私が恋愛をやめたワケ
「俺、神崎さんのことが好きなんだ。だから……付き合ってほしい」
古関君とは、大学時代の同級生だった。といってもマンモス校で学部が違うから、大学四年生の夏に共通の友達に紹介されるまで、お互いの存在を知らなかった。自分の趣味や学業に夢中で、恋愛とは無縁の学生生活を送っていた私にとって、古関君の存在はオアシスのようだった。サークルの話、アルバイトの話、旅行の話。これまでの人生において、私がほとんど経験してこなかったことを、古関君はたくさん経験している。それだけに、彼の話はとても興味深く、メールアドレスを教えてもらってから、毎日のようにやりとりをしていた。
そしてやり取りを始めて一週間後、「いつまでもメールばかりって言うのもあれだし、一度会って話そうよ」と古関君に言われたのをきっかけに、人生初めてのデートを経験した。
「もしかして、神崎さん?」
「あっはい!えっと、古関君……?」
「そうそう。いつもメールで話している古関です、初めまして」
花柄のパフスリーブシャツに、レモンイエローのスカート。メイクはまだ慣れていないから、薄くファンデーションを塗って、マスカラをちょっと付けたくらい。その時、できる限りのおしゃれをしてデートに向かった。
古関君は、メールでの印象よりも、明るくてニコニコした人だった。優しそうな感じはあったけれど、何となく真面目でクールなイメージがあったのだ。
「敦子から神崎さんの写真もらってたけど、本物の方がよっぽど可愛いね」
メールで「行きたいね」と話していた店へと向かう途中、不意にそんなことを言われた。
「えっ!? そ、そんなことないよ!敦子ちゃんの方がよっぽど可愛いし……」
もともと、自己肯定感が低く「可愛い」なんてお世辞でも言われたことがない私は、褒め言葉をどう受け取ったらいいのか分からず、ただ否定するばかりだった。それでも古関君は優しく「そう?俺は神崎さんの方が好みだけどな」とフォローしてくれた。多分、社交辞令かもしれない。けれども恋愛経験がなさすぎる私は、正直言ってかなり嬉しかったのだ。きっと嘘だろうなとは思いつつも、心の中ではときめいていた。これが恋の自覚だった。
古関君はそれからも、私のことを「可愛い」と褒めてくれた。それが本心なのか、正直なところよく分からなかったが、古関君の言うことを信じてみよう、そう思った。
特に大きなケンカや価値観のずれもなく、初デートから一月後、プラネタリウムデートの帰り道、冒頭の告白をされた。
もちろん私に断る理由などなく、むしろ「こんな私でいいのかな?」と思いつつ、お付き合いがスタートした。お互いに卒業論文や研究があるから、会うのは二週間~一カ月に一回ほど。二人が住む場所の中間地点の駅で待ち合わせをして、夕飯を一緒に食べる。手はつなぐし、キスも別れ際にするけれど、それ以上の進展はない。そんな清いお付き合いをしていた。
古関君と付き合っている間、自分から「会いたい」「寂しい」などと口にすることはなかった。もちろん、メールでも。というのも、卒業試験や就職活動を控えた大切な時期。相手の邪魔になるようなことだけはしたくなかったのだ。
それに、古関君自身も、自分のペースを大切にしたい人のようだと感じていた。だから、極力邪魔はしないよう、自分なりに気を使っていたつもりだった。それも今思えば、ただのエゴなのかもしれないが。
私の就職活動がひと段落し、古関君の研究が佳境に差し掛かるころ。古関君は一度故郷の熊本へと帰省した。これからますます研究が忙しくなるだろうし、そうなれば実家に帰れる機会もいつになるか分からない。それはさすがに寂しいだろうなと思い、忙しくなる前のほんの息抜きになればと笑顔で見送った。
それから二週間後、古関君が熊本から帰ってきた。久しぶりに地元に帰省できたのが嬉しかったのか、デートでも帰省したときの話をたくさんしてくれた。
「実家の母が作った料理がおいしいから、今度私にも手料理を作ってもらいたい」「妹に彼氏ができたようで、兄としてはどんな人なのかが気になる」などなど。それと、帰省したときに再会した友達についても話をしてくれた。
「そういえば、小学校の同級生に久しぶりに会ってきたよ。結構変わっていたけれど、相変わらず元気そうだった」
いつもの笑顔を崩さず、懐かしそうに帰省の思い出を語る古関君。
「そうなんだ。友達と何かして遊んだの?」
「車でご飯に連れて行ってもらって、その後花火をしたよ。あ、もちろん車に乗せてもらったぶん、食事代は僕がおごったけどね」
「へえ、花火かぁ。楽しそう」
このときはまだ、何の疑問も抱いていなかった。車でご飯に、その後花火。てっきり、男友達と複数人で会ったのだとばかり思っていた。
そんな帰省から数ヶ月経ち、古関君と付き合ってから初めての冬が訪れた。就職試験が終わり、卒業を控えるのみとなった私は、同じ学部の友達たちと卒業旅行の計画を立てていた。古関君と旅行に行きたい気持ちもあったが、大学院に進むことが決まった古関君は、この時期も変わらず研究を続けていた。だからきっと、二人で旅行に行く余裕なんてないと思っていたのだ。
そんな忙しい古関君から、よく聞かれるようになった「地元の話」。特に友達に関する話が多く、「卒業シーズンだから、地元の友達と同窓会を開きたい」と言っていた。
「古関君がそんな風に言うの、めずらしいね」
「そう?最近、地元の友達と連絡取ってて、皆で会いたいねって計画を立てているんだ。……でも、仕事をしている友達もいるし、就職先の都合で早めに仕事を始める友達もいるから、なかなか予定が合わなくてね。結局二人になりそうなんだ」
「その連絡を取っているっていう友達と?」
「そうそう」
「その人って、どんな人なの?」
「どんな人って、同級生の女の子だよ」
「女の子?私、てっきり男友達だって思ってたけど、女の子だったの?」
「そうだよ。小学校六年生のとき、同じクラスだった女の子」
古関君が、私の知らないところで地元の同級生の女の子と連絡を取っていたなんて。知られざる真実にただただショックだった。
「え、私、その話聞いてない……」
「ごめん。ただの友達関係だし、言う必要がないと思ってた」
「男友達なら別に気にならないけど……。人が集まらないなら、その子と二人で会おうとしているんでしょう?それって、デートじゃない?」
自分の感覚では、男女二人で出かけることはデートだと思っていた。私が古関君だったら、まず一対一でデートなんてしようと思わないし(そもそもきっかけがないし)、恋人に悪いなと思う。でも、古関君にはその感覚がないのだろうか。
「そうかな?友達同士だし、相手には彼氏がいるから何の心配もないよ」
「それはそうかもしれないけど……。相手に彼氏さんがいるのなら、なおさら二人で会うのは良くないと思う」
「うーん、特に気にしてない感じだったけどなぁ」
「お友達さんは気にしないかもしれないけど、彼氏さんは気にするんじゃないかな。それに私も嫌だよ。彼氏が他の女の子と二人きりで会うの。古関君からしたらただの友達かもしれないけれど、相手はどう思っているのか分からないし」
「そっか……」
これでどこまで伝わったのかはわからないが、少なくとも言いたいことはきちんと伝えたつもりだ。
「それと、今の話で気になったんだけど、前に話してくれた地元でご飯食べて花火した人と、もしかして同じ人?」
「あ、うん。そうだよ」
「そうなの?同級生の女の子の車に乗せてもらってご飯食べに行って、二人で花火したってこと?」
「まあ、そうなるけど」
「それって……」
「浮気」。そんな言葉が脳裏をチラつくけれど、どうしても信じたくなくて、その言葉は言うことができなかった。ショックで、胸がずしんと重たくなる。普通に話したいのに、声が震える。
「……古関君は、同級生と普通に二人でご飯を食べて、花火までするの?」
「まぁ、ほかに誘う人もいなかったし。同級生だしね」
同級生なら、二人で会ってもいいの? 古関君にとっては普通のことなの? 恋愛経験なんてほとんどないから、何が普通で、どこからが浮気なのかまったくわからない。けれども、この胸が痛むのは、古関君と同級生の女の子の関係が気になるからにほかならなかった。
「古関君は、私がそういう、同級生の男子とかと二人でご飯とか行っても気にならない?」
「そういう機会があるの?」
「いや、すぐにはないけど……。もしあっても、何も気にしないの?」
「まあ……りおなちゃんだし?」
そう言って、ニヤリと笑う古関君の表情を、私は一生忘れないだろう。古関君の本性を見たような気がした。
それから何となく、私たちの関係は気まずくなっていった。というよりも、私が古関君に対して、一方的にモヤモヤするようになってしまったのだ。でも、本当の関係を聞く気にはなれなかった。気にはなるけれど、古関君のことだ。するりとかわしてしまうのだろう。まともに受け合ってもらえる気がしなかったし、私のことなんてどうせ下に見ているのだろうという気持ちが強くなってしまった。
私にはもったいないくらいの素敵な人。だからこそ、こんな私と付き合うなんて、やっぱり古関君には裏があるんだ。そんな勝手な妄想をしては、一人悩みの淵へと落ちていった。
けれども、古関君の浮気疑惑を周りの友達に相談することはできなかった。古関君を紹介してくれた敦子にも、だ。もしかすると、私の思い違いかもしれない。そんな疑念がまだ払拭できていなかった。もし、本当に何もなにもないただの同級生だったとしたら?お互いに友達付き合いとしか考えていないとしたら?その可能性がぬぐい切れない以上、勝手な疑惑を話して事を大きくするのも気が引けたのだ。
古関君の態度は、あの日を境に少しずつ変わっていった。私への当たりが強くなったというか、下に見る感じが強くなっていったのだ。
「りおなちゃんって、可愛くないよね」
「地味だよね」
「もう少し女の子らしくしたら?」
一つ一つの言葉に、いちいち傷ついては「それなら、どうして私なんかと付き合っているんだろう?」という気持ちでいっぱいになっていた。それでも、自分から別れを切り出すことはできなかった。古関君に振られたら、自分には何もなくなってしまう。もう、自分と付き合ってくれる人なんていないかもしれない。半ば縋るような感情だった。
付き合い始めの頃は、自分がこんなにも弱いなんて知らなかった。私には古関君がいないとダメで、古関君に認められていないと自分の価値を認められなくて、古関君に好かれるこお、ただそれだけが自分の生きている意味のようだった。
そんな重たい私を古関君が良く思うはずもなく、ある日唐突に振られてしまった。
「俺、決めた。りおなちゃんとはこれ以上付き合えない」
「……え?」
「りおなちゃんと一緒にいても、つまらないんだよね。特に可愛げもないし、もうこんなのはお互いにとって時間のムダだから、もうやめよう」
社会人になって三ヶ月、デートの別れ際に突然振られてしまった。正直、その前からメールや電話の頻度は減っていたし、限界を感じていた。でも、こんな風にあっさり振られるとは思っていなかったのだ。
私だから、いけなかったのかな。失恋は、漫画やドラマで見ていた以上に過酷だった。自分が否定されたという悲しくて苦しくて、みじめな気持ち。恋愛ってこんなにも辛いものなのかと、初めて思い知った。
それでも、はじめのうちはこの傷を乗り越えていかなきゃと思っていた。古関君は、もうどうせあの同級生か、もしくはほかの誰かと付き合っているかもしれない。私がもう一度付き合えたなら、という希望はなくもなかったが、その可能性はゼロに近いだろうと思っていた。
だから、別れて一週間後に古関君から電話が来た時は胸が高鳴った。思わず、ありもしないことを期待してしまったのだ。付き合っていた頃から、ずっとメールのやりとりだったから一体着信なんてどんな用事なんだろう?何か話でもあるのかな?もしかして……?
「……もしもし」
「もしもし、りおなちゃん?久しぶり」
「うん、久しぶり」
「最近どう?彼氏できた?」
一週間前に振った元カノに電話して、彼氏がいるのかを確認できる無神経さ。付き合っていた頃は「恋は盲目」とばかりに目をつぶっていた相手の短所が、よく見えるようになっていた。
古関君は、どんな返事を期待しているのだろうか。私が落ち込んで古関君に未練たっぷりなら嬉しいのだろうか?分からないけれど、未練があると思われるのは癪だった。
「どうかな。そっちは?」
しまった、思わず電話が長引いてしまうな、と思ったもののボールを持っておきたくなかったのでつい聞いてしまった。
「うーん、今好きな子がいるんだけど、結構いい感じでさ」
「へぇ」
え?それを私に聞く理由って何?
「ちょっと相談に乗ってほしいんだよね」
相談って?その子と付き合いたいから協力しろってこと?
「ごめん。忙しいから」
「あっはは、そうか。社会人だもんな。まあちょっとくらい、いいじゃん。今日日曜だし、どうせ暇でしょ?」
「……用事があるので」
「あ、なんか怒ってる? 俺が振ったから?」
この人って、こんな感じの人だったっけ……。思えば浮気疑惑の頃から様子が変だとは思っていたけれど、何だかこんな人を好きになった自分がバカみたいに思えてきた。いくら恋愛経験がないからって、男を見る目がなさすぎるよ、私。
「は?」
自分でも予想外に低い声が出て戸惑った。まあ振られたのは私の性格のせいもあっただろうけど、自分から電話して元カノに好きな子の相談乗れって言っておいて、「怒ってる?」はさすがにないよね?
……でも、本心を言えば、この人に振られていなかったら、私はたったこれだけの会話で心乱されることもなかったんだ。きっと私の中にはまだ、自分でも解決できていない思いがくすぶっている……。
「もう時間ないんで。切るね」
「あっ、ちょっと……」
ツー、ツー、ツー
これ以上、何も話すことはない。スマートフォンの終話ボタンを押して、会話を終わらせる。何で期待して電話に出てしまったんだろう。どうしてわざわざ相手のことを聞き返してしまったんだろう。
私はどうして、あんな人のことを好きだったんだろう。ただ振られただけの方がマシだったかもしれない。振られてから、あんなに無神経な人だったと知るなんて。好きな人とのことなんて、勝手にすればいい。私には関係のない話だ。それをわざわざ私にしてくるということは、元カノにマウントを取りたいということだろうか。マウントは、友達間とか同性の間にあるものだと思っていた。元カノにマウントを取る元彼。地獄絵図すぎる。
これも、私が男を見る目がなかったからだ。恋愛経験がなくて、それでちょっと見た目のいい人と出会ったからってホイホイ釣られてしまったのがよくなかった。もう恋愛する気も失せた。どうせ一緒にいてもつまらない女だし、可愛げもないし、そんな自分が誰かに愛される気がまったくしない。それなら自分が得意なことに大切な時間を使おう。今、私が頑張りたいのは仕事だ。
四月に入社したばかりの会社は、規模こそ小さいが、だからこそ一人一人の裁量が大きく新人でも多くのことを任されている。最初は慣れないことばかりだった仕事も、少しずつ覚えはじめてきた。ままだまだ大変なことは多いが、会社の人は優しいし、できればここで長く働いていたい。
そうだ、仕事に生きよう。そして、自分の気持ちが整ったときに恋愛のことは考えよう。そうして、仕事一筋の私が誕生した。