2.求めるからこそ、「得られない」
遠い昔の話だ。
名前を呼ばれ振り返る。気づけば誰かに手を握りしめられ、道を歩いていた。
おぼろげな記憶の中の顔は、どうやっても思い出せない。
けれど繋いだ手のひらが、何かをこらえるように震えていたことだけは、どうしてか覚えている。
この夢を見ると、いつも自分の心は跡形もなく崩れ去ってしまう。
悲しい。哀しい。かなしい。ただ、それだけの声がこだまして、耐えられずにうずくまるしかない。
『さようなら』
そんな何気ない言葉だけを残して、繋いだ手が離れる。空っぽになった手のひらの冷たさに、夢の中で子供はいつも叫ぶのだ。
『いかないで』
叫びはいつも届かない。追いかけても追いかけても、遠ざかっていく背中に触れることは出来ない。もう一度、こちらを振り返ってくれる日は、永遠にない。
わかっていた。その日が本当に永遠の別れなのだと。だからこそ、あの背中を思い出すたび、とうに息絶えたはずの想いが、死にかけた心を軋ませるのだ。
もう、涙も流れないほど古い記憶の夢。
過ぎ去るだけの、かつての夢の残滓。
それでも今、確かに言えることがあるとしたら。
本当は、ずっと悲しかった。
悲しさの意味さえ忘れ、言葉にもならないほど、夢の中の子供は悲しかった。
※ ※ ※
「本当に襲われるとは、さすがに俺も想定外だったぞ」
魔法使いの腕に刻まれた小さな、しかしそれなりに深い傷を見下ろし、騎士は嘆息を漏らした。
よほど強く噛み付いたのだろう。
魔法使いの青白い肌に痛々しい歯型が刻まれ、その傷を中心に赤黒い内出血が広がっていた。
「それは私も想定外だった。まさか触れようとしただけで我を失うとはな」
淡々と告げながらも、口からため息が漏れるのを止めることができない。相手の幼さに油断したのは確かだが、噛み跡を見下ろしても、何を間違ったかよくわからなかった。
何が良くなかったか考えたところで、起こってしまった現実のあとには、後悔にしかならない。
一つ確実なことがあるとしたら、我を忘れるほどの何かが、あの幼い身に降りかかったということだけだ。
「まあ、想像できないこともないよな。あれだけボロボロの格好でこんな辺境の森にいたんだ。幸せに暮らしていた子供ではなかったということだろうさ」
傷の状態を確認し、魔法使いの腕に包帯を巻きながら騎士はつぶやいた。
精悍な面持ちは、珍しく疲れに彩られている。意外に思って魔法使いが見上げても、いつもの軽口は一つも出てこなかった。
仮に、あの子どもが隣国の人間なら、内戦で住むところを奪われて逃げてきた可能性が高い。
ならばその間に、ひどいものを見た可能性は高かった。戦いによって引き起こされる惨劇は、常に狂気を孕んでいる。目にした者の心を砕くような光景が繰り広げられたとしても、何もおかしくはなかった。
長く戦いに身を置いてきた騎士だからこそ、戦争の忌まわしさは理解できるのだろう。
戦いの中で犠牲になるのは、何も戦いに赴く騎士兵士だけではない。
むしろ無力な、身を守ることさえ難しい女子供、老人病人の方が実は多いのだ。
「あれだけ幼いんだ。ひどいものを目にして、心が傷ついていないわけもないよな」
「その可能性を考慮しなかったのは、わたしの手落ちだが……突然襲いかかるのは、さすがに度がすぎるような気がするのだが」
包帯を巻き終わったヴィルは、悄然とした言葉に苦笑いを漏らした。
軽く腕を動かしても、行動に支障はなさそうだった。真新しい包帯は痛々しさしか感じないが、うまく巻かれているおかげで痛みもほとんどない。
見事な手際に礼を口にしたあと、魔法使いはベッドで眠る『それ』に目を向けた。
「私の手落ちなのは確実だが……その顔は何だ? お前は別意見か、騎士よ」
「別意見というか、お前のその傷は、あの子をここに置いていった俺の手落ちかなと思ってさ。想定外とはいえ、この状況を甘く見ていたのも事実だ。少々配慮が足りなかった」
「そこまで責任を持つ必要はないだろう。それはお前の任務ではないし、お前も言ったがあの子供を拾った私の責任だろうが? むしろこの体たらくは」
昨日の会話を思い返しながら告げれば、騎士の顔は情けないものになる。
どこまでも責任をまっとうしようとする性質は、普通なら好ましいものなのだろう。だが正直、この状況においては、苦労性以外の何ものではない。
よく考えるまでもなく、ヴィルがそこまで魔法使いに配慮する理由はないのだ。彼の任務はあくまでも監視であって、魔法使いの面倒を見ることではない。
そう言外に込めたことに、気づいたのかどうか。苦笑いを顔に貼り付けたまま、ヴィルはベッドで眠る子供に視線を向けた。
「イクスに責任云々を語られるとはな。喜ぶべきか悲しむべきか。だが、少なくとも俺がいればお前に怪我をさせることもなかった。それについて俺が悔いていることを理解してほしいわけだが」
そこまで言われると、ひどく居心地が悪い。ごまかすように窓の外に目を向ければ、明るい空が映し出される。
窓辺では、薄青い小鳥が遊んでいる。少し手を伸ばせば、小さな翼を羽ばたかせ、空へと飛び上がっていく。
世界は不平等だと思う。こんなにここは静かなのに、同じ空の下では誰かの悲嘆が響いているなんて。
不平等ゆえの不公平。どんなに誰かを救ったところで、その裏では他の人間が命を落とす。それを悲しいと思ったとしても、この手は多くをこぼれさせてしまう。
だから、たまにわからなくなる。どうして自分は、こんなに弱く、脆いのだろうかと。
「もしかしてお前、私のことを子供扱いしているのか? 一人では何もできない、無力な存在だと思っていたのか?」
「あ? いやまさかそんな。ええと……んー、いやもしかしてそうなのか?」
「否定しないのか! お前帰れ!」
「待て待て、殴るな、早まるな。そんなことよりも、目下の問題はあの子をどうするかだろう?」
魔法使いはがっくりと肩を落とす。だが、ヴィルはそれに構わず、真剣な顔で子供に近づいていく。
ベッドに近づく騎士を横目でとらえて、軽く首を傾げる。魔法で眠らせてあるのだから、気配程度で子どもが目覚めることはない。
眠る子供の顔をのぞき込み、ヴィルは読みきれないため息を吐き出す。開かれることのない幼いまぶたにそっと触れて、彼はこちらを振り返る。
「これは、眠りの魔法か」
「ああ、正直私には手がつけられなかったのでな。眠らせるぐらいしか思いつかなかった。やはり問題だったか?」
「いや、お前にしては上出来だ。眠っていれば少なくとも、無闇に心乱されることもない。だが……ずっと、このままというわけにもいかないな」
そっと騎士は、小さな頭に触れた。大きな手が乱れた黒い髪を撫でても、子供は身じろぎもしない。
幼い姿を痛々しそうに見つめるヴィルに、魔法使いはそっと問いかける。
「目を覚まさせるのか。危険ではないか」
「危険がないかどうかはわからんが、頼む。とにもかくにも、話してみなければ始まらない。俺が話すから、魔法を解いたらお前は離れていてくれ。抑えが必要ならその時は呼ぶ」
「わかった。今、解呪する」
騎士の言葉に頷き、魔法使いは指を鳴らす。
それ以外の行為は必要ない。だが、たったそれだけのことで子供は呻きを上げる。痛みに耐えるように寄せられた、細い眉。それが僅かに緩んだ瞬間、子供はゆっくりとまぶたを開いた。
「…………?」
視線がさまよう。何かを求めるように、二度、三度と。
魔法使いは、騎士の背中越しにその顔を見つめる。まさか、また暴れるのではないか。手をわずかに掲げたが、すぐに下げる。
黒い瞳は、昨夜のように虚ろではない。ただ、目覚めかけのように、ぼんやりと宙を漂っている。
「……お……れは……」
幼い声はまるで老人のようにかすれていた。
ひび割れた唇が紡ぐ声としては、むしろ当然のものだっただろうか。哀れさを感じさせるほどに、その声音は頼りない。
だが、じっと相手を観察したヴィルは、小さく肩を揺らしただけで、それについては言及しなかった。
「目が、覚めたか。気分はどうだ」
「……あんた、は」
「俺はヴィルヘルム・シュタイツェン=ヴァールハイト。一応は騎士だ。名前が長ったらしくて呼びにくかったらヴィルでいい」
「騎士……ヴィルヘルム。ここは、どこ」
「ここはカーディス王国とラッセン公国の国境《くにざかい》の森で、この家はそこの……」
ヴィルが振り返ると、子供の暗い瞳が魔法使の方に向けられた。
魔法使いの姿を目にしても、子供は昨日のような激情を見せなかった。
もしかすると、昨夜のことも覚えていないのかもしれない。疑問に感じたものの、それを問いかける場面ではない。
無言を貫いた魔法使いに、ヴィルは一度うなずき言葉を続ける。
「ここは、そこの細いやつ、イクスの家だ。お前は森で倒れているところをイクスに助けられたんだ。それは覚えているか」
「……わからないんだ。街が燃えて逃げて……必死に走って……どうやってここにたどり着いたのかもわからない」
ボロボロの外見に反して、その口調は思ったよりも明瞭で大人びていた。
もしかすると、体が小さいだけで、見た目ほどは幼くはないのかもしれない。
幼児にしては、あまりにも強い自我を感じさせる声だった。
それはヴィルも感じたのかもしれない。軽く首を傾げると、声を少し低くして再び問いを投げかけた。
「お前は、ラッセン公国から逃げてきたのか」
「そうだ。おれの住んでいた町は焼かれた。武器を持った奴らが町に火を放って……おれはたまたま奴らに気づかれない場所にいたから、なんとか逃げ出すことができた。それを、幸いと呼べるかは疑問だけど」
淡々と語る瞳に浮かんでいたもの。それは幼さに不似合いな自虐的な光だった。
子供の冷め切った横顔に、魔法使いは小さく唸る。どうしてなのか、街を破壊されたことを、子供が嘆いているようには見えない。
だが、その部分に触れるより早く、ヴィルは強く首を振った。
「何を言ってる。生きていることが幸いじゃないなんて、そんな馬鹿げたことがあってたまるか。命を無意味に奪われていい道理はないし、無駄に投げ捨てていいものなんかじゃない」
ヴィルらしい真っ直ぐな言葉に、魔法使いはそっと息を吐き出す。そして気づかれないように、かすかな笑みを浮かべる。
いつも思う。ヴィルは真実、真っ当な『騎士』なのだろう。
戦うことで血にまみれたとしても、根本的な部分が変わることがない。この騎士からは、いつも日向の香りがした。
それは真に優しい感情に育まれたものなのだと思う。
だからきっと、魔法使いとは相容れない。どうしようもなく、違う。
「あんたは、正しい人なんだな」
子供の声音が、穏やかに空気を揺らした。
良い人でもなく、優しい人でもなく。ヴィルを『正しい人』と呼ぶ。
そんな心の在り方は、子供が多くを失ったが為に抱いた、諦観なのだろうか——?
「俺は正しくなんかない。少なくとも今、お前を助けてやれるわけでもないしな。だけどもし、少しは信用してくれるなら——名前を教えてくれないか」
名前を尋ねるという行為は、相手を個として認識するための儀式だ。
それを大切にしているヴィルは、本当に『正しい』世界で生きている。
けれどその正しさは時に、鋭すぎる刃となって心を深くえぐっていく。暗い場所に慣れた目に、太陽の光は眩しすぎるのと同じように、それは真っすぐで残酷すぎた。
子どもは目を伏せる。そしてわずかに笑って、首を横に振った。
「ない」
吐き出された声に、感情はなかった。
突然、存在が消え去ったかのように、幼い顔からは表情が掻き消えていた。
名前を尋ねるだけの行為。それがもたらした現実に困惑し、ヴィルは小さく肩をすくめる。
「……『ない』? それがお前の名前なのか?」
「……違う。名前は、ない」
はっきりと、今度は誤解すらできないように、明瞭に口にする。
短い単語に、ヴィルが大きく呻いたのは、当然の成り行きだった。
「おれに名前なんてものは『ない』。誰もおれに名前をつけなかったから。……『名無し』、だなんて。そもそも名前でもなんでもないだろ?」
自らを『名無し』と呼んだ子供は、なんでもないことのように微笑んだ。