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今年のクリスマスは平日だし特別なことは何もしなくていいか。コンビニでケーキでも買って、家で一緒に食べるくらいで。
昼休み、デスクの上に置かれたスタバのホットコーヒーのスリーブに書かれた「六本木駅で待ち合わせね」というメッセージによって、そんな考えは打ち消された。
――町田くん。
とてもじゃないけど綺麗とは言い難いその文字を、私はさっと両手で覆い隠した。
じんわりと手のひらが温くなる。
――LINEしてくれたらいいのに。こんなの他の人に見られたら、どうするのよ。
向かいのデスクで彼はチョコレート色をしたフラペチーノをすすりながらスマホをいじっている。
甘党の町田くんらしいチョイス。
私の視線に気付くと、いつもの柔和な笑みを浮かべた。目尻にちょっと皺の入る、いつもの人懐っこそうな笑顔。
「あ、高坂さんもこっちがよかったですか? これ、サンタクロースフラペチーノっていうんですよ。良いですよねぇ、クリスマスっぽくて」
「……ううん。コーヒー、ありがと。お金払うから」
「いいですいいです、昨日の会議の件、助けてもらったお詫びで」
「そういうことなら、いただいておくわ」
私が呆れたように笑うと、彼はへへへと頭を掻いた。
定時がきて、ぱらぱらと人が帰り始めた頃、町田くんが先に席を立った。
「お先に失礼します」と言った時、ちらっとこちらに目配せをしてきたけれど、咄嗟に目を逸らしてしまった。
一回り以上も年の離れた彼と付き合っているなんてことが会社で知られたらと思うと、彼のこういうちょっとした行動も気にかかる。
手元の書類から視線を戻さずに「お疲れ様です」と返した。
それからたっぷり十五分、間をあけて私も会社を出る。
地下鉄で六本木駅に着いて、さっき届いた町田くんからのLINEに従って地上へ向かう。
どこかクリスマスに色めきたっているようにも感じる人ごみのなか、六本木ヒルズへの長いエスカレーターの手前で、スーツにベージュのダッフルコートを着込んだ町田くんが立っていた。
首には先週末に一緒に買い物に行った際、一足早いクリスマスプレゼントにと贈ったグレーのマフラーが巻かれている。
そんな些細なことが嬉しくて、くすぐったい。
スマホから顔をあげた町田くんと目が合うと、屈託ない笑顔でこちらに向かって手をぶんぶん振った。
――ほんと犬みたい。尻尾を振っているように見えるわ。
私が小さく振り返すと、町田くんは飛び上がらんばかりの勢いで、より一層大きく手を振った。
町田くんに導かれて六本木ヒルズを進むと、ひときわ混雑した通りに出た。
道路の両側をずらっと並んだ街路樹がイルミネーションで澄んだ白や青に輝いている。
空気が澄んでいるからなのか、小さな光の粒がシャンデリアの硝子のように眩い。
道の先には赤っぽい橙に灯る東京タワー。まるで大きなキャンドルみたいだ。
あまりの美しさに思わず息を呑む。
「けやき坂……綺麗」
「そう。春子さんと一緒に見たいなぁって思って」
頬や耳が痛いほどの寒さも気にならなくなるほど、美しい灯り。
クリスマスだからといって特別なことなんてしなくていいかと思っていたのに、こんな風に素敵な景色を見せようとしてくれた町田くんが愛しくなる。
隣を見るとマフラーに顎を埋めた彼の鼻先が赤くなっていた。
「トナカイ」
「へ?」
きょとんとする町田くんが可笑しくて、私は笑った。
「鼻が赤いから。今日は犬じゃなくてトナカイみたいかなって」
「サンタクロースにはなれないかぁ」
町田くんは顔をくしゃっとさせて鼻をこする。
「なんでサンタ?」
「恋人はサンタクロースなんでしょ?」
「若いのに随分、古い曲を知ってるんだね」
町田くんは「この季節になると流れる定番でしょ」と苦笑して肩をすくめる。
こういう時、年の差を感じてしまって、いけないことをしている気分になる。
こんなに若い子を私なんかが捕まえていていいのだろうか。
将来もあるし、親御さんだってきっとこんな年上の彼女と同棲させるためにここまで育てたわけじゃないだろう。
そんなことを思うと、勝手にちょっと気まずくなってしまって、黙り込んだ。
人の波にのって、ゆっくりとけやき坂を歩く。
立ち並ぶ欅の灯りが清く純粋で、神聖なものにすら感じる。
隣を歩く町田くんをちらっと見上げると、唇から漏れ出た白い息が青白い光に溶けていくのが見えた。
彼は今、何を思っているのだろう。
通りの折り返し地点で、突然、町田くんに左手を絡めとられた。
いつもは知り合いに目撃されるのが嫌で、外では手を繋がないようにしていたのに。
かじかんだ指先が町田くんの温もりに触れて、私の心臓が高鳴る。
もしも誰かに見られたら……なんて思うのに、心の奥の方からむずむずと幸福感がこみ上げてきてしまう。
離さないといけないのに、離したくない。
この指をほどいたら、これからもうずっと外では手を繋げないような気がして。
きっとこんな葛藤しているのは私だけなのだろうけれど。
どうすることもできないでいると、ひんやりとしたものが私の指に触れた。
硬いそれは、ごそごそと私の薬指に移動して、そっと指の根元に収まった。
――うそ。
「俺もサンタになりたくて。春子さんの」
「これって……」
左手の薬指にころんとした丸いダイヤモンドがのった銀色のリングがはめられていた。
けやきに散りばめられた白いイルミネーションのライトにも似た、清廉なきらめき。
一気に心拍数が跳ね上がって、耳の奥にものすごい早さの鼓動が聞こえる。
こんなの、まるで。
「前に言ったみたいな、でっかいダイヤではないけど」
町田くんは頬を掻いて、背筋を伸ばした。
「俺は春子さんとずっと一緒にいたい。会社でだって、外でだって堂々と春子さんの男でありたい。……犬じゃなくて、ね」
彼が照れたように笑いかけてくるけれど、うまく笑い返すことができない。微笑んでみても、なんともいえないぎこちない表情になる。
「恋人がサンタクロースなら、来年はサンタクロースにはなれないと思う。ペットでもなく、恋人以上になりたいから。春子さん。俺と結婚してください」
町田くんのいつになく真剣な瞳と、見つめ合う。
即答したい。でも即答なんかできない。
この、私より十歳以上も年の離れた彼を。
私をブランケットみたいに柔らかく包み込んでくれる彼を。
ペットのようにいつもそばにいてくれる彼を。
どうしようもなく愛しい彼を。
彼と出会ってからの思い出が一瞬で、まるで映画のフィルムのように頭の中に流れ始める。
「でも、まだ二十三歳でしょ。一般的に見たって結婚するには早いよ」
「四月には二十四になるよ。じゃぁ春子さんはいくつならいいの?」
「いくつならって……」
――そんなの、分からないよ。
町田くんは「あぁ! もう!」と焦れたように吐き出した。
その声と一緒に白い息が宙に舞って、光に溶けて消える。
「もう、俺は決めたから。春子さんが、俺のクリスマスプレゼントなの! 黙って指輪受け取って!」
「マフラーは……」
「それも嬉しかったけど、そういうんじゃなくって」
頬まで赤くなった彼がそんな風に言うから、私は初めて彼と関係をもった翌朝に「うん。もう高坂さんがなんて言おうと関係ないです。また来ます」と言って、強引にうちに通い始めたことを思い出した。
いつも温和で私の意見に寄り添ってくれる町田くんだけれど、案外、こういう強引なところがあるのだ。
こんなに好きで好きで堪らなくて、必死に気持ちを抑えようとしている相手にこんなことを言われたのでは、私だってどうしようもない。
――もう降参。
イルミネーションをバックにこちらを見下ろしている、いつになく真面目な顔をした町田くんと、薬指に輝く指輪を交互に眺める。
「……私がもっともっと年をとっても、若い子に行ったりしない?」
「そんなこと、するわけないよ。なにがあっても、ずっと春子さんに忠誠を誓う」
「ちょっと! 忠誠って、それこそ犬じゃない。忠犬ハチ公!」
「え? 渋谷駅のあの犬の? ちゅうけんってなに? その前に、あの犬ってなんなんだっけ?」
その言葉に思わず固まる。
そのあとすぐに、ハリウッド映画にだってなったの知らないの? なんて言いかけて、もう一度、固まる。ほら、こういう時にジェネレーションギャップを感じるんだってば。
「……とにかく」
咳払いして呼吸を整える。
きっともう後戻りなんてできない。
できるわけがない。
だってもう、こんなに。
「犬じゃなくて、サンタじゃなくて。町田くん。これから末永く、よろしくお願いします」
「ぃやったぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
けやき坂に町田くんの雄叫びがこだまする。
「ちょっ……!」
慌ててシーッと唇の前に指をかざす私を、彼は強く強く抱き寄せて「最高。メリークリスマス」と耳元で囁いた。