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「疲れたぁぁ。一気に四つも報告書あげろだなんて、高坂さんホント鬼」

 二十時半をまわった人影もまばらなオフィス。
 私の横で、犬がうーんと伸びをした。
 椅子がギシッときしんだ音をたてる。
 犬と言っても本物の犬じゃない。
 多数の女性社員から犬と例えられて、いつもなんやかんやと甘やかされている町田くんだ。
 腕まくりしたワイシャツの袖からのぞく腕に薄く血管が浮いているのが見えた。

「で、終わったの?サボってると飼い主にチクるよ」

 同い年で同期入社なせいか、町田さんの親しみやすい雰囲気のせいか、こんなことを気安く言っても、彼は怒らない。
 気を悪くするどころか、こういう女性陣からの犬呼ばわりにも、なんならウェルカムといった様子だ。

「全然終わらない。サボってないよ。言わないで。高坂さんに嫌われたくない」
「町田くん、高坂さんに本当に懐いてるもんねぇ」
「懐いてるって犬みたいだね。うまいね」

 うまいねってなに、うまいねって。
 町田くんといい、木原さんといい、うちの部署は変わった人が多すぎる。
 ため息をついて見積書の作成に戻ると、今度は思い浮かべたばかりの木原さんが営業先から戻ってきた。

「お疲れ様です」
「おつかれ」
「今日は直帰じゃないんですか」
「やり残したことがあるんだ」

 木原さんは私のはす向かいの席に座るとパソコンを起動させた。
 そこに町田くんがちょっかいをかける。
 やっぱりサボってる。

「木原さん、残業、もう今日は僕たちだけですよ」
「ああ、そうみたいだな」

 その言葉に周囲を見渡すと、確かに他の社員はもう退社したようで白い蛍光灯に照らされた広いオフィスががらんとしていた。

「ほら、お歳暮で配られたビール、給湯室の冷蔵庫に残ってたじゃないですか」

 私は町田くんの言わんとしていることが分かって、呆れた。

「町田くん、さすがにそれは……」
「えー、だって余ってるんだよ?誰も持ち帰らないなんて奇跡的でしょ?」

 うちの会社は社宛や営業担当宛にきたお中元やお歳暮の類は、社員に配られることになっている。
 持ち帰り自由で、黙っていても勝手にはける。
 確かに彼の言うように、酒好きの多いこの職場で缶ビールが残っているなんて珍しいことだった。

「木原さん、彼女さんとかいるんでしたっけ?この後デートとかならあれですけど……」

 無視してカタカタとキーボードを鳴らしていた木原さんが、ふとモニターから視線をあげた。
 例の無味乾燥な目が町田くんを捉える。

「そんなものはいない。……たまにはいいな。飲もうか」
「ちょっと木原さん!」
「やったぁぁぁ」
「いいんですか?町田くん、本当に飲んじゃいますよ?」
「たまにはいいだろ。沢井も飲むか?」

 呆れはてている私を無視して、二人は席をたった。
 町田さんのウキウキした背中と、しゃんと伸びた木原さんの背中が給湯室に消えていく。
 社内で就業後に酒盛りする社員がいると聞いたことはあったし、そういうところに関しては何故か緩い職場で、まぁ大きい声では言えないけどたまにはいいよねなんていう雰囲気だったけれど。
 実際にオフィスで飲酒する人たちを、私は初めて見た。
 意気揚々と戻ってきた二人の手には神獣のイラストの入ったロング缶のビールが二本と、私のマグカップ。
 ディズニーで買った、ミッキーマウスの絵柄の入ったものだ。

「二本しかなかったからさ、沢井さんは俺と半分こね」

 町田くんにずいっと手渡されたマグカップには、すでにビールの泡がたっていた。
 アルコールのにおいがふわっと鼻先を掠める。
 ――しょうがないか。

「いただきます」
「乾杯!」
「ん」

 最近、飲んでばっかりだなぁ。
 もう仕事にならないかとパソコンを閉じて、ジャケットのポケットからスマホを取り出した。
 LINEのアプリを立ち上げてみても、直之くんからのメッセージはきていない。
 トーク画面はあの最低すぎる初デートのあとの、形式的なありがとうを送り合った時のままだ。
 あれからもう一週間が経つ。
 音沙汰なしか……。
 向かいの席に移動した町田さんと、木原さんは缶に口をつけている。

「高坂さんに言われてた報告書は終わったのか?」
「実はまだ一件残ってて」

 肩をすくめる町田くんに、木原さんは目を細めた。

「相変わらずだな。町田は高坂さんに叱ってほしいんだろう」
「まさか。そんなM気質じゃないですって」
「どうだか。町田くんって高坂さんに構ってほしいっていつも顔に書いてあるよ」
「嘘……」

 私がからかうと、町田くんが頬をペタペタと触った。
 漫画のようなベタな反応が、ちょっと可笑しい。
 しかし彼といい、先日の木原さんといい、どうして高坂さんのことをこんなに持ち上げるのか。
 私にとっては婚期を逃して仕事に邁進する女性にしか見えないのに。

「高坂さんの、どこがそんなにいいんですか?」
「……沢井はいつもあけすけだな」

 無表情なくせにどこか呆れたような風情の木原さんを、町田くんが「まぁまぁ」ととりなした。

「高坂さんって面倒見いいじゃん。俺がどんなにへましても、すっごい叱りはするけどちゃんとフォローもしてくれるし」
「まぁ、そうだけど」
「それに、俺らと同期の……えぇと、なんだっけ、あの子。営業三課の」
「飯田さん?」

 突然出てきた同期の名前に、私は首を傾げた。
 飯田小百合は同じ営業部でも営業三課に配属された、物静かなかんじの子だ。

「あぁ、そうそう。その飯田さん。高坂さんさ、他の課なのに、落ち込んでるのを察して昼休みに声かけてたよ」

「……そういえば、下のスタバで二人が一緒にいるところ見かけたかも」
「あの子だけじゃないよ。高坂さん、なんだかんだ色んな後輩の相談にのったり愚痴につきあったりしててさ。すごいよなぁ」

 黙って聞いていた木原さんが、小さく笑った。

「高坂さんは仕事ができる人だが、それ以前に周りをよく見ていて、気が利く人だ。クライアントの担当者に子供が生まれると聞けばお祝いを用意し、結婚をすると聞けば花を贈る。先方が風邪で打ち合わせがリスケになった時には、栄養ドリンクや葛根湯なんかを渡していた」

 町田くんが満足気に頷いている。

「気配りがとにかく細やかで、他の営業がつけいる隙がない。先方が、次もまた必ず高坂さんでお願いしますと言ってくるんだ」
「そんなに……。すごいですね。高坂さん」

 素直に口にした驚きの言葉に、木原さんが鼻を鳴らした。

「沢井はそういうことさえ、気付いてなかったのか」

 ――嫌な人。

「合コンと男にしか興味ないんだもんな」
「木原さん!」

 町田くんが慌てふためいて彼の言葉を遮った。
 ――なんでそんなこと言われないといけないの?
 あの日と同じ怒りが胸に湧き出てくるのに、確かにその通りだと思う自分もいる。
 だってこの会社に入ったのだって、結婚相手の男を見つけるためだ。
 そしてこうして話を聞くまで、私は高坂さんのそんな側面を知ろうともしていなかった。
 木原さんの言葉は、なにも間違ってはいない。
 私は苦々しい気持ちで、ビールをあおった。

「木原さん、いくらなんでもそんな言い方……」
「本当のことだろう」
「……そうですね。確かに、私は上辺でしか高坂さんを見ていなかったと思います」
「沢井さん……」

 なぜか町田くんが私よりもしょぼくれた顔をしている。
 木原さんは相変わらずだ。自分が事の発端のくせに、我関せずな顔で缶を傾けている。

「で、この前の医者との合コンで釣れた男はいるのか?」

 木原さんの変化球に私は眉間に皺を寄せた。

「医者と合コン?!沢井さんすごい!」

 本当に犬だったら、尻尾をぶんぶん振っているんだろうな。
 そう思うほど、町田くんの瞳は好奇心で浮かれている。
 感情の忙しい人だなぁ。

「なんでそんなこと木原さんに話さないといけないんですか?」
「酒の肴」
「はぁ?」
「き、木原さん」

 また一瞬でしょぼくれモードに戻った町田くんが困り果てたような声をあげる。
 町田くんはこんなに分かりやすいのに。
 私は心底、木原さんという人が分からない。

「さっきから、ちらちらスマホを気にしているだろう。それなのに、別に早く帰ろうとしているわけではないようだし、どうせ男から連絡がこないんだろう?」
「なっ……」

 言い当てられて私は口ごもった。
 ――なんで、そんなことまで分かるの。

「あれから会ったのか?」
「……一度」

 私は渋々、頷いた。
 どうしてこの男にそんなこと……とも思うのだけれど、男心を聞いてみたい気もしたのだ。

「ふーん。どこで会った?」
「相手の最寄り駅の月高屋で」
「月高屋?!月高屋って、あの?お医者さんなのに?それ、全然、デートっぽくないね」

 驚いたように目を丸くした町田くんは、そう言ってしまってからハッとしてばつの悪そうな顔をした。

「で、そのあとは?」
「彼の家に行きました」

 デスクの向こう側で、木原さんの切れ長の目が私をじっと見つめた。

「遊ばれたな」
「そう思いますか?」

 木原さんを缶に口をつけて、頷いた。

「金を持ってるはずの男が、初めて二人で会うのに安い店に連れて行くのは、ものすごく節約家なのか、お前にその程度の価値しかないと思っているかのどちらかだろう」
「ちょっと、本当に言い過ぎじゃないですか?さすがに沢井さんに失礼じゃ……」
「いいですよ。続けてください」

 もう頭に血が上ることもなく、むしろ冷めた気持ちで聞いていられるのは、きっと自分でもそんな予感がしていたからだ。
 町田くんはやっぱり私よりもしょんぼりしている。

「その男は普段からそんな生活をしているのか?」
「違うと思います。良い時計もつけてたし、普段飲むと言っていた店ももっと高そうなバーとか、そういう場所でした」
「じゃぁ、後者か。沢井は安い女だと、金をかけるだけの価値がないと思われたんだな」

 はっきりした物言いにも、悔しくはあったけれど腹はたたない。

「で、家まで行って何もなかったわけじゃないな?」

 頷くと「あぁ…」と町田くんが情けない声を出した。

 私よりよっぽど心を痛めていそうな態度が、何故だかちょっと笑える。

「それで連絡がこないなら、もうその男のことは諦めろ。そこからお前が本命に這い上がれる確率は、ほぼない」

 断言して、木原さんは手の甲で口を拭った。

「お前がなったのは、そいつの唯一無二の女じゃなくて、ただのセフレだよ。モテるのと、やれそうな女だと思われるのは、違う」

 そんなの、本当は分かってる。自分でだって、分かってる。
 でも他人の口からそこまではっきり言われると、さすがにショックだった。
 顔が自分でもさっと紅潮したのが分かる。
 いたたまれなくて、この場から今すぐ逃げ出したかった。

「沢井は上辺でしか相手を見ない。だから、お前自身も上辺でしか見てもらえないんじゃないのか」

 ――だめ。もう、無理。

「……お先に失礼します」

 バッグを掴んで立ち上がると、二人を見ることもなく小走りにオフィスを出る。
 後ろで犬が何か言ったような気がしたけれど、振り返らなかった。
 あ、マグカップだけは片づけてくれば良かったな。
 こんなに余裕がなくて、馬鹿みたいだ。
 悔しくて情けなくて、涙も出ない。

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