1・脆いカケラ、砕けたこころ
魔法使いは、万能の力を持っている。
人の傷を癒すことも地面を割ることも、さらには国一つ滅ぼすことすらも容易い。
それほどまでに強い力は、忌避され、同時に畏怖もされる。
だからこそ、その力故に――魔法使いは孤独でなければならなかった。
魔法使いがただ一つのものに心とらわれたら、恐ろしいことが起こる。
それはきっと、いずれまた、破滅的な結末をもたらすだろう。
あまりにも強い力を持つがゆえに、何も得られず孤独にあり続ける魔法使い。
そんな魔法使いのことを、騎士は見守り続けることしか、できなかった。
※ ※ ※
監視役の騎士が魔法使いの家を訪れたのは、森で子供を拾った翌日のことだった。
「お前が誰かを助けるなんて、俺は夢でも見ているのか?」
ベッドに横たわる子供を見た騎士は、口を半開きするなり魔法使いの頰をつねった。
監視役の騎士——名をヴィルヘルム・シュタイツェン=ヴァールハイトと言う。
仰々しい名前からわかる通り、彼は名家に生まれた生粋の騎士だ。
だがどういった因果か、こんな辺境で魔法使いの監視役に任命されてしまった不運な男でもある。
しかし当の本人は至って気楽なもので、たびたび魔法使いの家を訪れては、勝手気ままに過ごして帰っていく。
彼がこんな辺境に飛ばされた理由は、その性格が多分に影響しているのだろう。
とはいえ、異常なほど気さくな性格である騎士が——長いので適当にヴィルと呼ぼう——驚く程度には、今回の行動は予想外のものだったようだ。
「夢とは起きて見るものではない。寝てみる見るだろう。そして人の顔をつねるな。自分の頬をつねらねば意味がないだろう。驚いたにしても意味がわからん」
「いやいや、さすがに動揺したんだよ。動物だろうが何だろうが、生きてるものには興味も関心もないお前が! 生きてる人間の子供を拾ってきたんだぞ? これが驚かずにいられるか」
「死んでいるのを拾うのは驚かないのか」
「驚きはしないが、俺の心の中でイクス、お前に対する評価は急降下する」
「……そもそも、降下するだけの余地があったことが驚きだが」
『イクス』。そう呼ばれ、魔法使いは自然と眉が寄るのを感じていた。
その名を呼ぶのは、今となってはこのヴィルだけだった。
他の人間はただの『魔法使い』としか呼称しない。しかし、それについて不満を感じることはなかった。魔法使いにとって、個人の名は大きな意味を持たないからだ。
だからこそ、出会った途端、執拗に名前を尋ねてきたこの騎士の心情が理解できなかった。どうしてそこまで、名にこだわるのか。
どう考えても理解できず、その結果、魔法使いは彼が苦手になった。
そんな風に感じること自体、記憶にある限り初めてのことで。騎士がやってくるたび、どうしても苦い表情を浮かべてしまうのだ。
そのヴィルがやってきて嬉しいはずがない。
けれどこの時に限っては、彼の来訪を魔法使いは両手を広げて歓迎していた。
「で、この状態はどうしたんだよ。ぱっと見た限り、子供を簀巻きにして転がしているようにしか見えないんだが」
「……傷は塞いだ。体力も魔法で戻してある。だが目が覚めるまで放置するわけにもいくまい。だから応急処置として布を巻いてみた」
子供は静かに寝息を立てている。よほど深い眠りなのか、身じろぎもしなかった。
そもそも大きな布を何重にも巻かれていては、寝返りも打てないかもしれない。
そんな状況に一度うなずき、魔法使いは再び騎士に視線を向ける。何か問題があるだろうか。首を傾げたところで、答えは浮かび上がってこない。
「イクスよ。お前にしては良く考えたんだろう。だが、なぜ布を巻いた。布団をかけるとかそういう発想にはたどり着かなかったのか」
騎士は苦笑いを浮かべ、首を振った。
「服がボロボロだったからな」
「なるほど、これは服の代わりなのか。だがなぜ巻いた。魔法で服を作ろうとは思わなかたのか」
「……なるほど。その手があったか」
素直に納得すれば、ヴィルは今度こそ本物の嘆息を漏らした。
「納得したところで、子供の世話を始めよう。まず、イクス。服を作れ」
「なぜ私が主なのだ? お前がすればいい話だろう」
「お前が拾ったんだ。お前が世話するのは当たり前だろう」
当然のごとく言い切られて、反論することもできない。
とりあえず布をほどき、ヴィルの提案通り魔法で服を作る。瞬きする間に出来上がった服を見せれば、ヴィルは首を横に振る。
「だめだ、やり直し」
「なぜだ。服だぞ」
「お前、子供がこんな大きい服を着られると思うのか」
子供に布団をかぶせてやりながら、ヴィルがこれまた当然のように告げる。
服を見下ろし、魔法使いは首を傾げる。着せる分には良さそうだが、痩せすぎの体では横幅が――一人納得し、黙って再び服を紡ぎあげていく。
それも一瞬。今度は子供の体にも合うはず。ちらりと視線を向ければ、ヴィルは頷きながら次の指示を出した。
「なら次は、体を拭いてやれ。いくらなんでもこんなドロドロはかわいそうだろう」
「何だと……」
抗議したところで、勝ち目はなかった。
もはや抵抗する意思もなく、指示通り魔法でお湯を作り、桶になみなみと注ぐ。
またそこでお湯が熱湯だという問題が起こったが、当然のごとくやり直しを命じられる。
そして再びヴィルの指示のもと、手ぬぐいに湯を含ませて子供の体の汚れを拭っていく。
ちらちらとヴィルの顔を見ながら、魔法使いはふと思う。
――そこで見ているならヴィルがやったほうが早いのではないか?
疑問が頭をかすめたものの、ヴィルは頑なに魔法使い自身に世話をさせることにこだわった。
「お前はいい加減、果たすべき責任ってものを覚えたほうがいい」
意味不明な言葉を投げかけて、ヴィルは服を着せてやるように指示を出す。
すでに疲れ果てていた魔法使いは、抗議する余裕もなく、次の行動に移る。
けれど、服を着せるというのは予想外に難関だった。
力の入っていない体というのは、思った以上に重い。いくら小柄な子供とはいえ、着せ替え人形のようにやすやすとはいかなかった。
四苦八苦した結果、ぜいぜいと息を切らし、床に倒れこんだ。
そこでやっと、苦笑いを浮かべながらも、監視役の助け舟が入ったのだが——。
「お前、やたらに慣れているな」
「うちにも子供がいたからな、これくらいは慣れてるさ」
子供がいた? 騎士の台詞に疑問を感じたものの、問いかける余裕はなかった。
てきぱきと服を着せ、ベッドに子供を寝かせて——魔法使いのベッドだが、すでに疑問を挟む余地すらない——全ての工程が終わった頃には、魔法使いは文字通り息も絶え絶えだった。
「情けないな、これくらいで。それで子供が世話できると思ってるのか?」
「……悪いがもうなにを言っているかわからない……」
休みたくても、ベッドはふさがっている。魔法使いは重い体を引きずりながら、窓際に置かれている長椅子に倒れこんだ。
寝心地は硬すぎて最悪だし、窓際は寒い。しかしながら、そんな不満よりも疲れのほうが優っていた。
「だらしがないな、イクスよ。魔法使いなんだから自分の体力を回復させろよ」
「あいにく魔法は自分自身には効果がないんだ……。そんな使い方ができるのなら、私はとうの昔にこんな森から抜け出している」
「……まあ、その。それはともかく」
魔法使いはふっと、自虐的に笑う。ヴィルは軽く瞬きを繰り返し、咳払いする。
一瞬だけだが、鋭いまなざしが魔法使いを射抜く。けれど魔法使いは、気にせず長椅子の上で丸くなる。もうなにもしたくない。背中でそう語り続けると、深いため息が頭上から降ってきた。
「おい、大丈夫か? いい加減生き返れよイクス」
「知らん。もう知らん。お前のせいで、私の命は半分減った」
「なにを大げさな。ほら、俺はもう帰るから。また明日の昼ごろ様子を見に来る」
「ああ……わかった。だからさっさと帰ってしま」
お決まりの台詞は、途中で無残に砕けた。
心のどこかが、バリンと音を立てた。遅れて襲ってきた衝撃に、魔法使いはバネ仕掛けのおもちゃのように飛び起きた。
「待て。なにを言ってる。帰る? 帰るといったか!?」
「だって、もう日も暮れるし。一応、これも仕事だから報告に行かなきゃならんし」
「ふ、ふざけろ。待て。この状況で私一人にするというのか?」
「大丈夫だろ。あんな小さな子供がお前に襲いかかるはずもない」
「そういう問題じゃない!」
「そういう問題だろ。なにを柄にもなく怯えてるんだよイクス? 万能の魔法使いたるイクスともあろうものが、子供が怖くて騎士に泣きつくのか?」
「そんなわけはないだろうが!」
そんなわけではない。ただ、どうにも心細くて不安なのだ。
そんな理由を口にすることもできず、魔法使いは椅子から身を起こし、うつむいた。口にしたところで意味があるとも思えなかった。
どんなに気安く話していたとしても、ヴィルはあくまでも任務だからここにいるのだ。任務以上のことで踏み込んでくることはないし、そもそも彼は友人でもなんでもない。
そう、勘違いしてはいけない。魔法使いは無意識に手を握りしめた。
ヴィルは、あくまでも魔法使いを監視するためだけにここにいる。彼がここに来るのは、魔法使いを気遣っているからなどでは断じてない。
ヴィルヘルム・シュタイツェン=ヴァールハイトは、魔法使いのことなんて本当はなんとも思っていない。
それを改めて意識すると、心は静かに冷えた。そうだ、なにもおかしなことはない。
魔法使いは独りきりだ。後にも先にも、自分のそばにはなにもない。
「わかった。さっさと帰るがいい。お前がいないからといって困ることはなにもない」
「……イクス?」
硬い声を出せば、騎士は眉を下げて名を呼んだ。
だがもう、魔法使いはヴィルを見なかった。窓の外に視線を向けても、その光景を認識することもない。
孤高と呼ばれたこの横顔など、誰も見ることはないのだ。たとえ、ヴィルがここにこの場所にいたとしても、この心に寄り添うことなどありえない。
「そうか。今日は定期報告の期限だからどうしても戻らなければならないんだ。とにかく明日、なるべく早く来るから」
魔法使いはまぶたを閉ざす。何も見えない、何も聞こえない。ただ、心の奥底で、『暗闇』がゆらりと揺れた。
「——ふん、『俺』がそんなに心配か。変わらず愚かで無意味な努力だな、『黒獅子』よ」
何もかもが遠い。何も聞こえないはずなのに、どこかで声が響く。
「うるせえよ『孤高』。別にお前のためなんかじゃない。それに俺はもう『黒獅子』じゃない」
『孤高』。その呼び名に、邪悪な笑い声がかぶさる。
——真に禍々しきは、空に響きし邪なる哄笑《こうしょう》。
其の名は『孤高』。黒き腕《かいな》にて、数多の黄昏を血に染めし者なり——
「同じだろう、ヴァールハイト。いや、ヴィルよ」
「やめろ。お前にそう呼ばれる謂れはない。消えろ、お前はもう——」
——気づけばいつしか、周囲は闇の中に沈んでいた。
光の消えた部屋で、魔法使いは顔を上げた。
すでにヴィルの姿はない。余計なことを言って怒らせたような気がした。けれど意識は霧がかかったようにはっきりしない。
ため息をついて、手を打ち鳴らす。すると部屋に明かりが灯る。世界が切り替わったような光の真ん中で、魔法使いは目を閉じる。
「怖い、か」
たぶん、それも一片の真実。きっと、自分は怖いのだろう。
どうしても理由は、思い出せないのに。
「…………て」
静寂。閉ざされた森、小さな家の中で『何か』の声がした。
かすかな音に導かれるように振り返る。最低限の家具しかない、殺風景な部屋の中。ベッドに眠っていた『それ』が、虚ろな目で天井を見つめていた。
「……気づいたか。お前、気分はどうだ」
ゆっくりとベッドに歩み寄りながら、子供に問いかける。
だが、予想していたような反応はない。子供の虚ろな目は、こちらを見ることもなかった。
一瞬だけ、言葉が通じていないのかと疑った。しかしすぐにそれを打ち消す。少なくともあの時、子供ははっきりと『助けて』と言った。
ならば、意識が混濁《こんだく》しているのだろうか。可能性はなくもない。魔法使いは万能だが、医者のように人体に精通しているわけではない。不具合が小さな体の中で起こっていたとしても、見た目から判断できるはずもない。
魔法は、あらゆる意味で万能だ。原因がわかっていれば解けない問題はない。だが、原因がはっきりしないものに対しては効果が薄くなる。効かないわけではない。単純に力が及ぶ範囲広くなればなるほど、効果が薄く引き伸ばされて弱くなる。
そして、使う側の人間が万能であるわけではない。
脆弱な心を介して行使する力は、純粋な万能をありきたりな奇跡に貶めてしまう。
魔法使いはそれをいやというほど知っていた。
己がいくら万能の魔法使いと呼ばれようとも、人間である以上、その万能には上限があるのだと。
だから自分を過信はしていない。他の人間にどう見えていようと、自分の魔法の限界だけは見誤らない。
「私の声が聞こえているか?」
手を伸ばす。深い理由もなく、小さな額に触れようとした。
子供の目にはそれがどう映っていたのだろうか。相手の心を見通すこともなく、伸ばされた手を。どう見ていたのだろう?
ただ手を伸ばして、触れようとした。何気ないたったそれだけのことが、崩壊をもたらすとは、夢にも思わなかった。
「——あああああああ‼︎」
叫び、だった。何ものでもない、本当にただ『それだけの』絶叫だった。
どうしてこうなったのか、理解できなかった。疑問と驚愕と、少なくない恐怖で体が動かない。それでも身を引こうとした瞬間、小さな体が動いた。
子供が、飛びかかってくる。まるで手負いの獣のようなぎらついた瞳。しかしその中にあったのは純粋な恐怖だけで。逃げ出せたはずなのに、魔法使いはひと時、身動きを忘れた。
伸ばしたままの腕に、小さな歯が当たる。
弱々しかったはずのそれは、鋭い痛みとともに腕を貫いていた。