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三章の八 文花、『新生幻想即興曲F』を耳にする。

 お盆休みが終わってから、気分がやっと、通常のサイクルに戻ったある日。文花は、会社の帰宅途中で、ドラッグ・ストアーに立ち寄った。
 店内は、少し前に流行った唄が流れていた。会社内でも有線放送が流れているから、邦楽を聞かなかった文花も聞き馴染んでいた。
 日常品をたんまりと商品籠に入れて、レジカウンターに並ぶ。前に三人いる客が二人になったとき、『文子』が流れ始めた。

(ああ、IN MY HEARTの唄ね)

 文花は、ぷっと吹き出した。前に並んでいる年配の女が、不思議そうに見てきたので、急いで顔を引き締める。
 ああ、そういえば、と思い出した。高校三年のクラスメート、市原弘子が企画していた同窓会は、どうなったのだろうか。
 なぜだか、こういった場所で『文子』を聞くと、尾藤公季がクラスメートだったらしい話を思い起こした。
 なによりも、妙に、歌詞が入ってくる。あれだけクサい詞だと小馬鹿にしていたのに、今は頷いてさえいた。自然と、「ああ~フミコ ああ~フミコ」と口ずさむ。
 前に並んでいる年配の女が、チラリチラリと見てくる。文花は、急いで鼻歌に変えて、音量を低くした。
 ドラッグ・ストアーから出てまもなく、母親から電話がある。

「牛乳がなくなったから、買ってきて」という他愛もない依頼と「さっき自宅に、市原弘子さんから電話があったわよ」という情報がもたらされた。

「自宅近くのコンビニでいいのなら」と牛乳は快諾した。市原弘子の電話については、さっき偶然にも、頭の中をかすめたから、「後で電話しておく」と、違和感なく返事ができた。
 通りのスーパーが、まだ営業中であったため、一リットルの牛乳を二本買い、すぐに車へ戻った。
 スーパーの駐車場から出る辺りで、車内のラジオ放送が気になる。ナビゲーターが言うには、尾藤公季の新曲が、今日の十九時に解禁されたそうだ。今回の新曲は、クラシックのカバー曲で、三時間という短時間で詞を完成させたらしい。

「今回の新曲は、ショパンの『幻想即興曲』をアレンジした、叙情豊かなナンバーに仕上がりました。誰もが耳にした楽曲に、圧倒的な尾藤調。今までにない尾藤の魅力満載です。今月三十日のリリースです。それでは、お聞きください。尾藤公季で『新生幻想即興曲(エフ)』」

 文花は前奏だけでも、「うわっ、何これ」と、ラジオのボリュームを絞った。
 まず『幻想即興曲』自体が、文花の心に傷をつける。高嶋仁志との別れのやりとりの際に、バックで流れていた。まだ二ヶ月と経っておらず、まったく傷が癒えていない。
 そのまま真っ直ぐ、自宅へ向かえばいいのに、何かせねばならぬ衝動に駆られた。きっと、後味の悪いイメージを、自宅に持ち込みたくなかったのだろう。
 ちょうど、よく使うガソリン・スタンドが見えた。考えもせず、車を入れる。

「いらっしゃいませ」と、店員が誘導してくれた。車を停車させ、エンジンを切る。
 ドアを開け「レギュラー満タンで」と、店員にオーダーした。
 エンジンを切った辺りで、ガソリン・スタンド入店を後悔した。スタンド内は、さっきまで聞いていたラジオ放送を垂れ流している。自然と、車内の文花の耳にも入ってくる。

「愛しいヒトシ、ヒトシいー」と、サビの部分であろう。やけに騒がしく、ハイテンポで、唄と呼べる代物ではない。
 とにかく、メロディー・ラインが気に食わなかった。早く、給油作業を終えてくれないかと祈る。
 こういうときに限って、いつもの店員ではなく、いかにも(どん)くさそうな青年が、のっそのっそとフロントガラスを拭いている。

「ヒトシ、ヒトシいー」のシャウトが、耳にこびりつく。偶然にも、別れの唄で、女側から見た描写のようだ。
 文花は、両手で両耳を塞いだ。「聞きたくない、聞きたくない」と念仏のように口ずさんだ。

「お会計は――」

 鈍くさい青年が、のっそのっそとドア越しに促してくる。文花は、すぐに財布から五千円札を抜き取り、ドアを開けて店員に渡す。店員は、のっそのっそとお釣りを用意した。
 また「ヒトシ、ヒトシいー」のシャウトが響いた。両手で両耳を塞いでも、意地悪く聞こえてくる。
 お釣りを手渡そうとする鈍くさい青年が、不思議そうに見てきた。文花は、お釣りを奪うように受け取り、ガソリン・スタンドを後にした。
 自宅が、もうすぐそこ、という辺りで、車を路肩に停車させる。

(あの唄は、いったい何だったんだ……)と時間が経てば経つほど、疑問が増す。考えれば考えるほど、頭がおかしくなりそうだった。
 ふと、助手席の買い物袋が目に入る。牛乳二本も目に入り、母親の電話を思い出した。市原弘子に、今すぐ電話しよう。何かを連想させていって、行きつく先の忘却を望んだ。
 こういったときに限って、なかなか電話に出ない。とにかく気が短くなっていた。一旦、切ってから、すぐにまた架けた。コールが七回八回と続いてから、やっと繋がった。

「文花? どうしたの?」

 心外な返事にイライラした。(あなたが、自宅に電話してきたんでしょ)という思いが先に立つ。

「なんで、携帯に電話しないの?」

 少々怒り気味に、問い詰めた。

「だって、以前に架けたとき、全然、繋がらなかったものだから」

 的確な返事で、逆に腹が立つ。

「なんか機嫌が悪そうだから、手短に伝えるね。前に話した同窓会の件だけど、再来月の十五日、お昼の開催で調整中だから。詳細は、また後ほどにね」

 確かに、手短な連絡ではある。機嫌が悪そう、と指摘してきた点は、否定する暇もなかった。

「文花は、絶対に来てよ。文花が来なかったら、成り立たないんだから」

 勝手な義務感を押し付けて、弘子は電話を切った。
 文花は、「知らないよ、そんなもん……」と愚痴る。
 結果的に、弘子の電話は、苛つきを増大させるだけだった。

(もう、今日は帰ろう……)と沈み込む。
 すぐそこの、自宅までの車の速度は、よろよろと自転車並みになった。

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