一章の八 矢場町で市原弘子と会う羽目に。
自宅のリビングのソファーほど、居心地のいい場所はない。だらんと背凭れしたり、寝転んだりして、時には眠りこけたりもした。
この頃は、ちょっと物思いにふけると、高嶋仁志のことばかりが頭の中に浮かぶ。
実質、高嶋仁志に振られていた。別れ話の途中で逃げたから、完全に、ではなかった。だが、あの様子だと、挽回は難しいだろう。
日が経てば経つほど、分からなくなる。なぜ突然、別れ話になったのか?
付き合っているのだから、考え方の違いは出てくる。高校三年から付き合っていたので、把握しているはずだった。
正直なところ、考えたくなかった。保留にしておいて、先延ばしにしたい。大学時代から、仁志中心の人間関係になっていたから、プライベートで架かってくる電話等も、一切、遮断したかった。だから休みの日は、スマートフォンの電源を切っている。
家族は、文花の様子に気づいていた。特に母親は「いい年頃の娘が、家でごろごろして、みっともない」と文句を垂れる。
「何かあったのか」とストレートには聞いてこないが、そうやって促してはきていた。
仁志を何度か、家に連れてきた。母親は、仁志を気に入っていたから、尚更だろう。
自宅の電話が鳴った。コールが続いても、文花は無視をする。どうせ、セールスか何かだろうと踏んでいた。
遠くから「何で出ないのよお」と母親の声が聞こえる。文花は、鼻でフンと笑った。
「ちょっと待っててね」
母親が、声を変えていた。すぐ電話の子機を持って、リビングにやってくる。
「高校のときのお友達で、イチハラさんって子だけど……」
母親が、不思議そうにする。文花は、首を傾げながら子機を受け取った。
「元気だった? 携帯のほうが通じなかったから」
電話の向こうは、あんまりにも馴れ馴れしい。
(イチハラ、イチハラ……)
全然、思い出せない。しかし、誰だっけ? とも言えなかった。
「ねえ、久しぶりに会わない? ミツキも来るって言ってるしさ」
ミツキで思い出した。ミツキは、
高校時代の数少ない友人が満月で、弘子は、それほどでもない。
高校卒業後、満月と会おうとすると、なぜだか弘子がくっついてきた。去年も満月と会おうとしたら、弘子も来る話になり、結局のところ、ご破算にした。
「いつ? 明日だったら、いいよ」
無理を言ってやった。今現在、何の職業に就いているのかは、分からないが、「明日」と指定されて即答できる人間なんて、そうはいない。
「明日ね、分かった。どこにする?」
予想外だった。明日はさすがに急すぎると、断られると踏んでいた。
「矢場町の《ラシュール》で、いい? 前に行った喫茶店だけど、覚えてる?」
なんか、やけになっていた。ただ、どうせ明日の日曜日も、このままだと自宅でごろごろするだけだ。まあ、ちょうどいいか、と考えるようにした。
翌日、栄の街に繰り出した。
仁志と別れ話をする前には、ぶらっとショッピングをしたかった。ショッピングをすれば、別れ話をする前の心境に戻れる気がした。何の悩みも苦しみもない、あの時期に。
まず、満月たちとの再会を楽しもうと、心を切り替えようとした。
訪れた喫茶店 《カフェ・ラシュール》は、ここいらに足を運んだ際には、必ず立ち寄る。パスタもコーヒーもおいしい、文花お気に入りのお店だ。
約束の時間は午前十時。文花は三十分前に来て、後で連れが来るからと、四人席に腰を下ろす。
コーヒーだけを頼んだ。モーニングを頼むには時間が遅い。お昼を食べるには早すぎる時間だった。
なぜだか日曜なのに、お客が疎らな気がした。
そんな中、向いの席の男性客二人から、「すげえな、あの娘」と、ひそひそ話が聞こえた。隣の席のカップルからも「うわ、キレイ……」と噂される。他からも、視線を感じた。もう、慣れっこだった。
正確にいえば、四十分も待った。差し引きを考えれば、弘子に十分も待たされた。
「ごめんごめん。電話すればよかったね。それと、満月は今日、来れなくなったよ」
さらりと、落胆する情報を、しょっぱなから挟んできた。文花は、「来れるの?」と、事前に満月本人に、電話か何かで確認すればよかったと悔いた。
「それにしたって、相変わらず綺麗ね」
慣れっこだったが、弘子ぐらいの間柄の人間から称されると、どう反応していいか困る。
「なんか、今日は用件があるんでしょう?」
さっさと用件を聞くのは失礼だと思ったが、反応に困って話題をすり替えた。
「そうなんだ、同窓会をやろうと思うんだ」
意外と、まともな返事に安心する。実のところ、以前に会ったときに、怪しい商売の話をされた。昔からある、ねずみ講と大差なかった。
「文花が来るとなったら、男は、みんな来るからね」
弘子は薄ら笑いをする。文花は、目を瞑ってやり過ごそうとした。
「それに、文花は覚えてる? 尾藤公季。今、話題になっている、あの尾藤公季だよ。卒業アルバム見て、やっと、ああ、こんな奴いたかなあっていう程度でさあ」
なんか、一方的に話をされた。文花は、なぜ突然、「ビトウコウキ」なる人物の名前が出るのか、まったく理解できない。
「誰、ビトウコウキって?」
文花は、何の意図もなく尋ねた。弘子は、「またまた、知ってるくせに」と面白がる。
「今ヒットしている『文子』の、尾藤公季だよ。本当に知らないの?」
一転弘子は、世捨て人でも見るかのように、気味悪がった。
「ビトウコウキの『ふみこ』って、どっかの和菓子か何か?」
文花は、真剣に聞く。弘子は、「うっそ、だあ……」と信じてくれなかった。