたから。
 偶々その日、ニュースで見たのが酔っ払いの男が引き起こした事件だったから、僕らは酔っ払いの男を壊すことにした。魔女が出かけてからしばらく時間をおいて、僕らも家を出た。
 酒場を探して、人気のない道を歩いていく。暗がりに身を宿していると、何でもできる様な気がしてくる。得も言われぬ高揚感に身を委ねつつ、契機を待つ。
 酒場から人が出てくるのを待って、僕らは路地に身を隠した。寒い夜風のもとで暫く待ち続ける。月が丁度雲に隠れた頃、誰かが店から出てきた。周りに誰もいないことを確認すると、暗くて顔が見えなかったが、すぐに僕らはそいつに襲いかかった。声を上げられないよう口を塞ぎ、持ち前の木の棒で叩きつけるだけ。変な感触が手を通して伝わって来る。嫌な気分。僕はそれを振り払おうとして、また木の棒を振りかざす。
「ちょっと、待って」
 不意にゼロが制止に入って、僕は咄嗟に手を止めた。が、遅かった。振り下ろされた木の棒は無情なほど歪んだ(ひずんだ)音を立てて、目の前のそれを砕いた。
「いきなり、何?」
 木の棒を持ち上げながら問う。ゼロは動かなくなったそれを注意深く眺めてから、感情のこもらない淡白な声で告げた。
「魔女だ」
 そう言われて、僕もそれをじっと見た。服に見覚えがあった。確かに、魔女が出かける前に身にまとっていたもので間違えなかった。しかしながら、顔はぐちゃぐちゃに砕けて判別がつかなかった。
「これじゃあ分かんないよ」
 ゼロが呆れたように呟く。僕は少しだけ機嫌を損ねながらも、目の前で動かなくなった魔女(らしきもの)を見た。
 全身を黒いローブで包んでいるせいで、中がどういう状況なのかは分からない。かろうじて見て取れる腕や脚は、痩せこけて、それでいて良く分からない方向にねじ曲がっている。
「どうしよう」
 僕がそう呟くと、ゼロは徐に辺りを捜索し始めた。そうしてどこから持ってきたのか、黒いごみ袋に魔女を詰めると、そのまま店の横に取り付けてあったダストボックスに袋ごと放りこんだ。
「帰ろう、そろそろ人に見つかっちゃう」
 僕は頷くと、そのまま裏道へ入って家へと戻った。

 家について、布団に入ると、不意にゼロが僕の右手を握った。
 彼の手は、微かに震えているようだった。
「大丈夫だよ。やったのは僕だから」
 そういうと、ゼロは力なく首を横に振って、少しだけ考えるそぶりを見せる。そうして、何かを決めたように小さく頷いた。
「やったのはO2かもしれない。けれど、処分したのはボクだから」
 君だけのせいじゃないよ。ゼロはそう言い残して、目を閉じた。僕はぼんやりと何かを考えながら、同じように目を閉じた。
 外が何か騒がしかったけれど、僕らは死に行くように眠りこけていた。



『僕らの話』

 翌朝、目を覚ますと僕らは地下にいた。不思議な生物がいる、青白いあの部屋。毛布がかけられ、横にはまだ夢の中のゼロがいた。
「起きたか」
 博士の声。振り向くと、電子盤の前に座りこむ博士の姿があった。両腕を口元でくんでいるから表情は読みとれない。けれど、どこか疲れているように見える。
 僕はゼロをゆすり起こす。博士はそれをじっと見ている。痛いほどの視線を感じて、どこか嫌な気分だ。
 ゼロが目を覚ました。
「……んぅ」
 身体を起こして目を擦る。僕は彼の背中をポンポンとさすると、前を見るよう指さす。ゼロが博士に気付いたように小さく頷いた。
 博士が立ち上がる。
「今朝、警察が家に来た」
 博士の声は落ち着いているけれど、どこか疲労がにじんでいるように聞こえる。
「あの人が死んだと聞かされたよ。何者かに撲殺されたらしい。ご丁寧に、ごみ袋に詰め込まれた姿で発見されたそうだ」
 博士が僕らの方へ歩み寄って来る。
「ひどいことをする奴がいたものだな」
 そういって、僕らの顔を覗き込む。
「犯人は、誰だろうな」
 隣で、ゼロが委縮しているようだった。僕の服の裾を軽く引っ張る。
 僕はそれを一瞥しながら、博士の方に向き直った。
「博士、僕ら考えるのは苦手なんだ。そんな難しいことは分からない」
 僕が首を横に振っても、博士は何も言わない。
「それで」
 僕はそこで一息つくと、博士の向こうにいる不思議な生き物を窺った。
 管の中の生き物は、以前よりも禍々しいなりをしている。
「……博士は、僕らの味方なの?」
 尋ねて、睨むように見据える。博士は見下すような目つきで僕らを見ている。その瞳に何が込められているか、僕には分からない。ただひたすらに冷たい視線は、隣にいるゼロを一層怖がらせた。
 僕は、それに負けないように睨め上げ続ける。
 今にもその足が、手が、ゼロの方へ伸びるんじゃないか。そんな不安を抱えていた。
 博士は質問に答えず、小さくため息をついた。そうして、何するでもなく電子盤の前に戻っていく。青色の液体で満たされた管に触れて、言葉を漏らした。
「……こいつを作っている理由、お前たちには話したかな」
 僕らは同時に首を横に振る。博士の口からその理由を聞いたことはない。それでも、僕らはその理由を知っている。
「僕らを止めるためでしょ」
 僕がそう言い放つと、博士は何の抵抗もなく頷いた。
「時々家にやって来る軍人。あいつらに頼まれている。戦場に送れる兵器を作れと」
 元々、無理な話だったんだ。博士はそう続ける。
「何の元手もない状態で、新たな生物兵器を作れと言われても、私にその力はなかった。だが、彼らはちゃんと私の研究については調べていた。……お前たちは、知っているね」
 そう聞かれて、僕たちは頷く。
「ココロの研究だ」
「そう。……それも、恐怖という感情に関してだ」
 博士は虚ろな表情を見せる。
「お前たちには、悪いことをしたと思っている」
 博士はそう告げると、電子盤の上のボタンをいくつか押していった。管の中の溶液がどんどん減少していき、最終的に管の中にはあの生き物だけが残された。前よりもおぞましく、前よりも屈強な身体を持った――言うならば悪魔の様な形相をした――怪物。
「……ヤギみたいだ」
 僕は呟く。ヤギの角の様な物がピクリと動く。どうやら、それが耳らしかった。ヤギの頭に、黒い毛で覆われた逞しい脚。背中にも、よく見えないが翼のようなものが生えている。
 怪物は僕の声で気がついたのか、薄らと目を開く。光を宿した赤い目は、全てを燃やしつくす獄火の様に、不穏な色を帯びていた。
「彼女は、ある意味では本物の魔女だった」
 怪物の背中をさすりながら、博士が呟いた。
「この生き物は、彼女が最近傾倒していた黒魔術の、偶然の産物らしい。大事に育てればいずれは軍人たちの求めるものができるだろう。彼女のその誘いはまるで魔法のようだった。あまりに蠱惑的で、私はまんまとその術中におぼれてしまったわけだ」
 徐々にその全貌を見せる怪物。いや、博士の話によれば正真正銘この世に存在しえないものなのだろう。本物の悪魔、なのか。四肢を奮い立たせ、馬の様な嘶きを響かせる。
「気持ち悪い……」
 ゼロが、隣で呟く。僕は頷きながら、そっとゼロと怪物の線上に入り込む。
「彼女が死んだ瞬間から、もう、何もかもどうでもよくなったよ」
 博士がそう言って、僕らを見据える。その目には何の感情もこもっていない。塵芥を見るような目つきで、僕たちを睨む。
「……後は、言わなくても分かるな」
 変わらぬ無表情で、博士が呟いた。
「もう、お前たちは用済みだ」
 やれ。そう言って悪魔が動き出す。初めは、緩慢に。遅い。そう思った瞬間、悪魔が咆哮した。瞬間的にひるんだ僕達との間を、一気に詰めてくる。
「危ないッ!」
 ゼロの声。目の前まで迫った悪魔の右腕。その後ろに続く、黒い帯状の何か。そこまで認識できたのはそこまでだった。
「……ぐっ……ぅぁっ!」
 腹に、鋭い痛みが走る。
 その場に崩れかける僕を咄嗟に救いあげ、ゼロが逃げ出すように走り出す。背後に嫌な音が響いている。
 同時に、身体の一部が軋むのを感じる。
「O2、大丈夫?」
「何とか……」
 そう言ったはいいものの、痛みであまり考える余裕はなかった。
 地下室を抜け、部屋に続く廊下を抜け。階段を上がれば地上へと続く床扉。ゼロはそれを何とか押し開け、僕と外に出るとすぐさま閉じて鍵をかけた。
「時間稼ぎにしかならないだろうけど……」
 ないよりはましだ。そう言って僕の手を引くと、また走りだす。
「どこ行くの?」
 僕の問いに、ゼロは答えない。僕は少しだけ痛む横腹をさすりながら、転ばないように後に続く。ゼロが向かっているのは、どうやら僕らの部屋らしい。扉を勢いよく開いて、中へ飛び込んだ。
「何か、あいつとまともに相対できる武器……」
 ゼロは必至だった。僕は机の横に立てかけた金属バットを取ると、部屋の中を見渡した。ゼロが使うものが無い。
「ゼロ」
 振り向くゼロに、バットを差し出す。
「ゼロは、これ使って」
「え……」
 でも、と、何か続けようとするゼロの言葉を遮って、僕はベッドの下から木の棒を取り出した。昨日、魔女の命を奪ったモノだ。
「僕の手にはこっちのが馴染むから」
 そう言うと、ゼロも納得したように頷いた。
「それにしても、何で追ってこなかったんだろ」
「まだ、本調子じゃなかったんだと思う」
 ゼロがいつもより不安げな声音で告げた。
「逆にいえば、僕らは逃げてるつもりで、あいつに時間を与えてしまったわけでもあるんだ」
 調子を取り戻すまでの。そうゼロが言い終えるか終えないかというくらいに、扉の向こうで何かが突き破られた音がした。
来たね。ゼロが呟く。
「まるで、勝てる気はしないけど」
 ゼロが僕の手を取った。
「頑張って、倒そうね」
 僕は小さく頷いて、ゼロの手を握り返した。
 ――小刻みに震える手を、僕はどうしても守り抜きたい。

  *

 扉を開けると、すぐ向こうに悪魔の姿があった。その奥には、博士の姿も。
「観念……したって様子ではないか」
 僕らはそれぞれの獲物を手にして悪魔と対峙する。その姿を見て、博士が小さくため息を漏らす。
「勝てると思ってるのか」
「やってみなければ分からない」
「お前たちらしいな」
 博士は右手を突きだす。悪魔が動く。僕はすかさず後退する。ゼロが前に出た。バットを振り上げる。怪物が、鋭利な爪を宿した拳をふるい――
 金属のぶつかり合う、嫌な音が響いた。
「……ふん」
 ゼロと怪物が一進一退に攻防を繰り返す最中、博士は僕に向けて言葉を飛ばしてくる。
「お前たちは、あの人を殺してどうするつもりだったんだ」
 答える余裕のないゼロ、時折死角を補うように木の棒を振るう僕。僕は振り下ろされる右腕を薙ぎ払いながら、それに答える。
「博士の、研究に役立つと思って」
「私の?」
「そうだよ」
 僕らが何かを壊そうと思ったのには、ちゃんとした理由がある。
「恐怖心を捨てて、死の恐怖を乗り越えるためだよ」

   *

 博士の地下室で青いファイルを見つけた時、僕らは自分たちが生まれてきた意味を知った。博士が作り上げようとしていた、恐れのない、駒としての生物兵器。あちこちで広がる戦火の中で、死の恐怖を乗り越えて最後まで戦い続ける存在。
「それを、博士は作ろうとしてたんでしょ」
 僕がそう問うと、博士は何も言えないのか、押し黙った。
 僕は気にせず続ける。いつしか折れてしまった木の棒に代って、腕で迫りくる魔手を弾きながら。
「だから僕らは、殺すことに慣れようとした」
 もう人の死には一抹の恐怖も抱かないほど、ココロは麻痺している。そうするよう仕向けたのは博士で、そうなることを受け入れたのは僕らだ。小さい頃からの刷り込みで、僕らから恐怖という感情は薄れつつある。だから次は壊す――殺すことに、慣れる。
「結局、分かったことは一つだけだったけどね」
 猫を殺し犬を殺し魔女を殺し。その一連の流れの中で分かったことは一つだけ。殺られる前に殺る。たった、それだけだ。
「だけど、博士の研究が進めばあるいは……」
 ここから抜け出せるかもしれない。そんな淡い期待があった。
「僕らはずっと、ここから逃げ出したかったんだよ」
 ここじゃないどこかで自由になりたいと、ずっと思っていた。だから、魔女を殺した。
 博士は呆然としている。何か呟くように口をひくひく動かしているが、僕にそれを読み取る余裕はない。
 明らかに、防戦一方だ。
「……分かってない」
 博士が静かに言った。
「お前たちは、全然分かってない」
「何が!」
 そう聞き返すと、博士は辛うじて聞き取れるほどの小さな声で、続きを述べた。
『――喪失の、恐怖』
 不意に、悪魔が囁いたような声がして、視界が暗転する。何が起こったのか理解するよりも早く、その場に崩れ落ちた。
「ぅぁ……っ!?」
 頭が痛い。耳を塞ぐ。脳を揺さぶられた様な嫌な感覚。そうして、絶え間なく続くのは脳に響く不協和音。目まい、吐き気、頭痛。身体が変調をきたすのに、それほどの時間はかからない。
「……教えてやろう」
 音に紛れて、博士の声が聞こえた。博士がこの音を出してないとすると、音の元凶はあの悪魔か。
「私は彼女を愛していた」
 止まない音の洪水の中で、耳元に響く博士の声。薄ら目を開けて伺えば、博士は崩れ落ちる僕らの前にしゃがみこんで、僕らを見下していた。隣には、同じように倒れるゼロの姿があった。
「それを、お前たちは、そんな馬鹿げた理由で、彼女を……」
 博士の目にははっきりと憎しみの念が見て取れた。俗物を見るような、そんなやわな物ではなかった。
「教えてやろう。喪失の恐怖を、お前にも」
 恐怖が無くなるなんて嘘っぱちだ。そう呟くと、博士はむくっと立ちあがってどこかへ向かっていった。何かを取りに行ったのか、あるいは――。
「……っ、ゼロ……」
 掠れた声で呼びかける。ゼロが薄ら目を開け、小さく頷く。まるで、大丈夫とでも言うように。
 僕は、腸が煮えくりかえっていた。怒りがふつふつと滾っていた。殴りたい。目の前のそれを、思いっきり、動かなくなるまで、何度も、何度も。壊して、壊して、壊して、殺して。
 明確な意思を持って、僕は呟く。
「……絶対、殺してやるっ……」
 そう言っても、身動きの取れない僕になす術はない。負け犬の遠吠えといわれても構わなかった。それ以上に僕は、目の前のそれが憎かった。
 隣のゼロが、小さく呟く。
「……大、丈夫。ボクが、守る……から……」
 僕は、目の前のそれが憎かった。
 ゼロの苦しむ顔を見るのが、何より辛かった。

   *

 青いファイルには、こうも書かれている。
『01は守備、02は攻撃に特化予定』
 添えられた写真には、小さい頃の僕らが写っている。その額に、それぞれ01と02の文字。1はゼロ、2は僕だ。
 笑顔の僕らを写し撮ったのは、きっと博士だ。その頃はまだ感情の起伏が確かにあった僕らを、博士はどんな目で見ていたのだろう。
『恐怖が無くなるなんて、嘘っぱちだ』
 博士が残した言葉の意味が、僕は分からなかった。失くすように仕向けてきたのは彼なのに。そうするように教えてきたのは彼なのに。なぜ、博士はあんなことを言うのか。
 その言葉の意味は、その後すぐに嫌というほど理解した。
 博士が戻ってきた時、僕はぞっとした。なぜ、震えが止まらないのか。なぜ、身体が自由に動いてくれないのか。そんなことを考える余裕なんてなかった。だけど実際に――そして、驚くほど純粋に――僕は、博士を恐れていた。
 博士も、恐怖という感情の波に飲まれた、哀れな人間に過ぎなかった。そして同時に、ゼロも、あるいは、僕も。

   *

「お前たちを育てたのが誰だか忘れているようだな」
 抑揚に乏しい声が、僕らの頭上で響いた。辛うじて見上げた視線の先に、立ち尽くす博士の姿がある。後ろの悪魔を押しとどめながら、僕らを見下す。
 手には、黒く、透きとおるように光る刃。
「ゼロは元々攻撃を往なすことを伸ばすように育てた。危険を察知し、瞬時に判断する瞬発力と、それを可能にする動体視力、筋力」
 暗示をかけてやれば、存外人間もやるもんだ。博士がそう呟く。
「対して、O2、お前はとにかく攻めることを重視するように育てた。敵を一撃で仕留める為の力、瞬発力、咄嗟の判断力。お前たちは、生まれた時からずっと、二人で一つになるように育ててきた」
 双子だからな。そう言う博士の目はどこか淀んで見えた。
「――だから、こうするのが手っ取り早いだろう」
 悪魔の宣告。背後にそびえ立つ悪魔なんかより、ずっと残忍で、それでいて――
 僕にとって、明確に耐えがたい恐怖(・・)。
「っ……やめろッ!?」
「動くんじゃない」
 博士は、手にした包丁を、
 ゼロの首に突き付けながら、僕を牽制する。
 ゼロは怯えて声が出せないらしい。視線をやって、僕に助けを求めている。
「止めろ、ゼロに手出しするな!!」
「先に奪ったのはどっちだ」
「そっちだろ!」
 僕が叫ぶと、博士は一瞬ひるんだように手を止めた。
 僕は、矢継ぎ早に続けた。
「最初に、奪ったのはそっちだろ。僕らは、ずっと周りに後ろ指さされて、笑い物にされて、いじめられて……。それをあんたらは、好都合だと利用したんだ」
 博士はじっと僕の話を聞いている。
「ずっと辛くて、誰も助けてくれなくて、だから僕らは、あんたの申し出を受け入れた。強くなれば痛くないからって、感情を押し殺す癖をつけた。確かに、確かにいじめられることは少なくなったさ。だけど、結局それが、僕らの生きる道を潰した」
 夜な夜な街に出て豪遊する魔女に、軍人に媚を売るいかれた博士。その子供として生まれてきた僕らに、元々未来なんてなかったのかもしれない。生まれてきた意味なんて、なかったのかもしれない。
 だけど、僕らは。
「……僕らは、死にたくなかった。生きて、いつか、誰も今の僕らを知らない所へ行って、幸せになろうって。約束した。約束したんだ」
 もう、我慢の限界だった。
「……だから、やめてよ……。たった一人の、大切な家族なんだよ……。殺さないでよ」

 小さな頃から、僕らは二人っきりだった。誰にも愛されずに、誰にも好きになってもらえずに、ただ嫌われ続けるだけの、そんな人生を歩んできた。僕らが魔女にそれを求めても、彼女は街に愛を振りまきに行くばかり。博士にそれを求めても、彼は僕らを研究材料としか見ていない。僕らに、味方などいなかった。
 だから、僕らは、ずっと二人で一つだった。
 二人で約束を立てた。いつか自由になって、この場所を抜け出そうと。ここじゃないどこかで、二人で幸せになろうと。
 僕らはただ自由を求めて、そうして『誰かに後ろ指さされて歩く人生』を、終わりにしたかった。
 いつの間にか溢れてきた雫は、頬を伝って零れ落ちる。目の前のゼロも、同じように泣いていた。声を上げずに、静かに、ただ静かに。

 それでも、悪魔の戯言はまだ止まない。
「くだらんな」
 博士が無感情の言葉を放った。
「実に、くだらん」
 いつしか止んだ音波の残響の中で、博士の声だけが鋭く響く。
 その手は、未だゼロの首を狙ってやまない。
 意識が朦朧としている僕は、霞む眼の中で博士を睨んでいた。博士の手が、そっと力を込める。黒い刃が、ゼロの首に食い込むのが見えた。
「   !!」
 おぼろげな意識の中で、僕は何かを叫んだ気がした。


 その時、僕がどうしたのかは分からない。
 僕は、ただ、
 頭の中で響く叫び声を聞きながら、意識を失ってしまった。



『世界と眠る二人の話』

「……O2」
「ん……ぅ?」
「良かった、起きた」
 光が嫌にまぶしい。細めた眼をじっと凝らせば、ゼロの顔が目に入った。優しく笑った顔。久しぶりに見る、彼の笑顔だった。
「ゼロ……?」
 僕が名を呼べば、彼ははにかみながら小さく頷く。僕は彼の頬に手を伸ばす。触れる。確かな温もりと、感触。良かった、本物だ。
「……ゼロ!?」
「えぅッ?」
 僕はがばっと起き上がると、ゼロの肩をがしっと掴んで、その首元を見た。
 赤い筋が入っていた。血が固まったばかりなのだろう。少し、痛そうだ。
「浅かったんだ」
 ゼロは両の腕を自分の首に宛がいながら呟く。
「切られる前に、助けてくれたから」
「誰が?」
「O2が」
 僕? っと尋ねると、ゼロは口元を綻ばせながら頷く。
「そんなことした覚えないよ」
「でも、現にボクは今こうして生きてる」
「そうだ、あの二人は……」
 そうして気付いた。辺りの、破壊しつくされた瓦礫の山と、そこらじゅうに飛び散る赤い痕。そうして、積み上がった瓦礫の下の、血溜り。
 何かが起こったのは一目瞭然だった。
「実はボクも、よく覚えてないんだ」
 呆然とする僕を見かねてか、ゼロがそう教えてくれた。
「ボクが目を覚ました時には、もう辺りはこんな状況だった」
 そうして、隣に倒れていた僕を光の入るこの場所に運んだのだと、ゼロは言った。
 見上げると、天井が抜けて紅い日が射しこんでいた。日が沈むところなのだろう、空は朱に染まり、東から宵を連れてくる。黒い、透きとおる虚空が、直に僕らを包み込むだろう。
 ――久しぶりに、空を見た。ふと、そんなことを思った。
 感情の栓が抜けたのはいつ以来だろう。小さい頃から難しいことを考えるのは苦手で、あまり深く考えずに博士の誘いを受け入れて。それが結果として、僕らが道を誤る原因となった。
(結局、『無理な話だった』ってわけか……)
 感情を押し殺して、恐怖を押しこめて、ココロを失くそうとしても、僕らはロボットじゃない。博士の言う通りに、そんなこと、無理だった。
(……僕らも、一人の人間に過ぎないからな)
 痛みも、壊す感触も、今ではまざまざと思い出せる。重くて、悲しくて。軽い言葉で言い表せない感覚が、僕らの中には詰め込まれている。数えきれない程の罪が、僕らの中に宿っている。
 そうして、忘れてしまった笑顔の記憶も、同様に、僕らの中にきっとある。眠りから覚めないまま、今日まで来てしまったけれど。
 僕らは、ただ前に向かって歩くしかない。
「ねぇ、O2」
 ゼロが僕の手を取って、再び笑った。
「行こう。どこか、遠くへ」
 君と一緒ならどこでもいいから。そう言ってゼロははにかんで見せる。
 僕は、少しだけ物思いに耽りながら、小さく頷いた。
「行こうか」
 どこか、遠い場所へ。誰も僕らを知らない、どこか新しい場所へ。そこで僕らは、また歩き始めればいい。
 手短に支度を終えると、僕らは暗くならないうちに家を後にした。
 
 ここに何も思い出なんてないはずだった。
 けれど、 いつか戻ってこられるように何もかもをそのままにして、僕らはこの地と別れを告げた。
 それに意味があるのかって。それは、今の僕らには分からない。
 でもいつか、この場所に戻る時があったとして、その時はまた、この場所から始められるといい。
 そんなことを、思っていた。



『とある警官隊の話』

 彼らがそこに到着する頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。普段から不気味な白い家は、どういうわけか跡形もなく崩れ落ちていた。
「ここで何が起こったんだ」
 二人の警察官は同時に首を傾げる。恐る恐る瓦礫の山を調べていくと、暗くてはっきりと見えないが、何か赤い物がそこら中に広がっているのが分かった。他でもない。血だった。それも、大量の。
「こりゃ、生存者はいないな」
 長年の勘がそう告げるのか、老いた警官はげっそりとした様子で呟く。もう一人の若いのは、不気味な形相を晒す邸宅跡にどうにか踏み入っていく。
 崩れ落ちた外壁。突き破られた扉。
 瓦礫の山に目をやる。視線をおろして、彼は気分が悪くなった。目を反らして、そこに階段の様な物を見つけた。
「なんだここ……」
 無理はするなという先輩の言葉を聞きながら、ゆっくりとかつ慎重に、中を進んでいく。着いたのは青白い部屋。あちこちに本やらガラスやらが飛び散って、無秩序もいいところだった。
(特に、何もないか……)
 引き返そうとする彼の目に、一冊のファイルが映った。青く、少し透明なファイル。中には数多くの写真が入っている。その一つ一つに、よく分からないメッセージ。ココロだとか、戦闘だとか、写真に写っている二人の子どもには、あまり縁のなさそうな言葉ばかりがずらりと並んでいる。
(なんだこれ……)
 先を捲っていくほどに、彼は言葉を一つ、また一つと失っていく。進めば進むほど、子どもたちの顔からは笑顔が無くなる。子どもたちの目からは、光が消えていく。その横に書かれている言葉も、どんどん事務的に、無機質になっていく。初め震えるようだった短い言葉も、終わりには書き殴られたように感情を失う。
 最後には、木の棒を振りかざす子どもたちの写真が貼られていた。
(……どこで、道を間違えちまったんだろうな)
 この子どもたちが歩むはずだった明るい未来を思って、彼は少しだけ寂しくなった。
「おい、協力呼ぶぞ。俺たちだけじゃどうしようもねぇ」
「あ、はい。今行きます」
 先輩に呼ばれて、彼はファイルを閉じた。それを置こうとして、ふと思い立ってもう一度開く。最初の方にあるページと、後ろの方のページを見比べて、少しだけ違和感を覚えた。
(……これ……って)
「おい、早くしろい!」
「あ、はい!」
 彼はファイルを閉じる前に、一枚の写真を取り出した。
 まだ幼い二人の子供が、無邪気な笑みを浮かべていた頃の写真。
(……もし、彼らがまだ生きているとしたら)
 ポケットに写真を詰め込むと、彼は階段を駆け足で上り始める。先輩警官はもう外に出ているらしい。急いで後を追った。

 もし、彼らがまだ生きているのなら。
 彼は帰り道でぼんやりと、こんなことを思っていた。

 きっと、再び笑える幸せな時が、彼らに訪れますように。

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