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6 エルディナの月

 ロウギ・セトは、トルキル家の強固な水上船の甲板から、月風に吹かれながら、眩いほどの月光に照らされた|水原《カレル》を眺めていた。ストーレが止み、静けさを取り戻した|水原《カレル》の水面には、美しい月影が映っている。
 しかし、残念ながら、この道行は物見遊山ではない。 

 謁見の夜に憲兵隊に捕らえられ、ロウギ・セトは狭い牢獄に十夜以上も閉じ込められていた。トルキル大連は、自分の領地のあるトルキル市の屋敷にロウギ・セトを連れ帰り、自分が責任をもって監視すると願い出たが、受け入れられなかった。代わりに下されたのが、或る条件のもとでの恩赦という処分だったが、恩赦の条件はまだ伝えられておらず、目的地もトルキル大連にさえ伝えられていなかった。

 そして、ラダムナ市のトルキル家の屋敷にて、憲兵による監視付き軟禁状態に置かれた後、今宵の出発となった。ウルクストリアのラダムナ港を離れたトルキル家の水上船は、先航する憲兵隊の水上艦に曳航される形で進み、行き先さえ分からないのである。

「お前はたった一人で、しかも丸腰だった。船団でも組んでやってきたなら、誰もお前の話を疑いはしなかっただろうに」
 ロウギが振り返ると、トルキルが船室から出てきたところであった。その顔色は冴えず、足取りも重く見えた。

「かもしれませんが、その代わり、エラーラの人々は混乱し、危険を感じ、保身の為、私や私の仲間を抹殺しようとしたかもしれません。私一人なら、狂人として放っておいても危害は無い。だから私は今こうして居られます」
 ロウギは淡々と答えた。
「このような状況にあってなお、お前は少しも落胆していないように見えるな」
 トルキルが、溜め息交じりに言う。
「そんなことはありませんが、今の私には、流れに身を任せる以外、何もできませんから」
「テムルルとの確執は今に始まったことではない。テムルルの目的は、この私の失脚だ。お前は家族は居ないと言っていたが、早くに 故郷(くに)に帰るべきだったな。こんな事態になる前に」
 ロウギの身を本気で案じているのか、あるいは他に心配事があるのか、トルキルの表情は深い愁いに沈んで見えた。

「ウルクストリアは、エラーラの長い歴史の中で、長年宗主国で在り続けた。しかし、時代は変わろうとしている。ウルクストリアも変わらなければならない。衛星国や属国の独立を認め、対等な立場でエラーラの新しい伝統を築いていくべき時なのだ。私自身、 矜恃(きょうじ)を保つのには、いささか疲れた。宇宙から来たとお前は言う。宇宙から見れば、エラーラなど小さな星にすぎないのだろう」
 トルキルは、静かに語った。その語り口は、ロウギ・セトに聞かせるというよりも、自分自身に言い聞かせるかのように聞こえる。トルキルは、本当に疲れているのかもしれない。しかし、ロウギ・セトは、敢えてそれを言葉にはしなかった。

「私のことなら御心配には及びません。ここでの任務を終えない限り、私は帰るわけにはいかないし、帰ったとしても、また次の任務に赴くだけなのですから」
 それだけ言って、ロウギは視線を再び空へと向けた。
「折角なので、今はこの美しい景色を楽しむことにします」
 ロウギ・セトの言葉に、トルキルは、少しだけ表情を緩めた。


 離れゆくラダムナ市の透明な天蓋は、月光を反射し、宝石のように輝いていた。幾つかの飛行船が、月明かりの碧い空に浮かんでいる。
 カレル水原のあちこちには、幾つもの水耕農園用浮島が点在し、遠く見晴らせば、ラダムナ市と同じような天蓋都市群が、さながら蜃気楼のように浮かんでいた。

 ウルクストリア人の(いわ)く、エラーラは神が作り給いき、されどウルクを作りしはウルク人なりと。

 それは例え話ではない。この惑星にはただ一つの大陸しかなく、その海岸地帯をエルディナと呼ぶ。エルディナには、最初は何も無かった。夜明けと共にストーレと呼ばれる豪雨が訪れ、日没まで決して降り止むことはなく、山の斜面は削り取られ、平地は水中に没する。降った雨は濁流となり、地表の全てを押し流す。常に豪雨に洗われる土地は養分を蓄えられず、作物も実らなかった。

 人々は、海との境界に水門のある堤防を築き、常に一定量の水が土地の表面を覆うようにした。それが水原(カレル)である。そして水原(カレル)の底の固い地面に杭を打ち込んで浮島を築き、そこを生活の場としたのだ。

 水耕用の浮島は、回りを杭で囲って流れを緩やかにした場所に、マラナス山脈に生える堅糸杉(サイプール)という木の樹皮を編んで作った網を杭で固定させ、その網に水小麦や蓮芋、水流菜原(つるな)といった水性作物の苗を植え付けた。

 居住用の浮島の土台は、堅糸杉の幹にその樹脂を塗り、それを繋いで作られた。
 そして、長年のうちに人々は技術を発展させ、透明な強化合成樹脂の天蓋を持つ水上都市を建造するに至ったのである。

 なぜ彼らは、そうまでしてストーレに洗われるエルディナを居住地に選んだのか。それは、エルディナ以外の地域には全く雨が降らないからであった。山地山脈に囲まれたソルディナと呼ばれる内陸部は、川は勿論のこと水の流れた跡さえも無く、広大な不毛の砂漠なのだった。

 ソリディナは赤道直下付近に位置し、一年中が烈火の真夏である。惑星エラーラの赤道傾斜角度が殆ど零度で四季が存在しないためである。また、砂丘と岩礁の似通った地形が続き、鉄分を多く含んだ岩石の為に方位磁石も機能せず、迷い込めば命は無いという。

 そのため古くから流刑地として使われ、現在でも、砂駝鳥(ソリカ)岩羊(クーヤ)といった乾燥に強い家畜を養う少数の高地民が、周辺部を移動しながら暮らすのみであるらしかった。

 徹底的な湿潤のエルディナと、徹底的な乾燥のソルディナ。一つの大陸上に、このように両極端な気候のみが存在するのは、表面積の約八割を占める海洋と、外縁部に山脈を連ねた大陸の特異な地形、そして、絶えず吹いている強い海陸風の影響に因るものらしかった。

 日中は、赤道直下にあって高温となるソルディナが非常な低圧帯となり、強い風が海洋から大陸に向かって吹く。この温かくて湿った風は、大陸の外縁部に切れ目無くそびえる山地山脈にぶつかり、エルディナに多量の雨を降らせる。これがストーレである。それに対し、言わばすり鉢の内側であるソルディナには、海洋からの湿った空気が流れ込んでくる隙間は無く、したがって雨も降らない。さらに、エルディナにストーレを降らせた風は、乾燥した熱風となって山脈の内側へと吹き下ろし、ソルディナを灼熱の不毛地帯にしていた。

 熱風が吹き下ろす理由とは、端的に言えば、大陸規模での日常的なフェーン現象である。
 海から吹いてきた風は山脈によって押し上げられ、気圧の変化によって膨張して温度が下がるが、水蒸気が凝結して雲になり、雨を降らせる時に液化熱を放出するため、湿潤断熱効果によって温度はあまり下がらない。雨を降らせて乾燥したこの風が山越えすると、山脈の反対側を下りながら気圧の変化によって収縮するが、今度は乾燥断熱効果によって最初の気温以上に温度が上昇する。

 山脈が高ければ高いほど、この上昇する割合は高い。すなわち、山脈を上る時には気温は百フェトル当たり0.5ガル下がり、山脈を下る時には百フェトル当たり1.0ガル上昇するので、気温15ガルの海風は、例えば海抜二万フェトル級の山々が連なるソラリア高原を越えて海抜三千フェトルの麓(この場所の地名は″灼熱の死の谷″と称されている)にまで下った時には、理論上85ガルの熱風となっている。

 乾燥したソルディナは、日没と同時に急速に冷え始める。すると、日中に受けた熱を蓄えた海洋上が今度は低圧帯となり、それまでとは逆にソルディナからの乾燥した風が海に向かって吹き始め、この時エルディナのストーレは漸く止む。このパターンが、エルディナとソルディナの特異な環境を作り出し、さらに助長させているのである。

 エルディナでは日中のストーレの暗闇の故に、ソルディナでは焼けつく熱射の故に、古来より人々は、夜明けに眠り日暮れに目覚め、十二を数える月の光の下で活動し、植物も月の光で光合成を行った。

 エラーラを巡る大小十二の月の周期は、十数時間から三十日まで様々であり、その為、月の見え方は夜々様々であるが、大抵は、月のどれかが満月かそれに近い月齢となる。その月のことを、エラーラでは「冠の月」と言った。
「冠の月」は、ストーレの止む日暮れ前後に東の空に上り、真夜中頃には南中して月の真昼を生み、ストーレの降り始める夜明け前後に西に沈む。月は、エラーラの人々にとって、生活の基盤であり、至上の存在なのだった。

 ゆえに、エラーラでは、月日の区切りも十二の月の名で呼ばれていた。
 エラーラの公転周期は約六百八十七日、自転周期は約二十四時間である。一年は月の名に因んだ十二の支節に分かれ、それぞれの支節は更に二つの干節、即ち、三十日または二十九日間の頭の節と、二十八日または二十七日間の尾の節とに分けられる。

 今宵は五番目の支節メウイーラの尾の節の七日。宗主との謁見の夜から一支節が過ぎようとしていた。


「こんな景色はエルディナならどこにでもあるが、そんなに珍しいか?」
 トルキルは笑顔を浮かべて言ったが、次の瞬間、胸を押さえてよろめいた。
 ロウギが咄嗟にトルキルの身体を支え、手近の椅子まで肩を貸して掛けさせる。
「どうやら私も年のようだ」
 トルキルは、笑顔を浮かべてロウギに礼を言った。
「閣下は、まだお年ではありませんよ。私が色々と御迷惑をお掛けしているので、お疲れなのでしょう。何しろ、私を口実に、お屋敷にまで憲兵が入り込んでいたのですから」

 ウルクストリア政府は、表向きはロウギの件に関し沈黙を守っていた。しかし、トルキルの屋敷周辺には、ラダムナの警備兵が厳重に配備され、日に一度は屋敷内にも入ってきて、ロウギを始終監視していた。テムルル・テイグの思惑が、ロウギの監視を名目としたトルキルへの牽制であることは疑いようもなかった。そして、人の口に戸は立てられないと言うが、ロウギの噂を聞き知って一目見ようとした野次馬達が、騒ぎを起こして取り押さえられることも、珍しいくはなかった。

「案ずるな。諺にある、全ては月光(イーラ)のお導きのまま、と。それよりも中食(なかじき)の時間だ。どうだ、お前も一緒に」
「私で宜しければ、喜んで御相伴させていただきます。しかし、宜しいのですか。私を拘束もせず、船内でこのように自由にさせて」
 ロウギの言葉に、トルキルは朗笑した。
「どうせ船からは出られまい。それに、お前は異世界からの客人だ。本来ならば礼を尽くして歓待すべきところだが、悪く思うな」
 ロウギがトルキルの向かいの椅子に腰を下ろすと、トルキルは、召使いを呼び、中食の支度をさせた。やがて、食卓の上には食前酒の準備が整い、浮豆の塩茹で、醍醐(だいご)と果物の和え物といった前菜が運ばれてきた。
 トルキルはロウギに杯を渡し、甘露酒をなみなみと注いだ。ロウギが杯を飲み干すと、トルキルは喜び、更にロウギの杯を満たした。
「酒の相手が居るというのは好いものだ。今になって思う。息子が居ればとな」
 トルキルは、自分も甘露酒の杯を傾けながら、しみじみと独り言のように言った。
 月の光を背後から受け、老健なるトルキルの顔が、一瞬深い憂いに沈んで見えた。ロウギ・セトは、手にした杯を食卓に戻し、改めてトルキルを見た。
「大連閣下には、御家族はいらっしゃらないのですか」
「この通り独り身だ。姉達は父の言うまま次々に嫁いでいったが、私は父の言いなりにはなりたくなくてな。その父も疾うにこの世には無い。前執事にも最後の最後まで小言を言われたよ。あの世で先代に会わせる顔がないと」
「ゲスデンの父親ですか」
「ゲスデン家は、代々トルキル家の忠実な執事を務めている。現執事ゲスデン・ウムルの父ヌムルは既に他界しているが、ラダムナの屋敷で仕事をする息子のエムルが、もう一人前になった」
 トルキルは、微苦笑を浮かべながら手にした甘露酒の杯を見つめ、ゆっくりとその杯を空けると、再びロウギに視線を戻した。
「セト、お前の家族は?」
「家族は居ません。でなければ、こんな任務には就けませんから」
 ロウギは静かに答えた。
「しかし、故郷にはお前の帰りを待っている者も居よう。恋人や旧友は居ないのか」
「私には任務があるだけです」
 ロウギは淡々と答えた。
「しかし、それでは寂しかろう」
 トルキルは、心から心配するように言った。
「私は記憶も過去も失った人間なのです。懐かしむ過去が無いのですから、寂しいという感情も沸きません」
 トルキルは一瞬絶句し、それから幾分躊躇(とまど)うように口を開いた。
「お前は、取り調べに際し、自分のことについても詳細に語っていたな」
 トルキルは、(いぶか)るというよりも、ただ素朴な疑問として口にしたようだった。
「記憶を失った後に名前や生い立ちを教えられ、それらを記憶しても、実感を伴わないただの符号に過ぎません。その意味で、私には自己の認識は記憶ではなく記録としてしか存在しないのです。別に不都合はありません。この任務には好都合でさえあります。感情に流されることなく、ただ任務の遂行に全力を注ぐことが可能ですから」
「記憶が無いとは、事故にでも遭ったのか」
「死んだも同然だったと聞いています」
 淡々と語るロウギを、トルキルは驚きの表情で見つめ、それから、視線を落として、ほとんど聞こえないような声で呟いた。
「……確かに記憶など無いほうが幸せかも知れぬ……」
 トルキルには、辛い記憶があるのかも知れなかった。
「しかし、お前はまだ若い。これから幾らでも経験を積み重ね、新しい記憶を紡ぐことができるだろう」
 トルキルは、椅子に腰掛けたまま、空を仰ぎ見た。
「今宵は好い月夜だな。金のメウイーラと銀のジュニーラが、ちょうど見頃だ」
 誘われるように、ロウギも空を見上げた。
「月の名前は、どれがどれやら、私にはさっぱりです。何しろ十二もあるのですからね」
「そうだな」と、トルキルは頷いた。
「天蓋都市に住む民人は、お前と同じように月の名など気にしない者も多い」
「お教え願えますか」
 ロウギが請うと、トルキルはもう一度空を見上げ、ゆっくりと指差しながら語り始めた。

「並んで見える一番大きな二つの月が、五番目の月メウイーラと六番目の月ジュニーラだ。それから、大きい方から順に、三番目の月マルーラ、七番目の月リオリーラ、八番目の月アウギーラ、九番目の月セブティーラ、一番目の月エニーラ、二番目の月フェビーラ。セブティーラは遠いし、エニーラ、フェビーラの二つは小さいのであまり良くは見えん」

 ロウギも背椅子にもたれ、トルキルの指差す方向に目を向けた。大きく明るい二つの月が、真上近くから街を照らし、それは、エラーラの人々が言い習わしている通り、月の真昼と呼ぶに相応しい光景であった。月光を映した水原(カレル)の水面は、風に吹かれ、波光は静かに銀色に揺らめいていた。

「小さな月は、大きな星に紛れ、見える場所も一定していない。しかし、 (いにしえ)の人々は、夜空の月や星を方角の目印とし、人生の道標ともし、どんな小さな月の動き、星の動きも知り尽くしていたそうだ。ほかに、今宵は見えないが、四番目の月アビーラ、十番目の月トゥリーラ、十一番目の月エディーラ、十二番目の月フェディーラ」
 トルキルは、遠い記憶を辿るかのように、ゆっくりと月の名前を語った。

 ロウギ・セトは、あの月読祭の夜に聞いた謎の唄歌いの唄を思い出していた。

   マディーラのおくつき奥津城は目覚め
   イーラファーンの巫女は歌う

「今のお話を伺って思ったのですが、十二番目の月がフェディーラなら、十三番目の月は″マディーラ″でしょうね。″マ″は三番目を意味しますから」
 ロウギが訪ねると、トルキルは不思議そうにロウギの顔を見た。
「確かにそうなるが、何故そんなことを尋ねるのだ?」
「ふと思っただけです。十二も月があるのですから、もしかしたら、知られていない十三番目の月が在ってもおかしくないのではと」
 ロウギは微かに笑みを浮かべ、冗談のように答えた。
「なるほどな。エラーラでは、生活に於いても政治経済に於いても月が非常に重要なので、貴族や官吏を目指す者は天文を学ぶ。私も昔、学生の頃に天文を学んだ。天文の館に行き、一定期間天体観測をしたこともある。エラーラを巡る月は十二だが、お前の今の話で思い出したことがある。十二の月は十二の方位を示すという。古い唄にある。『旅人よ、汝マディーラを追い求めん。その月の示せる道を辿りし者、やがて己を知るべし』と。求めても手に入らない夢のようなものを、十三番目の月に例えたのだろう」
「求めても手に入らないもの、ですか」と、ロウギは繰り返した。
「我々は皆旅人だ。自分というものを知り、無謀なことはすべきではないと|諭《さと》しているのだろう。古来、月は天空の神ヴィドゥヤーの目だと信じられていた。月が地上を等しく照らすのは、神がエルディナとソルディナに住まう生き物に温情を施したる証であると言う。我々は月に見守られてこそ生きているのだ」

遙碧(ようへき)の空には大小幾つもの月が浮かび、水原(カレル)の波光は仄暗く静かに銀色に揺らめいていた。この幽邃(ゆうすい)を照らす十二の月は、エルディナとソルディナを、密やかに神の視線で見下ろしていることであろう。

「エルディナとソルディナ。美しい言葉ですね」
 エルディナとは、エラーラの古い言葉で『水の地』を、ソルディナは『火の地』を意味するのだと、ロウギ・セトの植え込まれた記憶は知っていた。エラーラに到着するまで、ロウギ・セトは、この言葉を声に出したことは無かった。口にしてみると、それは、どこか切ない響きを持つように感じられた。

 トルキルの部下ダムセル・ダオルが近付いてきた。
「大連閣下、少し宜しいですか」
 トルキルは、椅子に腰かけたまま、ゆっくりとダムセルの方に顔を向けた。
「かまわぬ。そばへ」
 ダムセル・ダオルは、ささと、トルキルの横に歩み寄り、何かを差し出した。
「出港の直前、水夫の一人が預かったそうです」
 トルキルは、瞳を凝らしてじっと見た。それは、小さな金沙瑠璃の石がはめ込まれた金の指輪であった。指輪の裏側には、何か文字が彫られていたが、磨り減ったそれは、すでに判別し難くなっていた。
 トルキルは目を見開き、それから、そっと目頭を押さえて、ようやく口を開いた。
「誰が渡していったか、名前は分かるか?」
 その声は微かに震えているようだったが、ダムセルは無駄な質問はせず、変わらぬ態度で答えた。
「いいえ、子供のような若い娘で、身なりや言葉遣いからして、おそらく下町の待合い屋の女給ではないかと、その水夫は申しておりました。調べれば素性は簡単に知れましょうが」
「……全ては月光(イーラ)の導きのままに、か……」
 トルキルは、指輪を握りしめ、無意識のように呟いた。先ほどもトルキルが口にした、エラーラに古くから伝わる諺だった。
 ―アリダ!
 小さな叫びのような想いが、ロウギの心の中に流れ込んできた。それは、トルキルから発せられたもののようだった。悲嘆に満ちたその感情に触れた一瞬、ロウギは戸惑いを覚えた。自分の内にも似た感情があるような感覚に襲われ、愕然としたのだ。
 そんなはずは無い、と、ロウギは、胸のうちに閃いた奇妙な感覚を否定した。自分には感情など無い。不覚にも意識の遮蔽を緩めてしまった為に、トルキルの感傷に影響される羽目になったのだとロウギは自戒した。
 もう無駄な時間を費やしている暇はない、行動に移るべき時だ。しかし、誠意に満ちたトルキル家の人々をこれ以上巻き込むのは、人としては許されないであろう。

 甲板の床に視線を落とすと、月光に照らされ、ロウギの影はくっきりと床に落ちていた。見上げると、金色に光るメウイーラと、それよりやや大きい銀色のジュニーラが、少し離れて輝いていた。ほんの少しの軌道と周期の違いのために、どんなに近付いても再びまた離れていく二つの月であった。

 水上船の進む先を見つめていたダムセルが、驚きの声を上げた。
「閣下、あれを!」
 ダムセルが指さす方に、灯りの滲む水門らしきものが見えていた。水原(カレル)と海とを区切る堤防に作られた、開閉式の水門である。これを抜けると海に出る。水原(カレル)とは全く違う外洋に。
「目的地というのは、まさか……」
 トルキルも声を上げた。
「海へと出るのでしょうか。その先に何かあるのですか?」
 ロウギ・セトが尋ねると、トルキルは(おのの)く声で答えた。
「海の果てには、今も未知の領域が広がっている。だが、憲兵隊の水上艦もそんな領域にまでは行かぬだろう。考えられるのはクリュス島だ。天候さえ良ければトルキル市からも見える島だが」
「そこに何があるのですか?」
 トルキルは、すぐには答えなかった。しばし後、ようやく決意したように口を開いた。
「クリュス島には鍛冶場がある。エルディナ人ではない炎人が働いている。だが、それだけではない。円形闘技場=COROSIAWがある」
「円形闘技場ですか」と、ロウギ・セトは繰り返した。
 トルキルは緊迫した表情でロウギを見て続けた。
「円形闘技場=COROSIAWは、重罪人が恩赦を掛けて死闘を演じ、それを酔狂な貴族達が見物する場所なのだ。生き残った者だけが恩赦を得られるという、古くから続く野蛮なしきたりだ。相手は炎人や海人、その混血などの巨体の蛮人達……。ロウギ・セト、お前が生き残るのは難しいかも知れぬ」

 水門が上がり、憲兵隊の水上艦と、曳航されたトルキル家の水上船が通り抜けると、水門は再び閉じた。
 やがて見えてきた島は、炎のように赤い山から、黒く不気味な煙が立ち上っていた。
 港のそばに、時代がかった石造りの円形闘技場=COROSIAWが見えた。

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