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 翌日には研修生用のファンクラブに入会し、彼がバックダンサーとして入りそうなグループのライブに申し込み、そのために遠征もするようになった。
 アイドル雑誌を定期購読したり、人生で初めてファンレターを書いたりと、ひとまわり以上も年が離れた彼を熱心に応援した。
 リアルな男は裏切るけれど、アイドルは裏切らない。
 ヒロくんを応援するためにはお金だって必要だから、仕事にだってやる気が漲ったし、音楽番組に先輩グループのバックで出演した時なんて一週間以上はウキウキした気持ちでいられた。
 彼は私に毎日を生きる希望をくれる。
 これは大げさな比喩表現なんかじゃなくて、私は本当にリアルな男からは得られなかった幸福感で満たされていた。
 彼はじわじわと人気を集め、三年後には人気研修生たちと五人組グループを結成。その二年後、無事にCDデビューを果たした。
 ハタチになったヒロくんはもうすっかり男の顔になっていた。
 今や若手グループの中でも最多のファンクラブ会員数を誇る人気グループに成長し、今年でデビュー五年目を迎える。
 ヒロくんのことをこの先もずっと応援していきたい。
 推して推して推しまくりたい。
 彼を好きになってからの十年間、毎日がすごく充実していた。デビューしてからは彼をテレビで見られる機会も増えて、その前の五年間よりも幸せだった。
 ヒロくんが私の生活に彩りをくれる。
 だから、私は大丈夫。ジューンブライド信者に腹が立つ時があったとしても、街中で出くわしたドラマみたいな男女のあれこれに遭遇してちょっともやもやすることがあったとしても。
 私にはヒロくんがいてくれるから、大丈夫。


 翌日は鎮痛剤もちょっとお手上げ状態な頭痛――所謂、二日酔いに見舞われたので、休日なのをいいことに半日を寝て過ごた。
 夕方になってから「今日はヒロくんの雑誌の発売日じゃん!」と自分を奮い立たせ、ようやく身支度をして家を出る。
 マンションから自転車で五分くらいの駅前の本屋は、もうすっかり行きつけになっていた。
 二種類のアイドル雑誌は定期購読で自宅に届くけれど、映画情報誌やファッション誌などは本屋で買うようにしていた。
 それだけ某密林で通販するという手もあるのにわざわざ店舗で購入するのは、発売日の前日にフライングゲットできる可能性があるからだ。
 ヒロくんの載るものは一日でも早く手に入れたい。
 掲載が決まると必ず、この本屋で予約し前日に入荷されているか問い合わせ、受け取りに行く。
 来週の金曜日からヒロくんの主演映画が封切られる関係で、この一ヶ月は雑誌への掲載が非常に多く、すでに十冊近くの発売が予定されていた。
 それに加えて彼は宣伝活動の一環でバラエティー番組などテレビ出演も多く、ファンとしては嬉しいような、忙しすぎて身体を壊してほしくないような、複雑な思いだった。
 今日はヒロくんが表紙の女性向けファッション誌が受け取れるはずだ。
 生ぬるい梅雨時の風が頬に当たるのも、ヒロくんのおかげで全然不快に感じない。
 頭痛も弱まってきて、帰ったら思う存分オタク活動に勤しめると思うと気分も良かった。
 映画の主題歌にもなっている、もうすぐ発売される予定のニューシングルを小さく口ずさみながら、自転車を停めて本屋に入った。
 夕方の店内は学校帰りの学生さんが多く、ファッション誌コーナーや漫画のコーナーが賑わっているようだ。
 それを横目にレジまで直行する。
 短いカウンターに古ぼけたポスレジが二つ。
 今はそのうちの一つだけが開いていて、短髪のこざっぱりとした男性店員が応対してくれた。
 予約票を見せると、レジの下にかがんですぐに目的の雑誌を二冊、用意してくれる。
 店員がレジを打っている間に、カウンターに置かれた雑誌の表紙を盗み見た。
 ヒロくんが白いシャツの前をはだけさせながら、ちょっと顎を上げて見下すような目線をこちらに投げかけている。
 浅黒い肌に浮く鎖骨がすごくセクシー。
 うん、良い。すごく良い。
 二十代半ばを迎えて男性としての色気が増しているのが良く表現された写真だと思う。
 やっぱり観賞用と保存用、二冊買いして正解だったー!!

「千三百八十円になります」
「カードで。一括でお願いします」
「かしこまりました」

 値段を読み上げるハスキーな声で我に返って、クレジットカードを差し出した。
 いけない。盗み見るつもりが見入ってしまっていたなんて。
 視線を意識して店員に向けると、レシートとカードを手渡そうとする店員の手が止まる。筋張った痩せた手だった。

「あの」

 目の下に薄く皺が入ってる。同年代か、ちょっと下くらい?

「あの」
「はい?」
「違っていたら、すいません。もしかして、大翔くん、お好きなんですか?」

 その瞬間、私だけ時が止まったような気がした。
 大翔くん、お好きなんですか?
 大翔くん、お好きなんですか?
 大翔くん、お好きなんですか?
 大翔くん、お好きなんですか?
 頭の中に彼のハスキーボイスがこだまする。
 心の中で絶叫した。
 ――やめてぇーっっ!!!!
 アイドルオタクになってから早十年。
 紗栄子や他の友人や家族や、春ちゃんには自分から布教する勢いでヒロくんの話をしていたし、何も恥ずかしいなんて思っていなかった。
 しかし赤の他人、ましてや男性にそれを知られるのは憚られる。
 しかもこの年で独身だってことが分かれば尚更『行き遅れたおばさんがアイドルオタクなんて痛い』などと思われるような気がして、知られたくはなかった。
 こんなにがっつりヒロくんが表紙の本を二冊も買っていたらバレバレかもしれないけれど、客の買うもので考察なんてしないでほしい。
 恥ずかしい。穴があったら入りたい。
 しかも今日買ったファッション誌は二十代女性向けのものだ。
 こんな年で年齢対象外の雑誌を、アイドルのために買っているなんて思われたら……。
 押し黙っている私に店員が早口で言った。

「いや、あの。以前も大翔くんの雑誌のご予約を頂いていたので。……実は僕もファンなんですよね」

 彼がハスキーボイスでそう言って、ちょっとはにかんだ。
 嘘。待って。本当に?
 止まっていた時間が突然、動き出す。

「え。誰のですか?」
「え。大翔くんのですけど……」

 さっきまでの恥ずかしさが一気に吹き飛ぶ。自分でも顔がぱぁっと明るくなるのが分かった。
 ――貴重な男性ファン、発見!!!
 疑似恋愛するファンが多いからか、女性アイドルのファンに男性が多いのと同じく、男性アイドルには女性ファンが多い。
 男性ファンもいることにはいるが少なく、ヒロくん本人も「たまに男性の方からファンですって言われると、男としてすげぇ嬉しい」と言うくらい、貴重である。
 同性から憧れられ、応援してもらえることは、同じ男性として誇らしいのだとかなんとか。

「ファン。ファンです!デビュー前からのファンなんです!かっこいいですよね、ヒロくん!男性ファン、初めて出会いました!すごい!嬉しい!あの、なんか、ありがとうございます!絶対、ヒロくん喜ぶと思います!」

 私だっていちファンでしかないのにヒロくんの代わりにお礼を述べたい気持ちがあふれ出て、思わずまくしたてていた。
 店員は目をぱちくりさせて固まっている。

「あ、あの」
「はい?」

 彼の眉毛が困ったように下がった。

「……手、大丈夫ですか?」

 視線を下に落とす。
 彼の手が私の両手で握りしめられていた。
 ――ごつごつ、してる。
 一気に頬が熱くなった。頭に血が上る。
 きっと血圧だって急上昇しているに違いない。
 慌てて手を離した。

「すいません、すいません、すいません。あの、これは、違うんです。ヒロくんの感謝の気持ちで……」などと今度は訳の分からない謝罪を繰り返すと、店員が思いきり吹き出した。

 唖然とする私を前に、涙が滲むほど笑っているのか肩を震わせながら目をこすっている。

「こちらこそ、申し訳ござません。僕の周りにはあまりファンがいないので、嬉しくてつい話しかけてしまいました」

 彼はビニール袋をがさがさ言わせながら、雑誌を袋に収める。
 何年ぶりかで異性に触れたせいで、まだ心臓の音は落ち着いてくれない。

「お話できて良かった。映画、もうすぐ公開で楽しみですね。またのご来店をお待ちしております」

 もう何と返していいのか分からなくなって、首を上下にこくこく振った。
 ロボットみたいにぎこちない動きで一礼して、出口に向かう。
 背後で「ありがとうございました」と苦笑交じりのハスキーな声が聞こえた。

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