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02

「山田くん、キスは好きな人とだけにしておきなよ」

「市子さん、なに言ってるんです?」

 彼の呆れた口調に私はむっとする。おかげで涙も止まって、いつもの調子が戻ってきた。

「あのね、何度も言うけれど、ここは日本なの。百歩譲って頬やおでこはいいとしても唇はなし。いくら告白されて嬉しくても、その気がないのにキスはしないの」

「ちょっと待ってください、市子さん、俺のことどんな人間だって思ってるんですか。いくら外国暮らしが長くても好きじゃない相手にキスなんてしませんよ」

「だからね、好きじゃない相手とかじゃなくて」

 どう説明しようか悩んでいると、前触れもなく再び唇が重ねられた。私にとっては完全な不意打ちだったものの、支えるために回されていた彼の腕は、いつの間にか逃げないように力が込められていた。

 ただ重ねるだけ、けれど長くて息が苦しくなる。一瞬だけ離れて、無意識に酸素を取り込もうとするも、すぐにその口を塞がれる。

 頬に手を添えられ、何度も角度を変えては繰り返される口づけに私の心臓は壊れそうだった。

「どう言ったら伝わります? こんなこと市子さんにしかしませんけど」

「……な、んで? だって山田くん、好きな人がいるのに」

 ようやく離れた彼の唇から紡がれた言葉に私は小さく反論する。すると彼は訳が分からないという表情を作った。それはこっちの方なのに、

 話がさっきから進まないので、私は自分から白状する。

「山田くん、西野さんの告白を『何年も前から想い続けている人がいる』って断ったんでしょ? それに松村さんに『俺って恋愛対象外?』って訊いてるのを聞いちゃって。だから松村さんのことがずっと好きなんだって……」

 そこまで言って、彼の腕の中にまた閉じ込められた。触れたところから伝わってくる体温が心地いい。とはいえ、自分から彼の背中に腕を回すことはできず、私は硬直したままだった。

 ややあって彼の切羽詰まった声が耳に届く。

「誤解されるような真似をしてすみません。でも西野さんに言ったのも、はるかに訊いたのも、全部市子さんのことなんです」

「え!?」

 今度は私が目をぱちくりとさせた。でも、彼は好きな相手について『何年も前から』と言っていたような? 私と山田くんは、出会ってようやく一年経ったくらい……だよね?

 その考えは顔に出ていたらしい。山田くんは私の頬を撫でて優しく微笑むと、とりあえず家に上がるよう提案してきた。

 たしかに、いつまでも玄関で突っ立っているのも辛い。躊躇いつつも私は、彼に倣って靴を脱いだ。

 通されたリビングのカウチソファに私は勧められるままに遠慮がちに座る。私の家にあるものよりも、よっぽど上等なものだった。

 さらに彼はコーヒーを淹れてくれたので、素直にお礼を告へてカップを受け取る。隣に彼が座ったタイミングで、私は気になっていたことを口にした。

「私、山田くんとどこかで会ってるの?」

 その質問に、山田くんはこちらを見て笑った後、正面を見据えた。

「市子さんは覚えてないと思いますけど、もう五年も前の話です。市子さんが大学四年生の夏、ここで研修がてら週末のイベントの手伝いをしていましたよね?」

 私は懸命に記憶を辿る。たしかに在学中からここでアルバイトをしていて、内定をもらったこともあり、夏の週末はイベントの手伝いをしていた。

「そのときにいませんでした? 市子さんに向かって、『営業に向いてない』なんて生意気なこと言って、あげく苗字をおてあらいさんって読んだ奴が」

「……え、っあ!」

 茶目っ気混じりに言われたその言葉で、頭の底に眠っていた記憶が一気になだれ込んできた。

 掻いた汗さえすぐに蒸発してしまいそうな暑い夏の日、お盆中の週末キャンペーンは盛況をみせ、店内外にお祭りの露店を模したイベントブースが並ぶ中、店舗は多くの来場者を迎えていた。

 家族連れがメインで新型車の公開や試乗サービス、無料点検などあちこちで対応に追われていたとき、私はたしかに“彼”に出会った。

※ ※ ※

『君、顔色悪いよ? 大丈夫!?』

 少年、と呼ぶにはいささか大人びていて、けれど青年と呼ぶには、どこかあどけなさを残していた。背が高く、くっきりとした目鼻立ちは、そこらへんのアイドルよりもずっと目を引く。

 色白で全体的に色素が薄い彼は、照りつけるような太陽の元、今にも倒れそうに思えた。

『大丈夫です』

 そっけなく返されたにもかかわらず、私は強引に彼を休憩用のテント下まで誘導して座らせる。おとなしく指示に従うということは、やっぱりどこか調子が優れないんだと確信した。

 とりあえず、と配布用のスポーツドリンクを手渡したところで、彼から意外な言葉が投げかけられた。

『俺、お客じゃありませんけど』

『だから?』

『だから、親切にしても車は買いませんよ』

 ペットボトルに口づけた彼の横顔に、私はつい吹き出す。すると彼はあからさまに面白くなさそうな顔をこちらに寄越してきた。

『なんで笑うんですか?』

『いやいや、そんな打算的じゃないよ』

『ださん? あなたの仕事は車を売ることでしょ?』

 年下とはいえ、固い敬語でかまえた言い方なのが少し気になった。でも、あえてそこには触れずに私は微笑む。

『そうだね。でも、それとこれとは別だよ』

『なら、俺の見た目ですか?』

 間髪を入れずに続けられた言葉に私は目が点になる。たしかに、彼の見た目は十分に魅力的だ。だからと言って、それをこんなストレートに自分で言う?

 とはいえ、逆にそういう内容を警戒して口にするということは、彼が容姿のおかげでいくらか不快な思いをしてきたのが推察できた。だから――

『大丈夫、そんな下心はないよ、年下は対象外だから』

 安心させるために大袈裟な言い回しで告げて、私はわざとらしく辺りを見回す。この暑さからか、外にいたお客さまの多くは中に入っていた。

『お連れさまは? 心配してるんじゃない?』

『どうでしょう。元々、俺の居場所はここじゃありませんから』

『え、なに。君、どこか違う星から来たの?』

 おどけて言ってみせると、彼は微妙な表情を作ってこちらを見た。そして、おもむろに立ち上がる。

『なに言ってるんですか。もう行きます。ありがとうございました』

『ねぇ、車嫌い?』

『嫌いです。乗るつもりもありません』

 本音かどうかは置いといて、迷いなく拒絶する物言いだ。そして、こうして改めて並んでみると彼は私よりも背が高く、見上げる形になった彼の表情は、さっきまでとはまた違う印象を抱かせた。

 そこである考えが閃いて、私は近くの新車紹介用のブースから最新のモデルチェンジした車のカタログを一部取った。そして彼の元に急いで戻ると、迷いなくそれを彼に差し出した。

『はい、これあげる』

『俺の話、聞いてました?』

『聞いてたよ。でも君が私の仕事は車を売ることだって言ったから。それに、今は嫌いでも未来は誰にも分からないよ? 通勤で必要に迫られるかもしれないし、好きな人ができて乗せてあげたくなっちゃうかも』

 わずかに眉を寄せて、彼の綺麗な顔が歪む。影になっているとはいえ、コンクリートに反射した太陽の熱は、直接的ではなくても私たちに熱をもたらしていた。

 私も暑いのは嫌いだ。今日、外の担当になって正直、落ち込んだりもした。けれど……

『私ね、来年からここで働くのが決まっていて、今日は研修も兼ねて手伝いで来てたの。営業を希望しているけれど、まだ実際に営業はしたことないんだ。だからね』

 私は受け取ってもらえないままでいたカタログをさらに彼の前に突きだした。

『私にとって、君が初めてのお客さまだよ。これから始まる私の長い営業人生の中で、貴重な初めてを君にあげよう』

 えっへんと年上ぶってみれば、彼はわずかに目を見張った。そして、視線を逸らしながらため息をつく。

『けど、初めての営業相手に失敗ですね。営業、向いてないと思いますよ?』

『最初から成功する人なんて、なかなかいないよ。でも私は今日、初めてのお客さまに、君に会えてよかったよ。来てくれてありがとう』

 居場所がない、と言った彼が抱えている事情なんて知らないし、訊くことでもない。でも、私は彼に会えてよかったと思う。もう二度と会うことがなくても。

 単純に、そんな気持ちが少しでも伝わればいいと思った。彼はしばらく難しそうな顔をして視線をどこかに一点集中させる。

『おてあらいさん、ですか?』

『これで“みたらい”って読むんだよ。ほら、今日来てよかったね。ひとく賢くなったでしょ?』

 どうやら彼が見ていたのは私のネームプレートだったらしい。ウインクひとつ投げかけると、彼は表情を崩さないまま、私の手にあったカタログを手に取った。私は驚いて、一瞬反応に困ってしまう。

『一応、もらっておきます。仕事の邪魔をしてすみませんでした』

『いーえ。でも自分に自信があるのっていいことだよ。営業に向いてるよ!』

 それに返事はなかったが、私は彼に視線を送った。立ち去る彼の後ろ姿は背筋が伸びて綺麗だった。

 訊いてくれたなら、私も名前を訊いておけばよかったかな。少しだけ後悔して、私は自分の仕事に戻ったのだった。

※ ※ ※

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