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 あの日のことは「もぉー、本当にまいったわよ。オタクなのバレたー!って思ったら、あっちもまさかのファンでさぁ。嬉しくて訳分からなくなっちゃって初対面で手を握ってたっていうね」なんて笑い話にしたら、春ちゃんに呆れられた。

「酒井さん、落ち着いてくださいよ。でも、いいんじゃないですか。もしかしたら、これがご縁でお付き合いに発展、なんてことに」
「なるわけないじゃない。私にはヒロくんと仕事があればいいんだって」
「色々あったんだとは思いますけど……ヒロくんは会いたい時に会えないし、結婚してくれるわけじゃないんですよ」
「今日はなかなか言うわね。オタバレして暴走した四十女の話を笑ってほしかっただけだから。はい、いいから仕事に戻る」

 珍しくうちの母親のように口うるさいモードの春ちゃんを給湯室に残して、私はさっさと外回りに逃げ出した。
 恋愛とか結婚とか、まだ可能性のある年齢の春ちゃんをいじるのは良いけれど、もうとっくに可能性もチャンスも手放した私は他人に突っ込まれた話をされるのが苦手だ。
春ちゃんにはいつも「自分のことは棚にあげて」と咎められ、それを聞いていないふりをするまでが、ひとセットのルーティン化していた。

 だって痛い思いをするのは、もう御免だから。
 私が一人で生きていけるかどうかなんて分かりもしないくせに、簡単にそれを別れる言い訳にされてしまうくらいなら、誰かに期待せず本当に一人で生きていく方が気楽だ。
 実態のある男よりも、偶像であるヒロくんの方がよっぽど優しい。
 実際、ヒロくんとどうこうなりたいとか、あわよくばなんて気持ちはもちろんない。
 でも雑誌やなんかで語られるファンへのエールの言葉で、私は十分頑張れる。
 世間が思うほど、未婚の四十歳女性は孤独でも寂しくもないのだ。

 今日はヒロくんの映画の公開初日。
 直帰予定にしていたので取引先との打ち合わせを終えると、まっすぐ映画館に向かった。
 この時間ならレイトショーには余裕で間に合う。
 初日ともあって映画館のロビーは二十時をまわっても女性客で賑わっていた。
 みんな、壁に飾られた大きなポスターの前でスマホを構えて写真を撮っている。
 前売り券をネットで座席指定のチケットに換えていたので、入り口付近に置いてあった端末で発見処理をすると私も写真を撮る列に並ぶ。
 ポスターと一緒に自撮りする若い子たちを眺めて「あぁ、ここが若さの分かれ道かな」と苦笑する。
 私はとてもじゃないけれど、自分とヒロくんを並べようとは思わない。

 ポスターの中のヒロくんは、おそらくラストの学生役だろうと言われている制服姿で。
 ティーンズ向けファッション誌のモデル出身の女の子演じる主人公が中央に立ち、特撮出身の男性俳優とヒロくんが背中あわせに立っている。
 二人の目線の先には主人公。
 この女の子とヒロくんのダブル主演、人気少女漫画原作の胸キュン必至の恋愛映画だ。
 ――ラスト制服、ありがとうございます!!
 事務所とキャスティングしてくださった方に何百回とお礼を言いたい気分だ。
 宣伝で何度もこの制服姿は見てきたけれど、やっぱりビジュアル最高!
 前のドラマで着ていた学ランも良かったけど、ブレザーが似合い過ぎている。
 もう二十五歳だけど、まだまだ全然いける!と思うはファンだからか。

 そんなことを考えているうちに順番がきたので、そそくさとポスターを撮影すると、パンフレットとビールを買ってシアターに向かった。
 入場開始してから五分ほどしか経っていないのに、すでに八割ほど席が埋まっている。
 ざっと見たかんじ、ほとんどが女性客だ。
 チケットを確認して席につくと、スクリーンに映し出されている予告映像をなんとはなしに眺めた。
 どうかヒットしますように。映画の出来に関係なく、応援のために何度か観にこよう。
 でもおもしろかったら、なお良い。
 以前からヒロくんはもっとお芝居の仕事がしたいと言っていた。
 これが評価されて、俳優としてもっとオファーされるといいな。
 予告が終わり、観賞マナーの注意喚起のアニメーションが流れ始めた頃、空席だった右隣に人が立つ気配があった。
 少しでも邪魔にならないように座り直しながら、ちらっとそちらに視線を走らせる。

「え」

 思わず声が出たのは、私だけでなく相手も一緒だった。
 先週、ヒロくんのファンだと言った、あの本屋の店員。
 中腰の彼と目が合った。
 優しげだった目元が、今は私同様、驚きで見開かれている。
 口をぱくぱくさせていると、彼は小さく咳払いして微笑んだ。

「やっぱり初日じゃないと、ですよね」

 ひそめられた例のハスキーボイスに、私も頷き返す。
 彼が隣に静かに腰を下ろした。
 こんな偶然があるだろうか。
 確かに公開初日だけど、都内に映画館なんて他にもたくさんあるし。
 この映画館だけだって朝から五回は上映されているのに。
 しかも、このシアター、何人入るのよ。
 ざっと辺りを見回しかけて、馬鹿らしくなって首を振った。
 そんなこと、分かったところでどうにもならない。
 スクリーンには映画のオープニングでよく見る、波の打ち寄せる制作会社のロゴが映し出された。

 ――いけない。集中、集中。
 せっかくのヒロくんの主演映画を、こんな偶然で集中できないなんてもったいない。
 私は背筋を伸ばすと、映画に意識を集中させた……のだけれど。
 二時間弱に渡る上映の間、なんだかずっと右肩がそわそわしていた。
 いや、もちろんヒロくんはいつも通り、ううん、いつも以上にキラキラしていたし二十五歳とは思えないほど、やっぱり制服もばっちり似合っていた。
 要所要所で繰り出される壁ドンや顎クイ、バックハグに、それはもう胸がぎゅーっとなった。
 でもどうしても。
 隣に彼が座っていることが気になってしまったし、映画のなかのヒロくんと主人公が手を繋いだ時には唐突に彼の手を握ってしまったことが思い出された。
 ばれないように隣を盗み見る。
 映画の光にぼんやりと照らされた横顔は、とても穏やかそうで。
 ふと「そういえば、まだ彼の名前も知らないんだ」なんてことに気付いてしまった。
 そんなことを考える時点で映画に集中できていないことは明白だった。
 せっかく今日まで公開を楽しみにしていたのに、なんだか損した気分ですらある。
 ……結局のところ、自分のせいなんだけれど。
 上映が終わって、彼にお門違いな文句の一つでも言ってやろうかと思っている内に「このあと、一杯だけどうですか?映画の話もしたいし」などと先を越されてしまった。
 柔らかな笑みに繰り出そうとしたブーイングは引っ込んでしまい「……じゃぁ、一杯だけ」なんて答えてしまう。
 確かに映画の話もしたい。集中しきれなかったとはいえ、ヒロくんのことを語り合いたい。
 金曜日の二十二時半。
 名前すら知らない男だけれどきっとヒロくんのファンに悪い人はいないし、花金に独りで帰ってSNSで感想を呟くよりも、この人と語り合う方がいくらかマシなように思えた。

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