7 涙の理由
空には黒雲が沸き始め、もうすぐストーレが降り始める時間だった。道沿いの外灯に明かりが灯り、暗くなり始めた周囲を照らす。ピアレンの貨物港に隣接した倉庫群の周辺では、すでに人影は殆ど無い。繁華街ではないこの場所では、人々は家路へと急ぎ、団欒を囲み、そして床に就くのだ。
「遅かったな。待ちくたびれたぞ」
倉庫の中からではなく、背後から声がした。外灯を背にして、背の高い男ギイレス・カダムが立っていた。
「本当なんですか? 俺達をイオラスで売り出したいって」
「話を
「約束だから来ましたけど、まだ信用したわけじゃないですから」
マリグも、
「いいから着いて来い。物音をたてずに静かにな」
ギイレス・カダムは倉庫の扉を開け、中に入っていく。マリグ、ギリム、ドルクの三人は後に続いた。
倉庫の中は薄暗く、足を踏み入れると、無秩序に大小の荷物が詰まれてあり、ゴミのように見える物も散乱していた。ギイレス・カダムは足元の荷物やゴミには目もくれず、いくらか片足を引きずるようにして進んでいく。
壁のように積み上げられた荷物の間を縫うようにして進んでいくと、奥から歌が聞こえてきた。
そのまま進もうとするマリグ、ギリム、ドルクの三人を、ギイレス・カダムが手を上げて制する。
街は
誰もが
自分が何処にいるかも分からない
打算と惰性で時は過ぎ
作り笑いが得意になる
誰も真実なんて語らず
未来なんて信じないというけれど
何かを求めずにはいられない
息を吸って声を出そう
きっとそれが答えになる
息を吸って声を出そう
失ったものは追いかけない
「これって、もしかして……」とギリムが言いかけ、ドルクが「しーっ」と制した。
マリグは息を呑んで聞いている。
街は
誰もが
冷めた心を温めるものもない
手を伸ばしても届かず
熱くなったふりで誤魔化す
誰もが愉快な振りをして
秘めた心を素通りしていくけれど
何かを求めずにはいられない
息を吸って声を出そう
きっとそれが答えになる
息を吸って声を出そう
信じることを忘れない……
歌は終わったらしく、通気口の微かな排気音だけが聞こえる。
ギリムがもう一度、小声で訊いた。
「今の歌、『始まりの日』ですか? 歌詞があるとは知らなかったけれど」
「歌詞は無い。シェリンが好き勝手に歌っただけだ」と、ギイレス・カダムは答えた。
「誰なんですか、シェリンて?」と、ドルクが訊いた。
マリグは押し黙っている。
「シェリンは、“
「
三人は、興奮を抑えられない様子でギイレス・カダムの顔を見た。
“バード”というのは、天空界と地上界を行き来する天界の使者で、その歌声で病や疲れを癒し、恋を芽生えさせると言われている翼のある精霊である。
宗主国ウルクストリアでは、ロウギ・セトなる人物が異世界人からの使者と名乗って現れたという噂であるし、アスタリアでも、宇宙だの異世界だのといった未知のもの、未来的なものが、若者達の関心を集め始めていた。
「“
ギイレス・カダムが、したり顔で言った。
マリグ、ギリム、ドルクの三人は、互いに顔を見合わせて頷ぎ、ギイレス・カダムを見て深く頷いた。
「来い、彼女に会わせてやろう」
ギイレス・カダムが歩き出し、三人もそれに続いた。
見上げるほどの高さに積まれた荷物の壁の向こうに、うっすらと明かりの射す空間が見えた。
開いた窓辺に寄りかかるようにして、黒髪の娘が外灯を見つめているようだった。
娘が振り返る。
マリグは、思わず「あっ」と小さく声を上げた。ストーレ・パラオ“
「ギイレス・カダム、黙って入ってこないでよ」と、アルトの声がした。
それには応じず、ギイレス・カダムが言う。
「シェリン、一緒に組む仲間を連れてきた。マリグ、ギリム、ドルクの三人だ」
シェリンが三人に目を向ける。
マリグ、ギリム、ドルクの三人は、挨拶しようと足を踏み出した。
「仲間なんていらない。これからも一人でいい」
窓のすぐ外から射す外灯の明かりを背後から受け、シェリンは逆光の中で挑むような目をギイレス・カダムに向けた。
「ダメだ。一人じゃあ限界があるし、彼らの演奏は悪くない。無名の人間としては、これ以上望めないくらいにな」
ギイレス・カダムが、鋭い視線で返す。
「無名っていうのは、ちょっと酷いんじゃありません? これでも結構人気はあったんですけどね」
そう言ったのは、ドルクだった。
「
ギイレス・カダムは、三人を横目に見ながら言った。
「あたし、承諾してない。そこにいる無害で幸せそうな三人組と一緒になんか、絶対に嫌だから」
そう言うと、シェリンは開いた窓を軽々と飛び越え、外灯の光が届かない薄闇の中へと走り去った。
電動二輪車が走り去っていく音だろうか。辺りを振動させるような音と共に、幾つかの光が繁華街の方へと消えていった。
「いいんですか、彼女」と、ドルクがギイレス・カダムを振り返って訊いた。
「シェリンならそのうち帰ってくる。本当には逃げられないと分かってるからな」
ギイレス・カダムは平然として答えた。
「でも、心配じゃないんですか? 彼女、僕達より年下ですよね」
「俺達、捜しに行きましょうか?」
マリグとギリムが心配そうに尋ねたが、ギイレス・カダムは鼻で笑った。
「時間の無駄さ。シェリンのことなら俺がちゃんと分かってる。いつもの事だ。心配する必要はない」
ギイレス・カダムはそう言ったが、マリグ、ギリム、ドルクの三人は、顔を見合わせ、頷き合った。
「三人で手分けして捜します」
「好きにしろ。俺は寝る。見つかっても、見つからなくても、この倉庫に戻ってこい。まだ話は終わっていないからな」
そう言うと、ギイレス・カダムは埃っぽそうな荷物の間に身を横たえ、手近にあった毛布を引き寄せて、すぐに寝息をたて始めた。
シェリンは、一軒のストーレ・パラオに居た。
仕切台の丸椅子に腰掛け、
シェリンの隣の空いた椅子に、一人の男が滑り込む。
「以前に使いを送ったんだが」
その男は小声で囁いた。
「覚えがないわ」
見向きもせずにシェリンは答える。
「豪華な深紅の月下蘭を受け取っただろう?」
「知らないわね。なぜそんな物を贈ったの?」
シェリンは一瞬だけ身を固まらせたが、素知らぬ様子で訊き返した。
男は、へへと笑った。
「タレスの港町に居られなくなっただろう? ピアレンや他の町でも、同じことが起こるかもな」
「何のことか分からないわね」
シェリンは、仕切台の上に出された蘇摩酒の硝子杯に手を掛けながら言った。
「シェリンって言うのは本名じゃないんだろ? あんたに恨みはないが、金で雇われてね。だが、あんた次第で寝返ってもいい。あんた美人だし、俺はあちこちに顔が利く。悪い話じゃないはずだ」
シェリンは、男の顔をまじまじと見た。
男がニヤリと笑う。
シェリンは、まだ口も付けていない硝子杯を持ち上げて男の顔に向けたが、思い止まり、その手をゆっくりと降ろした。
「残念だけど、人違いね」
シェリンは丸椅子から立ち上がった。
男は意外そうにシェリンを見上げる。
「帰るわ。せっかくの蘇摩酒、不味くなったから」
シェリンは、仕切台の内側の給仕にそう言って代金を置き、店から出た。男が追ってくる様子は無かった。
店の外の街路は、眩しい電飾に彩られて月の真昼よりも明るく、
シェリンは、嫌いなストーレの闇や雨音を忘れさせてくれる歓楽街を好んだが、その眩しい電飾や喧噪から、今だけは逃れたい気がした。
シェリンの名を呼ぶ声がした。
息を切らしながら駆け寄って来たのは、ギイレス・カダムに紹介されたばかりのマリグだった。
「良かった。心配してたんだよ」
「会ったばかりで、なぜ心配するの?」
シェリンは、表情を変えずに訊いた。
「なぜって、君は女の子じゃないか。君、目立つし、変な奴らに絡まれたりするんじゃないかって、三人で手分けして捜してたんだよ」
「ギイレスに言われて?」
「ギイレスさんなら、倉庫で毛布かぶって寝てるよ」
「そう」とだけ、シェリンは答えた。
「さあ、帰ろう」
マリグは、シェリンの手を掴んだ。
「痛い!」
「あ、ごめん」
謝りながらも、マリグはシェリンの手を離さない。
「手、離してよ」
「ダメだ。きっと君はまた逃げる」
「会ったばかりの貴男に、関係無いでしょ」
「会ったばかりじゃないよ。ハルディ・エアルで会ったよね。あの時から君の事が忘れられなかった。それに、倉庫で君の歌を聞いた。惹きつけられた。こんなことは初めてだ。だから、関係無くなんかない。君の事が好きだから」
シェリンは、目を見張ってマリグを見た。
「冗談は止して。一体あたしの何処が好きだっていうの。あたしの事なんか何も知らないくせに」
「冗談なんかじゃないよ。そりゃまあ確かに、君の事まだ殆ど知らないけれど、僕は本当に君が好きだよ。何かを好きになるのに、理由なんか要らないよね。僕は音楽が好きだけど、ただどうしようもなく好きなだけで、理屈じゃないんだよ。君だって歌が好きで、理屈なんか無いだろ?」
マリグは次第に
シェリンは、覚めた瞳をマリグに向けた。
「貴男は幸せな人ね。一目で相手を信じて、理由無く何でも愛せる。でも、残念でした。あたしには好きなものなんか只の一つも無いの。ストーレも嫌い。月の真昼も嫌い。このエラーラも嫌い。あたし自身も嫌い。歌も嫌い。もう二度とあたしにお節介をしないでよ」
シェリンは冷たい声でそう言うと、マリグの手を振りほどこうとした。
マリグはシェリンの腕を掴んで引き戻す。
「離してよ。お節介は無用だと言ったでしょ」
マリグは離さなかった。シェリンの白い手は冷たくなっていた。マリグはその手を引き寄せ、肩を抱き寄せた。その肩は更に冷たく、マリグにはシェリンが、精一杯の虚勢を張る、か弱い小動物のように思えた。マリグは藻掻いて離れようとするシェリンを抱きすくめ、その唇に口づけした。シェリンは抵抗するのを諦めたようだった。
「僕は本当に君が好きだよ」
吐息のようにマリグが繰り返し、シェリンはその肩を押しやった。
「あたしは、貴男なんか大嫌いよ」
シェリンの黒い瞳には大粒の涙が光り、マリグを突き飛ばすと、身を翻して雑踏へと駆け去っていった。
「シェリン!」
マリグは叫んだが、シェリンは振り返りもしなかった。
何故シェリンが泣くのか、マリグには分からない。そう、まだ何も彼女の事を知らない。
ストーレの雨音は益々激しく、電飾に彩られた街は更に喧噪を増していく。
マリグ等三人が再び倉庫を訪れたのは、ストーレが止んで冠の月もかなり高く上ってからだった。
倉庫の扉は鍵が掛かっておらず、扉を開けて呼び掛けたが、ギイレス・カダムは居ないようだった。
「まだ話が残っていると言っていたけど、練習もここでするんだろうか」
散らかった床を見渡してドルクが言った。
「少し片付けるか。マリグ、窓を開けて来いよ。向こう側にあったよな?」
ギリムに言われ、マリグは積まれた荷物の間を通って窓を開けに行った。
シェリンが壁に寄りかかるようにして外灯を見つめていた、あの窓だ。
窓はすでに開いていた。窓からは月光が射し、床を四角く照らしている。その光の中に、子猫のように背を丸め、シェリンが眠っていた。
「シェリン、帰ってきていたのか」
近寄ろうとするマリグの背後から、誰かが肩を掴んで引き留めた。
「寝かしといてやれ。おおかた宵まで何処かの店で踊り明かしてでもいたんだろう」
マリグが振り返ると、昼用の重そうな外套を着たギイレス・カダムだった。シェリンを探して昼の街を歩き回っていたのかもしれないと、マリグは思った。
ギイレス・カダムは続けた。
「シェリンは、酒か薬でもなけりゃ、ストーレの昼には眠れないのさ。あの音と暗闇が怖いんだと。まあ仕方がない。それほどの過去を背負っている。気の強そうな
シェリンは、窓から射す月の真昼の光にくるまれて、幼い寝顔で眠っていた。
「毛布でも持ってきて掛けといてやれ。風邪でもひかれちゃ困る」
そう言い残して、ギイレス・カダムはその場を去った。
マリグは羽織っていた上着を取り、そっとシェリンの身体に掛けた。
シェリンの頬には、うっすらと涙の筋が残っていた。